2018.08/03 研究者を目指す人へ(1)
末は博士か大臣か、は当方の子供の頃まで大人から聞かされた言葉だが、最近は聞かない。人生はそれぞれの個性や能力に合わせて自己責任で生きたほうが幸せという子育て方針が浸透しているためだろう。
ただし大人が子供に人生の方向を例示することは子供の能力を向上するために重要と自己の体験から言える。当方は社会に貢献できる人の姿のゴールとして博士か大臣だろう、と母親に言われて育ったために博士の学位が一つのゴールとして心の中で持ち続け生きてきた。そして博士の社会的役割や貢献について真面目に考え悩んでいたころもある。
高校が受験校であり、また生徒の親が博士か大臣の人もいたので、博士と大臣の社会的役割の面白さについて博士だろうという結論が自分の中で形成されていったが、大学に入ってオーバードクターの問題や、助手と教授の能力の逆転現象を目の当たりにしてアカデミアの組織に失望感が生まれた。
最もショックだったのは研究成果を助手に頼りっきりの教授の姿であり、情けない噂であった。大学紛争の名残もあった影響か低姿勢の教授や威張っている年配の助手が多かった。教養部の学生を酒に誘い、日ごろのうっ憤を晴らす先生もいたりして、アカデミアに対する失望感が勉強に対する疑問へと変わり麻と雀の研究に精を出すことになる。
ただ子供の頃から言われていた末は博士か大臣か、の言葉は、このような環境で反省の気持ちを醸成し、教養部規定単位数の二倍を取得し進級している。授業をさぼることも多かったのに単位数を多くとろうとしたのは、良い成績を納めることよりも量を稼ぐことが簡単だったからである。また量を目指せば単位数が不足し留年という事態を防止できる。
この、ある意味無茶苦茶な学習方針は、社会人になったときの過重労働に耐えうる体力を養ったように思っている。なぜなら試験週間は寝る時間などなかった。一か月近い試験週間の毎日何か試験が入っていただけでなく、試験時間が重なっている日もあった。
試験時間が重なっていても、無事両方の単位を取得したために恐らく単位数だけは全学生の中でトップだと教務課で言われた。ただし成績は優の数になるから残念でした、と言われ学習意欲は低下した。およそ学習環境として良くない大学あるいは時代だったかもしれない。
ただ取得する必要もない哲学はじめ多くの人文科学系の勉強を単位取得のために頑張ってよかったと思っている。恐らく試験が無ければ真剣に読むことのなかったジンメルの「自殺論」や大学の哲学の先生がまとめられた「知性の歴史」など多くの知の書物に触れることができた。その結果専門に偏ることのない読書習慣が身についた。
この幅広く本を読むという姿勢は、知が関わる職業に就こうとするときには重要な姿勢の一つだと思っている。研究の仕事につけば多くの専門書を読むことになる。ともすれば専門書以外読まなくなる可能性も出てくる。
専門書以外読まなくなるとどうなるかは経験が無いのでよくわからないが、幅広く知を求める習慣は、自然現象に接したときに多方面からその現象を眺めることが可能となる知が得られる。これは経験から、確実に身につくと思っている。またこの意味において一般教養の重要性が叫ばれている最近の風潮を歓迎している。やはり人文科学はいつの時代でも必要だろう。
若い時に知の世界に境界や果てのないことを知ることは重要である。特にAIが確実に知の職業分野で活用される時代には、無限の知の世界を放浪できる特権や具体化された知を再度抽象化して新たな知を生み出す活動は、AIには期待できない、人間にだけ与えられたものだ。
カテゴリー : 一般
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