2016.01/31 「あの日」を読んで(2)
この本には、幾つかの誤解で書かれている部分がある。少なくとも、人生を生き生きと楽しく生きるために、という視点と、知識労働者としての視点、その他諸々の視点から眺めてみて、誤解が多い。時系列的な事実は正しいかもしれないが、それぞれの事象のとらえ方と対応において「まずいなー」という部分がある。塞翁が馬と言う格言があるように、人生で遭遇する事象の捉え方次第でその対応の仕方は変わり、その後の人生まで左右される。
例えば、退職前の5年間豊川へ単身赴任したのはサラリーマンであれば誰でも左遷と捉えられる状況だった。しかし、仕事の内容が自分以外では、日本中探しても誰も完成させることができない、難しい仕事であることがわかっていた。それゆえ、周囲は失敗すると思っていたことが露骨にわかる事象もあった。そのような単身赴任だったが、引っ越しの時に撮影した家族の写真が笑顔であふれていたような、楽しさいっぱいの対応をした。結局仕事は大成功だっただけでなく、私事も何もかもうまく流れた。
但し、長いサラリーマン人生で何もかもがうまくいったのはこのときだけで、むしろ大失敗のほうが多いサラリーマン人生であり、上手な世渡りができているわけではない。ゆえに、適切なアドバイスにならないかもしれませんが、若い研究者がこの本を読んで誤解するといけないので、当方の意見を書いてみたい。
まず、「第15章、閉ざされた研究者の道」では、彼女の研究者の道が閉じたことになっているが、決してまだ閉じてはいない。少なくともこの本を読む限り、著者自身の努力で、また道は開ける可能性が、さらに現在の当方よりは、明るい研究者の未来が残っている。もし努力の方向が分からなければご相談ください。
ところで、この本では博士の学位が剥奪された、と表現されているが、博士の審査に落ちただけである。もともといい加減な審査だったので、審査をやりなおしたら、その大学では不合格、と言うだけである。この結果については、世間もその大学にあきれていると思います。少なくとも、当方は、なんていい加減な大学だ、と思いました。当方に限らず、まともな学位審査を受けた経験のある人ならば、そのように感じていると思います。
そんな大学にこだわらず、研究者を目指したいならば再度学位に挑戦すればいいだけです。偏差値の高い大学が良い大学ではないのです。真に学生のことを考えてくれる大学が良い大学、あるいは良い先生なのです。その点で、中部大学は、少なくともW大学や国立X大学よりも良い大学でした。語学も含めフルコースで試験をしてくださり、すでに国立X大で仕上がったと思っていた学位論文にも親身に赤ペンで修正してくださいました。国立X大の先生から指導を受けたのですが、その内容では不十分だったのです。その大学が目指している学位の目標レベルが大変高かった。
当方は、高純度SiCの反応速度論を基に学位を国立X大学で取得しようとしたら、自分の発案でデータ収集し研究を進めたという理由で、小生が第一著者となるべき論文を第二著者とされ(注)知らない間に投稿されたり、挙げ句の果ては、主査の先生が転学されたために他の先生が主査になられ、「写真会社からも奨学金を持ってきてください」といわれたので、論文はすでにまとまっていましたが、その大学で学位を取ることを当方から辞退しました。
著者もW大学などあきらめればよいのです。立派な研究論文を書かれているのですから、さらに研究論文を蓄積して、10報あればどこかの大学で十分学位取得できるのではないかと思います。努力し、常に社会に貢献しておれば、必ず誰かが助けてくれます。但し最初から援助を当てにしてはいけません。自己責任で誠実に努力をしておれば、必ず道が開けます。
研究者であれば、その研究成果に必ず注目する人が現れます。しかし注目されるような研究ができなければ、自ら学位をあきらめなければいけません。博士とは、自ら研究テーマを企画し、社会に貢献できる成果を出せる人に与えられる称号です。しかし日本のアカデミアにはいい加減な審査を行うところがあるので,そのような環境で学んだ著者は、茶道や華道の免許と誤解しているのかもしれません。茶道や華道の免許であれば剥奪という表現も当てはまるかもしれません。
2000万円かけて手作りの測定器をしあげて実験を行った大切な研究について、第二著者にされた出来事はショックでしたが、今は、実験をしていた時には面識の無かったその先生が第一著者になりたくなるようなすばらしい研究ができた、と自慢しています。それは研究を取られたという意味ではないか、と言う人もいますが、当方はただ笑っているだけです。
貴女もSTAP細胞の研究を完成させて、その研究成果を学位としてまとめ、W大学以外の大学に審査をお願いすればよいのです。W大学はノーベル賞級の学位を審査できない大学と笑い飛ばせばよいのです。大学改革が進んでいる時代で、満足な学位審査をできない大学はいくら偏差値が高くても、研究機関としての地位は下がってゆくと思います。
(注)
1.そもそも第一著者は、実験そのものに何も関わっていなかった。実験終了後4年ほど経過し、学位論文のまとめの指導を受けている過程でこのようなことが起きている。学位を取得するために我慢すればよかったが、金銭の要求も含め、足下を見たあまりにもえげつない姿勢に我慢できず、当方から辞退した。今では辞退してよかったと思っている。おそらく氷山の一角だろう。
2.w大学については、リコールした車を修理せずに放置した自動車メーカーのような対応で、車ならばそのようなメーカーは法的処分を受ける。学位には自動車のリコールのような規則が無いので、W大学の好き勝手な運営で著者の状態が置かれているだけである。大学の中から注意を喚起する声があがらないのもおかしい。当方がW大学のそれなりの立場であれば、しっかりと教育指導し学位を取得できる方向で著者を指導する。コピペが発覚したので審査をやり直したということは、世間も認めている。ならば、コピペ部分が修正されたならば、学位授与と言う結果を期待するが、車検が切れたのでアウトという扱いになっている。車検が切れた場合には、一般道で運転はできないが動作はするのである。新車に近い動く車を気に入らないからメーカーが廃車にする、というのは、今の時代感覚から見て無責任極まりない。それともコピペ以外の大きな問題が出てきたのだろうか。例えば適当に審査をやっていたとか。もしこのような理由であればW大学の学位取得者はその実力を信用できないことになる。サラリーマン生活を振り返ると何となく納得できるが。ならばコースドクターの実力を磨くように指導するのが大学の使命である。
3.中部大学の対応はすばらしかった。大学には研究機関としての側面と教育機関の側面があり、それがわかっていない大学があることも事実である。本来は大学の受験生もその当たりを考慮し、W大学のような大学を敬遠すべきだろう。
4.著者の学位の問題は、社会的影響を考慮すると主査の先生の判断と言うよりもW大学の姿勢と解釈すべき問題である。すなわち彼女の学位は剥奪されたのではなく、「あの日」に書かれている事実とは、授業料まで支払った生徒の教育指導の放棄、あるいはW大学に入学した実績を考慮すれば、育児放棄に近いことがなされた状態なのである。W大学を人間に例えるならば、剥奪と言うことではなく、人道的に許されない行為である。
5.ちなみに教育機関としてのW大学のあるべき姿とは、これだけ有名な事件の学位論文でもあるので、指導の過程を公開し、無事学位取得まで至るように指導すべきだった、と思います。中部大学における学位授与式などの様子はすでにこの活動報告で書いているが、涙が出るような感動と社会に貢献できるような仕事を目指す意欲をかき立てるようなすばらしい式だった。その人の行動にも影響を与えるような指導ができてこそ教育機関と呼べるのである。当方の学位論文の内容については、その研究成果となる事業が30年近く継続され、さらにその事業は日本化学会から技術賞まで受賞しているのでどこでも審査にとおった、と思っているが、中部大学で学位を取得できたことを誇りにしている。
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