2014.11/13 文部科学省有識者会議の件の続き(3)
高度知識社会では、自己実現の努力を怠れば過去に身につけた知識はすぐに陳腐化する。高度知識社会は、知識量が学歴と相関すると信じられていたので学歴社会となったが、実際は知識歴社会である。
昨日の若者の例のように、学歴が中途半端でも知識獲得を継続的に行っていれば知識歴で武装できる。知識歴を面接試験で見抜くことができない面接官が多いので学歴社会になったが、もし人物本位で面接試験が行われたならば、現在の大学生の学習状況では学歴との相関は低くなると思われる。
ドラッカーは大学入学前に社会で働き、その後大学で学んだという。恐らく大学の知識の必要性を感じたためと思われるが、受験勉強だけで大学に進学した学生の中には、自己実現の目標が定まっていないためにどのような知識が必要か分かっていない人が多い。社会である程度実務を研鑽すると知識不足を痛感するはずだ。
社会に開かれた大学の一つの役割は明確である。このような労働者の知識をいつでも高められるように社会に貢献する活動である。この活動から大学は生き残りのためにスタッフやカリキュラムを見直すはずである。社会に解放できる智を持たない大学は、社会人から見放されるだけでなく学生からも敬遠される。
実際にその様な活動を始めている大学も出てきた。文部科学省が各大学にこのような活動を義務づければ、G型とL型に分類しなくとも自ずと大学は、その中に有識者会議で出されたL型機能を取り込んでゆく。
大学が自らL型機能を取り込む場合と、文部科学省が指導して大学をG型とL型に分類して大学改革を進める場合とでは、大学の姿についてゴールが変わる。前者は大学とその立地する地域とのコラボレーションで大学が変わってゆくが、後者では大学の勝ち組と負け組という姿に変貌する。
文部科学省で将来の大学運営指針が決まる前に大学は自ら変わる努力をしなければならない。 www.miragiken.com で将来の大学の姿を提案するのは、手元のシナリオでは数年先になる。もしご興味のある方は事前に問い合わせてください。
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