2017.11/28 日馬富士問題の行方
昨日書こうと思ったが、日曜日に白鳳の取った行動に対するマスコミの反応を知りたかった。白鳳の日曜日の行動については賛否両論だったが、これは、相撲という文化に対する理解の違いと捉えている。
ここで相撲がスポーツかどうかを議論するつもりはない。ただ、多くの日本人が失ってはいけない文化の一つ、と感じている常識的見方から横綱という立場について一言書いてみたい。
横綱は相撲の最高位であり、ただ強いだけではその地位が得られない、と皆信じている。だから、負けた白鵬が勝ち名乗りの時間になっても、いつまでも駄々をこねて土俵に上がらなかった姿をみっともない、と誰もが感じたのだ。
それについて相撲協会は、ただ注意しただけという情けない処分。本当に日本の文化としての相撲を守って行こうという気概があるのか、と失望した。
日馬富士問題も相撲協会はおかしな動きをしている。被害者が何針も縫うような怪我をした事実があり、さらに警察から傷害事件として書類送検されるという状況でも日馬富士の処分を決めない。
もっとも、大けがをするような暴力を白鳳はじめそこにいた他の力士が止めに入らなかった問題もある。もし協会がこの問題も重視し、白鳳の処分まで考えているというならば、被害者の意見を聞けないから結論を出せないと言っているのを理解できるが、そうではなさそうだ。
相撲という文化を大切にすることにどのような意味があるのか。それは渡部昇一著「日本人論」に書かれている日本人について正しく理解する必要がある。
この書では特に相撲を扱っていないが、精神的権威の重要性について論じており、相撲という文化をどのように理解し後世に伝えねばならないのか考える参考になる。
グローバル化の現代こそ日本人は「日本人」であることを意識しなければ世界の中に埋没した小国となってしまう懸念がある。ただ強いだけでは勤まらない横綱という地位を大切にしたい。
中国が太平洋地域をアメリカと二分しようと言い出したり、韓国の日本に対する幾つかの無礼な態度など、アジアの中においてもその覇権を主張する国家の傍若無人ぶりが目立ってきており、その中で独立国家を維持するのも難しい時代となってきている。
相撲は外人力士も多くなってきているが、柔道のように世界のスポーツという道を選ばず、あくまで日本独自のスポーツとして位置づけられ運営されている。相撲をplayするためには、まず日本人との価値観を共有しなければいけない。
金太郎や桃太郎の例を出すまでもなく、日本人が描くヒーロー像とは強さ以外の優しさや品格を兼ね添えている。ただ強いだけでは到達できない横綱の価値を相撲協会は守ることができるのか。
カテゴリー : 一般
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