2020.12/11 知について
当方の名前の「地」を「知」と書いてくださる方が多い。お気持ちはありがたいが、地べたをはい回っている「地」です、とそのたびに訂正している。
著者の名前を忘れたが、教養部の哲学の授業で「知の歴史」を読んだ。授業ではこの本の解説ではなく、講師の知に関する講義だったが、知を形式知と経験知、暗黙知に分類することは一般常識らしい。
形式知は、今の時代であれば科学の成果の知となる。今や人文科学という言葉が示すように技術以外の分野についても科学という哲学の道具を用いることが国際標準である。
学校教育でも科学について徹底して教えられているはずだが、STAP細胞の騒動では、日本の学校教育のほころびが垣間見えた。
早稲田大学で学位を授与された研究者が所長から未熟者と言われ、大学は学位の再提出を求めてその結果学位を剥奪している。残酷な出来事だと思った。学位を授与した知の砦であるはずの大学の責任についておとがめなしである。
誰でもお金を持ってくれば学位を授与するような大学、と思いたくないが、STAP細胞の騒動や当方が国立大学で経験(注)した出来事を重ね合わせるとそのように見えてしまうのが悲しい。
大学でさえこのようなありさまだから、今一度学校教育における科学教育の在り方を見直した方が良い、と思っていたら、プログラミング教育を小学校から導入するという。
これは極めて危険な行為である。すなわちプログラミング教育とは経験知や暗黙知の働かせ方を教える教育だからである。少なくともプログラミングという技術では、経験知や暗黙知が働かなければ当たり前のプログラムしか書けない。
当たり前のプログラムでは、新規分野で特許に抵触する可能性が高い。なぜならそのような形式知で予測可能なアルゴリズムに関する特許が多数出願されている。
弊社も画像処理について面白い当たり前のアルゴリズムの特許を出願し、特許権を授与された。形式知に基づく当たり前のアルゴリズムでも新規性があれば、進歩性も自然に出てくるのがコンピュータ分野の特徴である。
ゆえに、当たり前の特許が成立することになる。余談だが、プログラミング以外でもデバイスが新しければそのデバイスの応用分野について当たり前の特許出願が可能である。最近自動車分野で当たり前の特許を見つけた。
さて、学生時代に当たり前のプログラムを書いたところ動作しなかった。その時FORTRUNコンパイラーにバグがある可能性が高い、という判断が出された。
この時の授業中には動作するプログラムに直すことができなかったが、同じプログラムをMZ80KのHu-BASICで組みなおしたら動作した。
FORTRUNとBASICとはよく似た言語体系なので移植は簡単であり、移植に際してロジックの変更も必要なかった。
このことからも学生時代に使用したコンパイラーにバグがあった可能性が高いが、経験のあるプログラマーならばここでトリッキーなプログラムに直して言語処理系に潜むバグを回避する対策を取る。
Cでは、ライブラリーにバグが潜んでいるときなど、このような方法でとりあえずバグを回避してプログラムを仕上げてゆく。ここでは、形式知ではなく経験知や暗黙知を働かせることになる。
もし、プログラミング教育を科学に基づき当たり前のプログラムだけを書けるように指導していたならプログラミング教育導入の意味がないばかりかGAFAに対抗しうる次世代の人材など教育できない。
(注)当方は某国立大学で学位取得予定だった。だからその大学の先生にゴム会社で5年前実施されてその大学とは全く無関係の当方の研究について勝手に論文を出されても我慢していた。しかし、写真会社へ転職した時に写真会社からも奨学寄付金を支払ってくださいと言われたので、丁重に学位を辞退している。その後紆余曲折あり、論文数(当時すでに国内含め15報程度書いていた)や実績から中部大学で学位審査料を支払い所定の試験を受け学位を取得している。学位に纏わる金銭のうわさをたまに聞くが、このような出来事などが日本の博士の学位の評判を悪くしている可能性がある。昔は「末は博士か大臣か」と言われた時代がある。当方の親もそのような期待を当方にしていたので学位は一つの目標になった。学問の努力だけで大臣は難しいが、博士は学問の努力を続ければその結果として取得可能だと思っている。中部大学の学位は、授与式まで神聖な手続きで行われ学位を授与された。学位論文の指導から授与式まで中部大学にアカデミアの良心を感じるプロセスだった。
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