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2015.06/18 私のドラッカー(11)

「道具としてのテクノロジーと、文化としてのテクノロジーが一つのものになるのが、実に「仕事」においてである。」とドラッカーは、「傍観者の時代」(1979)で述べている。すなわちテクノロジーをものの行い方やつくり方としてとらえ、かつ人と社会に関わるものとしてとらえている。

 

科学では論理の厳密性が要求され、真理をねじ曲げ新たに捏造することは許されない。しかし、テクノロジーでは人類に貢献できるように臨機応変、柔軟に変更することは許されるのだ。21世紀はじめに「コト」の時代であることが叫ばれた。すなわち新しい「モノ」ではなく「コト」を考えろ、といわれた。

 

しかし、せっかく新しい「コト」が提案されても、従来通りの科学に隷属した技術開発を行っていては、新技術は生まれない。科学におけるものの行い方では、論理で制御された行い方しか許されない。その結果、科学的に証明される当たり前の技術だけが生み出される。

 

科学で未解明の機能は、たとえそれが有用な機能であっても使うことが禁じられる。これでは技術の進化は科学を追い越すことができないだけでなく、科学の進歩が止まったとたんに技術の進歩も停滞する。

 

「マッハ力学史」によれば、技術は人類とともに生まれ進歩してきたが、科学はニュートン以降に生まれ進歩している。確かに技術は科学のおかげで20世紀に急速な進歩を遂げたが、あくまで科学が便利な道具として使われ、それが急速に進歩したからである。その道具の進歩が遅くなったなら、科学以外の方法も活用し、人類は技術を進化させなければいけない。

 

人類がこれまで価値を生み出してきたのは技術の進化のおかげで、その進化を止めれば新たな価値を創造できなくなる。「コト」で価値が創造されたなら、その「コト」を実現するために新たな技術開発も必要だ。非科学的方法論が重要な時代になってきた。

 

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