2024.05/09 科学と技術と芸術と(5)
写真が芸術であるかどうかは、素人写真とプロの写真家の写真とを見較べてみると理解できる。同じ景色を撮影してもプロの写真家の写真は、それとわかる。
ハイアマチュアの写真とプロ写真家の写真では、ハイアマチュアの写真が優れていることもある。プロの写真家とは何か、について、加納典明が昔FM愛知の深夜放送で語っていた。
彼によると、いつでも一定水準以上の写真を提供できるのがプロで、それができないのがハイアマチュアだそうである。それでは一定水準とは何か、についても彼は熱く語っていた。
彼は写真学校の卒業課題として撮影した自分の作品を事例にして語っていた。キャベツをモノクロ撮影したその写真について説明していたのだが、ラジオ放送であるにもかかわらず、目の前にモノクロのキャベツが浮き上がってきた。
思春期の感受性が強い年齢だったこともあるが、彼の説明もすごかった。今は**写真家で知られている加納典明だが、当方は彼のディスクジョッキーから写真術について学んだ。
彼は単なる写真家ではなく高い自己表現技術を持った芸術家である。少なくとも若い時の彼は、論理的に説明できる技術とそれをベースにした表現力を目指していたように思われた。
写真は確かに芸術であり、芸術的な写真を撮影するための技術も存在する、彼はそのような説明をしていた。そして、誰にでも自分の作品を見てもらいたいなら、すべてが写ったヌードを撮れ、と語っていた。
人類の半分は見てくれる、というのがオチだが、きれいなヌードなら性別に関係なくその写真を誰でも見てくれるそうだ。「SANTAFE」は、男性だけでなく女性も購入したと言われている写真集のヒット作である。
ただし加納典明ではなく篠山紀信の作品である。篠山紀信の作品では、山口百恵の写真集が有名だが、彼は少女から女にかわる不安定な年齢の被写体を美しく撮るのが得意だった。
加納典明と篠山紀信のそれぞれの作品を比較すると、ヌードという被写体が写真の練習に選ばれることを理解できる。被写体に依存せず美しく撮ることが難しいからである。
美しい景色をそのまま撮るのであれば、現在のデジカメを用いると誰でも撮影できるが、ヌードでなくてもポートレートは意外と難しい。昔美しい人は美しくそうでない人はそれなりに写る、というCMがあったが、美しい人でも美しく撮れないと悩んだ時に写真の芸術性に気づかされる。
ポートレート写真には、カメラの性能や撮影技術、被写体だけでは完成しない難しさがある。風景や静物写真すべてにこのような難しさがあるのだが、この難しさに気がつくと自然現象を科学ですべて解明できないことを感覚として学ぶことになる。
加納典明は、一時期徹底して下品なヌード写真集(注)を出版して書類送検されている。これは、あたかも科学で否定証明を行うようなものだ。ヌード=下品という倫理観を少なからず誰もが持っている。
(注)出版物として公序良俗に反しない画像だったが、表現として美と対極にある下品さそのものが表現されていた。ヌードで下品さを追求するのは、現象を見て否定証明の仮説を立ててそれを実験することと似ている。例えば、シリコーンオイルに微粒子を分散した電気粘性流体をゴムケースに封入したデバイスでは、ゴムケースから出たブリード物で増粘し機能しなくなる。この現象について「解決できない」という仮説を立てて、電荷二重層の測定や厳密なHLB値の化合物などで徹底してその仮説の正しさを追求する実験を行うようなものである。
カテゴリー : 一般
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