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2019.11/19 日曜日のNスぺ

17日21時から放送されたNHKスペシャルは面白かったが、ダビンチの扱いについて不満が残った。

 

彼は35歳から知の爆発があり、科学云々という説明があったが、彼の知は経験知であって、現代の科学の形式知とは程遠い。また、彼は技術者であり芸術家でもあった、という解説が欲しかった。

 

彼は科学者ではなかった。むしろ現代の技術者が模範とすべき大先輩だったと思っている。

 

科学者とは、という定義が問題になってくるが、古くはマッハ力学史でニュートンでさえも科学者ではなかったと説明されているし、理研で研究者として採用され、スタップ細胞の騒動を起こした研究者は未熟な科学者という評価がなされた。

 

科学者のイメージをこれらから想像すると、ダビンチは未熟以下の科学者となってしまう。むしろ優れた技術者であり芸術家だった、と当方が言いたいのはこのような理由からだ。

 

Nスぺを見ても科学と言う哲学がいつ成立したかについて捉え方が多種あるように思われるので、そこは言及しないが、それでもダビンチを科学者として扱うには無理がある。

 

むしろ彼が日々の営みの中で知的欲求あるいは創作欲を満足させるために数々の作品を生み出したと考えるのが自然であり、欲望の結果であると理解できれば凡人も勇気づけられる。

 

ダビンチの創作活動から天才と祭り上げるのではなく、溢れる欲求を満たすために絵を書き自然を観察し、現代から見ると科学の広い分野に精通していたと錯覚するような作品を創り出した、偉大なるもの好きである。

 

確かに時代背景を考慮すると、それらの作品のレベルは高く、当方もモナリザの微笑みのような作品を描けないので尊敬はしているが、だからといって凡人から程遠い人ではない。

 

現代人はダビンチの創作意欲とその欲望を爆発させた精神の自由な姿勢を見習うべきではないか。

 

放送では、ダビンチの思考をシステム思考としてもてはやしていたが、専門に囚われず自然界から自由に知を学び、それらを自分なりに体系化しようと作品を生み出していっただけである。

 

例えばモナリザを現代人が鑑賞してもそれなりの興奮が得られるのは、ダビンチのこの絵を描いた思いが伝わるからであり、その描き方は彼の知の特徴の表れである。

 

現代人も形式知に囚われず自由に発想し、知識欲を爆発させれば、皆ダビンチになれる。MDMAがいかなる生理活性を示すのかよく知らないが、おそらくダビンチにとってその活動はMDMAを服用していたような興奮状態だったのではないか。

 

自由な知的活動には、恐ろしいほどの興奮をもたらす瞬間がある(注)。ダビンチはそのような興奮を知っていたのではないか。

 

学校教育は本来そのような知的活動ができるよう科学教育を行っているのだが、形式知だけでは凡人にそのような興奮をもたらすことはできない。体験学習や自由な実習こそ大切である。

 

(注)子供を育ててみると、知の爆発の瞬間を見ることができる。「これなあに」という知の欲求を、成長につれ忘れてしまう。この知の爆発の思い出を思い出すことができれば、日本のGDPも上がるのではないか。あるいは初めて100点を取ったときの思い出でも良いかもしれない。新しい知を獲得したときの興奮、わくわく感を思い出すことが大切である。ダビンチはそれができたのであろう。モナリザの微笑みは彼があこがれていた女性をいつでも眺めていたいという欲求の成果だと捉えている。偉人を特別な人、自分とは程遠い人とするのは簡単である。しかし、偉人を俗人の一人としてとらえ、自分にもできそうな彼の良いところを真似ると偉人に少し近づくことができる。現代人には幸運なことに絵心が無くても性能の良いデジカメがある。ダビンチ以上にうまく自然を写し取ることは、誰でもできるようになった。

 

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