2018.11/04 ふと思い出した
昨日駅伝の話を書きながら、10年以上前に単身赴任して担当した仕事のことを思い出した。この仕事は、外部からコンパウンドを購入し、複写機の部品を開発するプロジェクトだった。但し半年後に製品化判断を控え、担当部署以外の多くの人が失敗するだろうと噂していた。
このプロジェクトをあえて引き受けて、土日も返上し、コンパウンド工場建設という計画外の仕事を推進し、半年後に成功に導いた。
今から思えば、異常な仕事なやり方だった。当時その業務姿勢に周囲から批判の声も少なからずあった。
しかし、成功させるためにはそのやり方しかなかったのである。直属の上司は、コンパウンド工場建設に必要な8000万円の決済を準備し、了解していた。
しかし、その他の実働を自分で抱え込む以外に道は無かった。ただし、早めに失敗という経営判断に持ち込む仕事のやり方もあったが、それは単身赴任前に放棄し、1名中途入社の社員を雇用していた。
もし早めに失敗の判断をしておれば、中途入社の社員や手伝ってやると志願してきた退職まじかの技能員が皆幸福に無理なく仕事ができたかもしれない。
無茶な仕事のやり方ではあったが、成功すると確信していたので推進できた。そして成功したのだが、案の定報われることは無かった。
周囲に見解の異なる人が多い場合には、例えそれが血のにじむような努力で成功したとしてもハッピーエンドにならないのが現実である。
「自分を誉めてやりたい」という女性ランナー(注)の名言があるが、自画自賛と言われても、組織や社会に評価されない成果をその後の人生のエネルギーに変えるためには、自分だけでも成功したことすべてを肯定する必要がある。
但し、今という時代は、全員の合意が得られない仕事をやりにくい時代である。また、火中の栗を拾うような貢献は、ねたむ人が多い場合に栗を拾い上げることができても炎上するような時代でもある。このような社会でイノベーションをどのように起こしてゆくのかが現代の問題である。
また、這ってタスキを渡したドラマを美談にするな、という多くの声は、そこまでの個人の努力や苦労をあてにするなとも聞こえる。
あるいは、それを止めなかった審判を批判して「もはやスポーツではない」という意見も出されていたが、スポーツ観戦をする醍醐味には、筋書には無い想定外のドラマへの期待も含まれる。
本来安全な運営を義務づけた公共スポーツで、懸命に努力する選手に圧倒されおろおろする審判の姿は、想定外のドラマであった。必死に努力する人間の迫力がどのようなものであるかを描いていた。
(注)彼女を代表に選んだ陸連の眼力はすごいと思うが、それに応えた彼女はもっとすごいはずだ。しかし、その選考過程で批判があった現実を考えると、「自分を誉めてやりたい」の一言に込められた思いには、金メダルを取れなかった悔しさすら感じられる。この一言は自画自賛ではない。
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