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2018.06/10 知識と情報

情報と知識は異なる。知識には必ず体験なり思想など人に関わる暗黙知が少なからず結びついている。だから教科書は単なる情報をまとめただけの内容よりも著者の思想で彼の知識が情報として展開された教科書が、教科書に書かれた情報を読んだときに多くの知識に変換できるという意味で優れた教科書と思っている。

 

昔読んだ物理化学の教科書ではバーロー博士とムーア博士という二大巨頭の著書が有名だった。どちらにも物理化学という学問について著者の思想がそこに展開されていた。

 

そして読み比べてみるとバーロー博士の著書のほうが分子論の思想を前面に出しており、おもしろかった。ムーア博士の教科書は、物理化学の体系を重視した教科書で物理化学全体を知識として整理する上でわかりやすかった。

 

教養部の授業で講師がこの二大巨頭の著書を紹介された後、自分の著書を生協で買うように言われたので7冊(バーローの物理化学上下巻、ムーアの物理化学上下巻、そしてそれぞれに付属していた問題の解き方、講師の教科書一冊、当時家庭教師の一か月分の手当てが無くなった)を購入した。

 

講師による著書にはあっさりと重要事項がまとめられており、ポイントがわかりやすい教科書ではあったが、残念ながら読み物としての面白みがないだけでなく、知識として身に着けておればよい情報のまとめになっており、体系として物理化学を学ぶためには情報が不足していた。

 

そもそも本の厚みが二大巨頭のそれの半分で文字が大きく物理化学として知識を整理するためには情報不足だった。すなわち物理化学の体系を研究者の知識として頭に詰め込み身に着けるためには、バーローやムーアを改めて読む必要があった。

 

ただ、熱力学や速度論、量子力学、電気化学、溶液論などそれぞれの分野で必要とされる知識が情報として簡単に整理されており、受験参考書的に使用できた点で便利な教科書と言える。しかし、授業が終了したある日バスの中に忘れた。試験が終了して、新学期が始まったときにそれを思い出しても困らない教科書だった。

 

ただし知識を受験勉強のように手っ取り早く情報として身に着けるという考え方に立てば、このような著書も価値がある。ただ読み手にそれを知識に変える意識が無ければ、このような本はつまらない本となってしまう。だから手元から無くなっても不便に思われない雑誌のような本だった。

 

ちなみにこのような本で知識を広げるためには、もう一冊専門書を傍らに置き読み解く作業が必要になる。物理化学の教科書を3種類揃えて読んでみて、形式知が情報として展開された書物の情報量とその展開の違いから情報が知識としてどのように形成されるのか見えてきた。

 

知識と情報の違いを経験知を例にもう少しわかりやすく説明する。名古屋大学の裏手の東山動物園には池があり、その池で恋人とボートに乗ると必ず失恋する、という都市伝説がある。

 

この都市伝説が正しい情報かどうかは定かではないが、そのままならばこれは知識ではないだろう。しかし、天気の良い日に東山動物園でデートをして、成り行きでボートに乗ってしまったとする。

 

池の中央あたりまで来て、「あなたは私と別れたいのでしょう」と突然言われた時にほとんどの名古屋人はこの都市伝説を情報として思い出し、「それは都市伝説からの誤解だ」とまじめに答えてしまう(池の真ん中で、両腕に力を入れて今にもボートを揺り動かしそうな態度で言われたときの回答は一つしかない)。

 

その後この男性が失恋した場合には、おそらくこの時のことを思い出し、新しいパートナーを見つけ東山動物園でデートをしてもボートに乗らないだろう。この段階で、都市伝説は単なる情報ではなく、経験知になっている。

 

あるいは、この都市伝説を聞いた時から情報として記憶していたのではなく知識として身についていたならば、ボートの上でもう少し粋な答えをしていたかもしれない。

 

情報を情報として記憶するのか情報を知識として身に着けておくのかは知恵の働きである。知恵は、経験知とそれに付随する暗黙知の蓄積とともに働きが良くなってゆくように思う。

 

 

 

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