2016.08/09 観察は、科学者専用の行為か(9)
電気炉が暴走したときに、観察結果をつぶさに報告している。例え、50℃程度のずれはPIDの設定が合っていないときには発生しうる現象、と分かっていても異常として報告した。
PIDが合っていないときには、100℃以上もオーバーシュートする場合がある。しかし、当方が新品の電気炉を初めて使う、という遠慮と不安から頻繁に電話をかけた。
T先生に早く実験室に来て、電気炉の暴走に対処していただきたかった。ゆえに観察して分かることはすべて報告した。当方は不安だった。だから電話を50℃上昇するごとに入れている。温度が高くなった以外は、観察結果は同じだが、少なくとも当方の声のトーンは変化していった。それがT先生に非常停止の決断をさせた。
もしT先生が実験を最初からすべて行われていたら、異なる実験結果になっていたかもしれない。観察結果にどのような印象を持つのかは、観察者の経験に依存する。あるいは、観察者が立てた仮説にも左右される。
電気炉の暴走では、不適切なPIDという仮説をT先生はもたれたが、その後の当方の慌てた様子から、非常停止を決断している。前者は科学的な判断だが、後者は非科学的な判断である。尋常ではない報告から直感で非常停止の指示を出している。
観察結果の最初の報告では、経験から判断した仮説により誤った指示をしている。このようなことは日常の仮説設定による実験でも起こりうる。仮説を設定したために誤った結論を出すことは、科学的方法で起こりうることなのだ。
仮説により観察している現象の見方が変わる。見たままを受け入れるのが観察の正しい方法だが、仮説により観察で得られる情報を取捨選択したりする。すなわち仮説が先入観となり、重要な変化を見落とす場合を何度も現場で見てきた。
過去にここで触れたが、電気粘性流体の増粘現象では、優秀な科学者集団が立てた仮説のために解決策を見失い一年以上の研究を行っても解決策を見つけられなかった。彼らが見ていた同じ物質を当方は素直な気持ちで観察し、一日で問題を解決している。その時仮説など立てていない。
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