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2021.07/22 ホリエモンの興味

今回の小山田問題を受けて、ホリエモンこと堀江貴文氏が「一生公の場で何もできなくなった」とコメントしている。どのような意味でこの発言をされたのか関心はあるが、小山田氏(犯罪とも呼べるいじめの加害者)がNHK(日本の公共放送で高い放送倫理が求められる。また、その番組制作の緻密さから調査能力は十分にある)の教育番組にも重用(教育者としてもふさわしいアーティストの代表)されていた事実があり、今の日本社会が強ければ何をやっても許される社会になってしまっていることが今回は問題なのだ。

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例えば、先の大相撲で白鵬は全勝優勝をした。横綱のプライドもそっちのけで勝ちにこだわったその姿勢には脱帽するが、千秋楽のかちあげはじめ、奇策で勝利をものにした取り口など彼の横綱になるまでと横綱に昇進してからの取り口は横綱の品位を汚しているといえる技で勝利をものにしている。大相撲とは強ければよい(大関までは許せるが横綱には無形の品格が求められている)、と皆思っていないはずだが、それでも横綱のままである。

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小山田問題は、サブカルチャーで発揮されたその才能が彼の弱者を痛めつけて快感を覚えるその感性に根づくことは作品のいくつかを見てみれば理解できる。それをそのまま放置して日本のカルチャーの代表まで持ち上げた社会、とりわけ音楽業界の責任は大きい。

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カルチャーとは高い教養に基づく日々の営みがあって始めてなりたつものであり、それに対する文化に似たアンチカルチャーを日本ではサブカルチャーと呼ぶ背景になっている(欧米のサブカルチャーとは成り立ちが異なり、日本ではその意味も広い。大衆文化という意味合いまでサブカルと呼んでいる)。すなわち日本におけるサブカルチャーとはエログロまでも含む裏文化と呼んでも良いようなものだ(漫画家や一部のミュージシャンはファッション感覚で自ら名乗るケースがある。それが日本のサブカルの意味を誤らせている。サブカルには反社会的なカルチャーも含まれていることを知るべきである。)。

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サブカルチャーで発揮された能力をカルチャーで生かすことを否定しない。しかし、あくまでもサブカルチャーを創り出す過程において犯罪だけでなく道徳的な視点においても反社会的でないことが前提になる(注1)。

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サブカルチャーで麻薬に頼り創造していても許されていたが、カルチャーではそのような手法が許されないのは当たり前である。サブカルチャーの世界で許されてきた反道徳的な行いをどこまで許すのかは、社会の教養のバロメーターとなる(注2)。

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例えば、問題の一つとなっているインタビューが、もし謝罪の形で終わっており、彼がその才能で得た利益の一部を障がい者はじめ社会的弱者のためにサブカルチャーの世界で寄付活動をしてきたならば、それを誰もが理解したときに、武藤事務総長の発言に拍手を送ったに違いない(レミゼラブルでジャンバルジャンは一切れのパンを盗み犯罪者になっている)。

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しかし、彼の行動はそうではなかったのだ。少し調べればわかることを組織委員会はさぼっていただけでなく、社会は、たまたま捕まらず時効となった悪人を認め拍手喝さいを与えてきたのである。そこの問題に気がついたからこそ社会は声をあげ、そして官邸も動いたのである。

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都知事は今でもこの件で明確な見解を述べていないが、おそらくどうしたらよいのかわからないのだろう。あるいは、下手な発言をしたら組織委員会に対する怒りのとばっちりが自分のところへ来るのを警戒されているのかもしれない。

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都知事の立場であれば、ドラッカーが「何もしない、も一つの問題解決の手段である」と言ったアドバイスが有効であるが、この方の教養のレベルはこの程度であり、カイロ大学卒が問題とされた意味を理解できる。

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小山田問題はまだ終わっていない。ホリエモンが刑務所に入りながらも社会復帰しまじめに仕事をされているように、今回の機会をチャンスとして自分の行動を本当に改め謝罪し、社会復帰していただきたい(注2)。人生100年時代のまだ折り返し点である。ただ、過去を改心した結果、才能まで無くなった小山田圭吾では、盗作すれすれの駄作以外にも少なからずうなりたくなる作品(但し演歌ではない)もあるだけにもったいない。

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(注1)デジタル化の波は、銀塩フィルム事業を過去の遺物としたが、文化の面でも変革を起こしている。例えば芦原温泉にあった芦原ミュージックホールはいつの間にか無くなっていた。調べてみると温泉街のミュージックホールは壊滅状態である。母校の近くにあった銀映は、岡崎銀映閉館後ライブシアター銀映となって続いていたが、そこもいつの間にか無くなっていた。生活指導の先生が指導のためによく出入りされていたことが思い出としてあるが、このような場所でも警察沙汰の事件が起きるのだ。ライブシアターであり、いかがわしい場所でもないのだが演目によりそれが反社会的となる。サブカルチャーの危うさである。日本のサブカルチャーについても教養を深めていないと現代はその境界が曖昧なために危険と隣り合わせとなっている。科学と技術の境界も曖昧であり、時代とともに変化し、アカデミアではマテリアルインフォマティクスという科学の視点ではいかがわしい研究が盛んになっている。これをどこまで科学とみなすかは、これまでの科学の歴史を知る必要がある。学ばなければいけない事柄は情報化社会では山のようにあり、「40にして惑わず」と言っていたのでは時代遅れとなる。現代は「80にして惑わず」と言うべきかもしれない。あと20年弱なので忙しい。

(注2)寛容な社会も大切であるが、悪人に対する寛容さの前提となるのは過去をどのように清算したのかである。武藤事務総長はインターネットを調べるとノーパンしゃぶしゃぶ事件(官民接待が社会問題となる引き金となった事件。反社会的なストリップとしゃぶしゃぶのコラボ企画。)でも名前が挙がった方だそうだ。そのような人物でも日本の社会は、財務省事務次官、日銀副総裁、オリンピック組織委員会事務総長などの要職を与える様な寛容さがある(ノーパンしゃぶしゃぶとミュージック劇場の反社会的な演目との差異が当方には不明である。また今回の事件の経緯からわかるように彼のような人材が日本のリーダーとして重用される日本社会に若い人は幻滅しないでいただきたい。血のにじむような努力をした若者の舞台オリンピックをこのコロナ禍でも必死で守っている年寄りもいるのだ。)。当方はここまでの寛容さが日本をダメにしているように思うが、一方で犯罪者を時効も含めてそのまま許して社会に受け入れることまでも寛容としてはいけない。日本は一応法治国家である。会社の中で隠蔽化されても、犯罪は犯罪として罪の償いは必要である。それを行わないと、犯罪の連鎖が起きる。当方が被害者となり転職した結果曖昧となったFD事件でも同様にその連鎖は起きている。犯罪を放置した時の一番の問題はその社会の倫理観までもおかしくすることだ。FD事件後には、当方の仕事を自分の成果として学会賞に出してきた人物がおり、たまたま当方がその審査をすることになった。今回の小山田問題も含め、因果応報について「どこかで神様が見ているよ」と子供に教えたりするが、悪事をすればどこかで天罰を受ける。小山田問題が起きたときにおかしな芸能人が「その時代の背景も考慮しなければ」と発言して炎上していたが、この人物の頭には必殺仕置人が思い出されたのかもしれない。当時この番組のヒットした背景として、悪人が放置され栄華を楽しんでいるようなバブル社会がある。ただこの時でも悪は悪としてみなしていたのである。戦後犯罪者を社会が許した時代など無い。

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