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2016.08/11 何のために勉強をするのか

夏休み中のためか勉強に関する記事が目につく。中には、何のために勉強するのか尋ねられて答えられない親の問題に触れた記事もあった。その記事では塾の講師が一つの模範解答を述べている。
 
彼の模範解答は記事を見てほしいが、それは無難な回答であるが、すべての生徒が燃えて勉強をしたくなるような回答ではない。
 
当方の亡父は、死ぬ直前まで勉強をしていた。毎日向かっていたテーブルの上の本と本に挟まれたしおり、そして広告の裏面に走り書きされたメモが亡くなる前日の勉強の様子を力強く語っていた。
 
亡くなる前日に何のために勉強していたのか問うのは無意味である。毎日の勉強が生の証だったのだ。100歳の不自由な体で頭脳だけは生き生きとしていた。当方などより世界の動きを深く洞察していた。
 
亡父は明治の生まれで学歴は小卒である。しかし、警察官として55歳定年まで勤め上げ、在職中の業務に対する表彰状も単行本並みの厚みがあった。当方が中学に上がる前に定年退職していたのでその仕事ぶりなど記憶にないが、これら遺品の数々から並み以上の仕事人であったことを理解できた。
 
また過去の叙勲の栄誉だけでなく葬儀の日に政府からの賞状も届き、改めてその学歴にそぐわない業績に触れることができた。民間のサラリーマンでは到達できない地位である。
 
ドラッカーは現代を知識労働者の時代と定義づけ、生涯教育のニーズを著書に書いている。亡父の愛読書の一つにドラッカーもあり、おそらくその影響を受けていたのだろうが、現代を生きるために食う寝ると同様に勉強をし続けたのである。ただ、それだけである。
 
だから、目的など考えず燃えて勉強する喜びを持てるようになっていたい。必要に迫られて勉強するのは苦痛であるが、自分が学びたいと思ってする勉強は、喜びである。しかし、そのような気持ちになるためには、一度苦痛を味わう経験をしなくてはいけないのも勉強のもつ一面である。勉強もスポーツなどと同じで、能力の不足は汗で補う。
   

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