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2018.09/29 今という時代(3)

塚原夫婦の問題で考えなければいけないのは、指導育成の立場にある人たちのスキルと資質についてそのあるべき姿である。いくらAIが進化したとしても、人を指導育成するためには「人が関わらなければいけない」と思っている。

 

仮に指導育成について完璧に実行できるAIが作り出されたとして、すべてをAIに任せたならば、人が人であることを放棄した世界になるような危惧をしている。ただ、この心配について当方は自信が無い。感傷的に「人がしなければいけない」と思っているだけかもしれない。

 

また、人間よりも優れた教育者になったAIが出現するかもしれないと少し期待もしているが、その資質について問題なしと人が認めるために何をすべきか想像できない。

 

例えば、スキルだけの指導育成ならばAIでもできると思われるが、体操の内村選手が語っているような「美しい体操」という抽象概念をAIが作り出せるのかどうか。

 

もし「美しい」という抽象概念をすべて具体化でき、それをスキルに落とし込むことに成功したとしても、それを表現したり表現を美しいと感じたりするのは人間である。そのような表現をAIが生み出した時にそれを見て人間が感じるのは希望なのか絶望なのか。

 

ところで、塚原夫婦の問題に限らず、体罰はすべてが認められない時代である。子供の頃、書道塾で教師からよく体罰を受けた。その先生は全国的に著名な先生でいつも羽織はかま姿であった。

 

おしゃべりが多いといわれては扇子で唇を打たれた。また、筆の持ち方が悪いと同じように扇子で手を打たれた。人差し指を打たれたときにはしびれて思うように筆を握れず手が震えたところ、今度は二本重ねた扇子で頭を殴られた。

 

体罰に耐えかねて結局その書道教室を辞めることになったが、昔は指導方法に対する配慮などない時代だった。書道教室に限らず先生と名の付く人はやりたい放題だったような気がする。

 

数年前、ある書道教室における指導の様子をTVで放送していた。女性の書道家によるコーチングが中心のその風景には愛があふれていた。生徒の自由に任せて文字を書かせている。文字の形に囚われず、その活き活きとした個性あふれた文字は書道の本質を伝えているように感じた。

 

今の時代、毛筆で文字を書く機会は少なくなったが、日本語の賞状は今でも毛筆である。ところがその多くは印刷物である。息子が小学生の時に毛筆書体で印刷された賞状にボールペンで名前が書かれた無粋な賞状をもらってきた。しかもあまり上手な字とは言えない名前の書かれた賞状をしばらく眺めていて息子を褒めるのを忘れた。

 

字の上手下手程度の指導であれば、並のレベルまでAIに任せることができるかもしれない。しかし、新たな芸術として表現を生み出せる能力までの指導をAIができるのだろうか。それは人間でも難しい。

 

また、指導項目以外に指導者と生徒との日常の交流から生まれる場合もある。人間とAIとの交流でこのようなシナジーによる能力向上の機会を生み出すことができるのかどうか。

 

塚原夫婦の問題では、報道された事実に人間の欲望が見え隠れしている。そこから指導者としてふさわしくないと多くの人が思っている。かれらの資質に多少問題があったと感じた人がいてもこれまで合格点を与えてきたのだが、それが時代と合わなくなって問題となっているのが今回の騒動のように思える。

 

 

カテゴリー : 一般

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