2016.07/28 観察は、科学者専用の行為か(2)
科学の無い時代でも観察という行為は行われていた。また、科学誕生以前の人類の遺産のほとんどは観察の成果ともいえる技術である。科学がもうすぐ生まれるかもしれない時代に活躍したニュートンも観察でニュートン力学を完成している。
科学では観察という行為は必ずしも必要ではないが、科学の無い時代の技術開発では、観察は最も重要な行為だったに違いない。また観察という手段が無ければ新しい技術を生み出すことができなかったのかもしれない。
だからガリレオ始め現代の科学者にも匹敵するような科学の無い時代の哲学者の遺作が、どのような手順で発明されたのか、観察と言う行為を手掛かりに思いを巡らすことができる。
彼らが観察したかもしれないオブジェクトを仮説により設定し、その仮説の正しさを遺作の中に求め、彼らの思索活動を研究して、といった物語は多い。
マッハ力学史はそのような名著の一つであるが、この名著を何度も読んでみると、科学的ではない方法でも科学と同等以上の成果を出せる事実が浮かび上がってくる。
そして、自然現象を観察し、そこから人類に有用な機能を取り出す現代の技術開発の活動に対して、科学は分析や解析の手段を進歩させているだけで、その方法論に有用な提案をしていないのではないか、という疑問がわいてくる。
すなわち科学は人類に必要な道具の改良スピードを速めることに多大な成果をあげたが、社会のイノベーションを起こしてきたのは技術者だと思う。
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