2021.07/26 技術と芸術
日本におけるサブカルの問題を昨日指摘したが、技術と芸術に対する認識も科学と技術の認識以上に日本人は曖昧である。芸術家でもあるレオナルド・ダビンチは、マッハによれば科学が生まれる前の人物であり科学者ではない。
昔は職人と技術者との境界同様に技術者と芸術家の境界は曖昧だった。これは、技術が人間の営みの一部なので芸術家がその創造力を活用して技術を生み出すことがあったため、と理解できる。
芸術家が貨幣価値を生みだす工夫として技術が生まれたととらえることもできる。芸術家が人間の営みの中で力を発揮する場合に、葛飾北斎はその創造力を活かして数々の春画を残している。ダビンチは異なる分野でその創造力を活かし、医療機器はじめ様々な技術に業績を残したのかもしれない。
愛知県出身の写真家加納典明氏は、「人に見られたい写真を撮りたいならばヌードを撮ればよい」という名言を残している。彼に限らず大衆に有名な写真家が、ヌード以外の作品を撮影していることが意外に知られていない。また、ある写真家はカメラのレンズ開発にも協力している。
現代でも芸術家による技術分野への進出があるように、技術者が芸術分野へ進出しても良い。すなわち、技術と芸術はその境界を柔軟に捉えるべきだろう。
今回の東京オリンピックでは様々な問題が噴出したが、あまり騒がれていない問題として「KIMONOプロジェクト」がある。これは、呉服屋が風前の灯となりつつある着物事業を活性化し一儲けしようと考え出された企画のようだ。金銭問題でとん挫し、集金をしただけで終わっている。
そのうち週刊誌が取り上げるかもしれないが、この欄で取り上げた理由は、着物という商品に隠れた技術を後世に残すために国は金を出すべきだ、という誤った発想である。着物事業の経営者がもし本当にそのような技術を残したいと考えるならば、財政的余裕のある時に純粋芸術に技術を無償提供すべきだった。
すなわち芸術の一手法として残された技術は、それが難易度の高い技術で永遠の美を生み出す手法ならば必ず後世に必ず残ってゆく。芸術として後世まで残された技術が、また新たな商品に必要となり発展することもあるのだ。例えば半導体分野の技術には、セラミックス芸術に受け継がれてきた技術が活かされている。
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