2018.11/03 今という時代(6)
「21日に福岡県で行われた全日本実業団対抗女子駅伝の予選会で、2区に起用された岩谷産業の飯田怜選手(19)が途中で倒れて走れなくなり、膝から血を流しながら中継所までの約200メートルをはって、たすきをつないだ。レース後、同選手は右すねの骨折で全治3~4カ月と診断された。」
これは日経新聞10月23日版の記事だ。未だにネットではこの時の運営側に対する批判が出ている。また、この光景を美談にするな、という意見も多い。
明らかに30年前と社会が変わったと思う。30年前なら、美談で話が完結していた。しかし、今という時代は違う。
まず、監督はすぐに棄権するように指示を出したという。そして運営側にもそれを依頼したという。まず監督としての、今の時代の責任を果たしたという言葉がニュースで報じられている。
一方運営側について、一度選手に棄権を促したが、選手が聞き入れなかった、という意見が書かれ、かわいそうなのは、写真にも写っているその場に居合わせた審判員である。
的外れな意見として、この審判を責める内容があるが、審判をほめる見解が無いのがまさに今という時代である。
もし審判をほめる様な意見を書いたなら炎上するかもしれない。ただ、当方がその時審判だったなら、本人の健康状態に異常が無ければ、やはり止めなかっただろう。
止めることが安全運営の目標を達成すべき審判の責務を全うすることだ、とわかっていても、もしその場に居合わせたなら止められなかったと思う。これは良い、悪いの問題ではない、と考えてしまう。
しかし、今の時代は、どのような問題であっても、そこで審判が止めるのが正しい、と、これをマニュアル化までしてしまう時代なのだ。
人生には葛藤がつきものである。力いっぱい生きていこう、あるいは力いっぱい生きているときに、その力いっぱいが問題になる、この駅伝のシーンはそんな出来事である。
おそらくとうの本人は今頃悩まれているのかもしれない。当方は彼女に言いたい。君は正しかった、よくがんばった。しかし、今後の人生は一人で責任をしょい込むような生き方をしないように気をつけなさい、と。
また、居合わせた審判には、あなたは職務として責任を果たさなかったが、若者の必死で頑張る努力を妨害せず懸命に見守った、そこに当方は感動した、と伝えたい。
ところで、もし、ここで審判員が必死に彼女を抱きかかえ静止していたならどのような意見が出ていたのだろうか。今であれば、セクハラの批判が出てきそうな時代だ。
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