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2015.06/10 私のドラッカー(7)

「断絶の時代」(1968)P.F.ドラッカー(上田惇生訳)より
「組織社会を自由な社会にするには、一人ひとりが自らの責任及び組織の責任として、社会への貢献の責任を認めなければいけない。」
「人生から何を得るかを問い、得られるものは自らが投じたものによることを知ったとき、人は人として成熟する。組織から何を得るかを問い、得られるものは自らが投じたものによることを知ったとき、人は人として自由となる。」

 

 これは、社会と組織への責任を述べた内容からの抜粋であるが、組織社会で働く意味でもある。現代の働く意味は、「貢献」と「自己実現」にあると「プロフェッショナルの条件」でドラッカーは述べている。そして組織で働くときに自己責任の原則を知ったときに自由になるという。

 

 今から10年前に豊川へ単身赴任したが、引っ越しを手伝ってくれた家族は、楽しそうにしているのが不思議だといった。自分以外に誰も解決できない仕事をする楽しさだ、と説明したが、できるかどうか不安ではないのか、という質問になった。

 

 外部の業者に技術が無ければ失敗するだろう、そして自分が責任をとることになるが、外部の業者は一流だから、恐らく当方のアイデアを採用してくれて、仕事は成功するだろうと、見通しを語った。しかし、赴任してすぐにその答えは出た。外部の業者は一流と言われていたのでその判断に期待したが、当方の提案したアイデアを採用してくれなかったのだ(注)。

 

 外部の業者が当方のアイデアを否定したので、一年後の結果はすぐに見えた。責任をとり早期退職するつもりで、上司に「申し訳ない」と頭を下げた。「ほかに方法は無いのか」と言われたので、「納期も迫っており、外部の業者に依存している限り、無い」と答えたら、半年以内に子会社でコンパウンドのラインを建設することになった。フローリーハギンズの理論など上司に説明しても不安を煽るだけなので、「中古の二軸混練機が一台あれば結果にコミットできる」と答えた。

 

上司は組織長として当方の提案内容を受け入れてくださった。赴任して間もないリーダーの提案を受け入れてくれるほど度量の大きな組織長であったことが幸いした。この信頼に応え成功することは組織への貢献である。

 

 カオス混合の実用化は初めての体験であったが、高分子技術者を目標とした自己実現の機会として最適なテーマだった。ゴム会社で高純度SiCの事業化を目指したときにはセラミックス技術者を目標としていた。そしてその生産ラインを半年で完成させた。ただしその事業化は6年かかった。今回は事業が目前でつぶれるかどうか、という状況で、最大の問題はフローリーハギンズの理論だった。

 

しかし、単身赴任する前にポリオレフィンとポリスチレンを相容させることに成功していたので、フローリーハギンズの理論など怖くはなく、PPSと6ナイロンをプロセシングで相容できる自信があった。このとき、新しい組織へは管理者として赴任したが頭の中は技術者モードになっていた。グループのマネジメントはすべて部下のマネージャーに任せた。

 

休みはほとんど自費で東京へ帰る日常となった。センター長の決裁範囲の価格で購入できた中古の二軸混練機を根津にある某業者にあずけ、カオス混合の生産機を組み立てていたからだ。ここで業者とともにその機能を勉強することになった。センター長の信頼に応えるため新たな分野を短期に学ぶ必要が生じたが、それは貢献の手段でもあった。

 

(注)一流だから採用しなかった、という解釈もできる。しかし、一流だから科学と技術の世界観が異なることを理解している、と期待していた。科学は単なる哲学である。一方、技術は人間の営みである。科学では論理の厳密性が重要であり、科学で完璧にできる証明方法は否定証明だけだ、と言ったのはイムレラカトシュである。換言すれば科学的な否定証明がなされていない現象では実現できる可能性が残っている。ポリオレフィンとポリスチレンが相容し透明になった(15年以上経過しても透明である)ことで、フローリーハギンズの理論が完璧な理論でないことを証明できた。すなわちフローリーハギンズの理論を基に「否定証明」を構築し、カオス混合の結果を否定することはできないので、そこに属する現象の機能については、フローリーハギンズ理論で、できるともできないとも考察できない。機能を実現できるようにするのは技術である。ただし、技術でも科学で完璧に否定された現象に即した機能をそのまま利用することはできないので、そのときはほかの代替できる現象から機能を持ってくることになる。これは技術開発の方法論。科学と技術は世界観が異なり、技術の世界では科学は一手段あるいは方法の一つである。また、科学の世界ではモデル化された現象を実現するために技術を使う。技術で科学を手段として使うときに問題は発生しないが、科学の世界で技術を使うときには、その技術が科学で証明されていないときに問題が発生する。科学と技術は論理学の必要条件と十分条件の関係に似ている。ここを正しく理解していないとうまく問題解決できないばかりか大騒動を引き起こすこともある。最近の有名な事例は、STAP細胞の騒動である。科学で完璧な否定証明ができていないこの現象について、未熟な科学者が偶然成功した。未熟な科学者は技術として完成させる道を選べば良かったが、人生経験が不足していた。科学の世界に巻き込まれたので、とんでもない混乱となったのだ。マウス作成にES細胞を使用していたことを窃盗罪という人間の営みとして訴える科学者も現れた。熟練した人生経験豊富な科学者は、研究の世界に時々人間の営みをそのまま持ち込んだりするが、それはあくまで成果を生み出すためだ。ここで窃盗罪を持ち出してどのような成果を期待しているのだろうか。ちなみに科学の世界に技術の世界観を持ち込みノーベル賞まで受賞したiPS細胞の成果は、今の時代にヒューマンプロセスの見直しが重要であることを示している。

カテゴリー : 一般

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