2014.04/12 STAP細胞の騒動における貢献と自己責任
STAP細胞の騒動を見ていると貢献と自己責任の観点が軽く扱われているように思われる。公的研究機関で科学の研究に携わる人は人類への貢献を第一に考えて頂かなければならない。
このような姿勢は、例えば企業の技術開発現場において、お客様に貢献するために開発を行えと教育される。技術開発の成果がお客様に受け入れられた結果、商品が売れ企業の利益があがり技術者が評価される、と教えられる。また、貢献する過程において自己責任の原則が成熟した大人の常識とも指導される。
今回の騒動は、人類に大きく貢献するかもしれない研究論文に掲載された2点の図について科学の研究における初歩的原則を破ったため起きている。この点は理研の調査結果で単純ミスで到底説明できないと明確にされた、誰もがその調査結果を認める言い訳のできない事実である。野依理事長が未熟な研究者と表現したのは、その表現以外に研究者の罪を許す言葉が見つからなかった優しさからである。野依理事長とは、そのような優しい方である。(注)
もし、貢献と自己責任を意識していたならば、それに値する判断と行動で2点の図を扱わねばならず、研究者の記者会見ではこのあたりについて趣味の手芸を美しく仕上げる程度の説明しかされなかったのは残念である。
その結果、騒動が起きたのだから研究者はまず自己責任の原則に則って反省をしなければいけないが、会見では責任感よりも、200回作成しました、と成果を訴えることに終始していた。それは騒動に対する反省の姿勢というよりも実験結果の正しさを訴え自分の正当性を主張する姿勢に見えて、「誠実さ」を表現しようとしたお詫びの言葉もそのため軽く聞こえた。
パワーポイントから図を取り出したので間違えた、とミスの過程を説明していたが、国民の税金で研究された成果を軽く扱い、データの整理を日常やっていない、と白状している説明となった。貴重な科学データを扱う研究者には納得のいかない説明であり、そこには国民の税金を使い研究を進めている責任感を感じることができなかった。
企業では5Sや見える化が浸透し、開発過程のデータは共有ファイルサーバーで管理されプロジェクトに関わる人間が誰でもアクセスできるようになっているところが多い。リーダーの立場であれば、研究データの管理に細心の注意を払うべきで、それは組織への貢献につながる仕事のはずである。
貢献と自己責任そして自己実現は働く意味において重要な概念だが、企業では新入社員訓練が教育の機会になっている。公的研究機関ではどのように社会人一年生を指導しているのであろう。しかし、これらは学生時代からドラッカーなどの著作を読めば学ぶことができる概念であり、知識人であれば身につけていなければならない常識である。弊社ではかつて入社前のセミナーとしてその知識を公開した。
(注)その後山中博士は30前後の研究者は未熟である、とどこかの席で話されたが、それでは困るのである。今の大学教育のお粗末さを認めているようなものである。かつて鬼軍曹が闊歩し厳しく学生を指導していた時代があり、その時代は毎週行われる研究室の報告会でも厳しいデータの吟味が行われていた。それによりデータの扱いを学んでゆくのである。今は大学までもゆとり教育になったのか?
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