2018.03/01 国会における裁量労働制の議論
国会で裁量労働制の議論がなされているが、その導入の根拠となるべきデータで紛糾している。この国会における議論を聞いていると、そもそも首相はじめ国会議員の方々が、本来の働く意味、そしてその意味から裁量労働のあるべき姿が見えているのか疑問である。
中には、発言している議員を仮に新入社員として面接を受けさせたら、売り手市場の現在の状況でも企業面接で合格点をもらえないような認識の先生もおられる。このような状況では、低次元な議論しかできないだろう。
そもそも、厚生労働省のホームページに書かれた、「労働者を実際にその業務に就かせた場合、労使であらかじめ定めた時間働いたものとみなす制度」として裁量労働を定義しているところから笑ってしまう。働いても成果が出なければ業務を遂行、すなわち仕事をしたことにはならない時代だからである。
写真会社在職中にも裁量労働の賃金に時間の概念を持ち込むとおかしくなる、と言い続けた。時間は労働者側が自由にできるパラメーターであり、賃金は成果できめるべきであるが、労働時間で説明したほうが分かりやすい、ということで、結局一定の定めた時間働いた、とみなす、みなし労働として裁量労働が位置づけられ、運用された。
この際、時間という概念を取り払い、再度裁量労働の定義をしなおしたらどうだろうか。繰り返すが労働の対価は、労働の結果得られた成果で支払われるべきである。成果を仮にそれを出すために使われたある量と成果の質で計測できるとする。
質は業種で決まる値を決めることが可能で、量は質が決まれば、労働の成果を質で割った値となる。成果を上げるために使われたエネルギーの量は時間だけではない。だから一番の問題は、労働者一人一人の成果を正しく計測できるのかということになる。
これは成果について公的な定義ができれば計測可能と思われる。あるいは計測可能な定義を決めてもよい。すなわち問題とすべきは労働時間ではなく、労働の結果得られる成果の取り扱いである。労働者の上げた成果が正しく評価されているのか、を問題とすべきである。
量については、労働者が成果を出すためにどのようなパラメーターにするか、労働者自身が考えなければいけない軸である。すなわちこの量を決める裁量を労働者に与えるのが本来の裁量労働の意味であるが、どこにもこのように説明されていない。
写真会社で裁量労働となった部下の評価を行っていていつも矛盾に感じたのは、組織として成果を上げたにもかかわらず、後工程のトラブルでその成果が会社の成果に結びつかなかった問題である。
事業部門の成果は売上で計測可能であるが、事業部門を構成する下部組織を売上で計測しにくい。これをどのような指標で計測してゆくのかは、中間管理職まで含めた経営の責任である。技術者がいくら頑張っても、営業努力が足らなかったから成果が出ず、給料がダウンした、では技術者がかわいそうである。
裁量労働制の議論はまずこのあたりから正さなければいけない。労働時間を唯一の量のパラメーターとしてみている限り、おそらく議論はかみ合わないだろう。労働の質や成果の評価が正しく行われない場合の問題を議論すべきである。国会議員は各自の発言の中身が、働く意味を理解している前提の質の高いものであるか見直してほしい。サラリーマンも勤まらないような国会議員では恥ずかしい。
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