2018.06/13 知識(5)
暗黙知がどのようなものかは、「暗黙」という言葉が示している。といっても単純に「語りえない知識」ではない。知識は情報ではなく、常に人間と一体化したものなので、単なる言葉にできない知識ではない。知識について例示すると、フローリーハギンズ理論を説明している書籍において、そのままその説明部分を取り出しただけならば、それは情報に過ぎない。
フローリーハギンズ理論を情報として知っているだけでは、高分子材料の開発で隘路に入った時に抜け出せない。その理論を自分なりに展開してみて、そしてそれを現象に応用し理解を深め、その不完全性に気がついたときに、それは情報から知識に代わる。
受験勉強の詰め込み「知識」が入試終了とともに消え去るのは、本当の「知識」まで熟成されず「情報」のまま記憶していたからだ。逆に、知識として記憶されていると不思議なことに細かいところを忘れていても、記憶に残っていた知識が関係する現象に遭遇したときに記憶の底からそれがずるずると引き出されてくる。
これを一度でも体感すると、「現象に直接触れる」行為が如何に大切なことかわかってきて、自然と実験を重視する生活になる。そして面倒でも現象に触れる機会を増やすために実験をする。この作業で、経験知が蓄積されてゆくが、同時に暗黙知も蓄積されてゆく。
ところで、それらを伝承するときには経験知の準形式知化が必要になってくる。しかしいくら準形式知化を行ったとしても、本当の形式知とごちゃ混ぜにしてはいけない。やはりそれは経験知であり、経験知として整理し伝承しなければいけない。そして伝承されたならすぐにそれを試してみると容易にそこにぶらさがっていた暗黙知も身につく。
例えばゴム会社の指導社員から経験知を伝承されたとき、その日のうちにそれを実験し確認している。この確認作業においてゴムの扱いが素人ゆえに遭遇した現象の中に言葉では説明のつかない違和感に近いものを感じたりした。不思議という感覚までに到達していないので違和感と表現しているが、指導社員から伝承された経験知にぶら下がっていた暗黙知ではないかと思っている。
その時当方は暗黙知も整理できないか考えた。例えば自転車を練習して運転スキルを身に着けてゆく過程は、経験知と暗黙知を身に着けてゆく過程そのものである。この練習で気がついた経験知を言葉で書き表した時に、その説明の不完全性に何か釈然としないものを感じるだろう。
この釈然としない部分が暗黙知の存在を示している。そして具体化しようとするのだがうまく表現できない。そこで、新たに思いついた経験知で補足してゆく。このとき暗黙知の一部が経験知となり、補足していった経験知には残った暗黙知がぶら下がることになる。このような作業で暗黙知の存在を意識できるように努力すると第六感を働かせやすくなる(経験談)。
これは当方のやり方だが、具体的なノウハウを示すと、現象から感じたことや見たことを言葉で表現する努力をしている。言葉で表現しにくいところは、擬態語でも使って補ってゆく。現象から得られる情報を自分の言葉で表現する努力は結構大変で、写真会社へ転職したときには笑われたこともある。
ちなみに優れた著者の文章を読むと行間に知識があふれているという表現を読んだことがあるが、まさにそれは文章にぶら下がっている著者の暗黙知だと思っている。表現力が乏しいので擬態語になるわけだが、それでも暗黙知を後で経験知に変えることができる。擬態語も見つからなければ!でも使う。ハートマークは使ったことが無いが、電球マークと!の組み合わせはある。
カテゴリー : 一般
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