2024.05/10 高分子と芸術
金属やセラミックスと異なり、高分子を理解するためにはある程度の芸術的なセンスが要求されるように思う。技術全般に対してそのような見解を述べる方がおられるが、例えばセラミックスの工業製品であれば、芸術的なセンスをデザイナーに任せて、材料開発を形式知で行う、ということが可能だ。
ところが、高分子材料では、形式知が整備されていない分野が多いので、セラミックスや金属のように形式知中心により技術開発を進めることができない。
これはゴム会社から写真会社に転職して分かった。形式知をもとに開発の無限ループに陥っていた人がいた。そして改めてゴム会社の研究所にいた研究者たちを思い出しても芸術を理解できない人たちは、形式的な否定証明を好んで用いていた(無限ループをする方が技術者として期待できる)。
科学ならば少し勉強すれば誰でも使いこなせるようになるが、芸術的なセンスとなるとやはりそれなりの訓練が必要だ。当方がここで必要と言っているレベルは、天性の芸術性ではなくある程度の訓練で身につく芸術性のレベルである。
例えばフローリーハギンズ理論がある。これを信じ現象をこの理論に沿って眺めていると、PPS/6ナイロン/カーボンという決まった配合のコンパウンドで実用的な半導体無端ベルトを開発することはできない。
それこそ無地のキャンパスに欲望に沿ってオブジェクトを描き上げるぐらいの感覚で材料設計を行わなければ実用化できなかったと思っている。
そこにあったのは論理ではなく、パーコレーションを制御したいという欲望だけであった。その欲望を満たすための高分子高次構造の絵を書きあげた(注)ときに、転写ベルトの実用化を確信した。
コンパウンドの開発に6年を費やしたと前任者に聞いていたが、その材料設計と全く異なる発想で、配合組成は同一のまま、全く異なるコンパウンドを芸術的な視点で設計したのである。
荒唐無稽な自慢話をしているのではない。分かり易く言えば、6が月後に迫った製品の新発売までに前任者の開発した配合を変えずに実用化するために実現されなければいけない高次構造の絵を書いたのである。
そこには、形式知からの論理的必然性は無い。逆にその絵から技術として用意しなければいけない設備を考えていった。そこでカオス混合が出てくるのだが、カオス混合機など世の中に無かった。
これもただ絵を書いただけである。ゴム会社に入社した時にご指導いただいた指導社員から教えていただいたカオス混合を実現するための設備の絵を書いただけである。
おそらくダ・ビンチも飛行機の設計をこのようにしていたはずだ。但しダ・ビンチの飛行機では人類初の飛行機を作ることができなかった。
ダ・ビンチは飛行機を見たことが無かった。しかし、当方は指導社員にロール混練におけるカオス混合の「技」を見せていただいた。その「技」に似せてカオス混合機の絵を書いただけで、ダ・ビンチとの違いは「見た」経験の有無である。観察は重要である。
今はどうか知らないが、工学部建築学科ではヌードのデッサンを授業として行う、というので喜んでいた友人がいた。建築学科だけでなく工学部では必要な学習だと思う。
ヌードでなくても加納典明が説明していたようなキャベツのデッサンでも構わない。当方は学生時代に写真と平行して少し絵を書いていたが、その才能の無さに気がつき、写真だけが趣味となった。カメラを被写体に向けるだけでも観察眼を養うことは可能である。
(注)これは実話である。Pythonで学ぶパーコレーション転移というセミナーでも体験談を話している。科学的に考えると二律背反となるような問題解決には、技術で解決、とはゴム会社のCTOが好んで言われていたことだが、芸術まで含んだ技術である。「芸術的な技術」というものがあるが、科学で考えてアイデアが出ない時には、芸術を考える頭の使い方をすべきである。美というものは調和がとれていなければいけない、と言っていた人がいたが、必ずしも調和は必要ない。パーコレーションは、相互作用の無い前提では、統計の確率に左右され、当方独自のシミュレーションで得られる一つだけのグラフは、必ずしも美しいグラフとならないが、クラスター生成の条件を様々にして得られた複数のグラフが描かれた様子は美しい。その美しさの中に実現すべき技術の条件があった。ただセミナーの時にはこのような説明をしていません。ここでは正直に当時の体験を書きました。
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