2021.12/24 創造に科学は必要か(2)
バッハは平均律を発明している。ちょうど科学が誕生する直前である。ドレミファソラシドから和音が創られる過程において周波数解析を利用できる環境ではなかった。しかし、美しいハーモニーの曲がその時に創造されている。
今では、音楽理論が体系化され、周波数解析や心理学などが動員されて、気持ちよい音楽を科学的に創造することができるようになった。例えばコンピュータで作曲されたα波を出す曲集というCDも販売されている。
ただしそれを聞いても本当にα波は出ているのか不明だが、何故か味気ない。お気に入りの渡辺貞夫のCDをかけた方が気持ちよく仕事に集中できるし、リー・リトナーのスリリングな響きはCD一枚聞けば心地よい疲労感からよく眠れる。
また、MIDIが発明されてW95が登場しデスクトップミュージック(DTM)なるジャンルが生まれ、多くの人に作曲の機会が普及しているが、それでもヒット曲のすべてがDTMの成果となるような時代になっていない。
コロナ禍となり、仕事が減ったので音楽理論を真剣に勉強してみた。それで作曲ができるようになっても、作ってみた曲がヒットするとは思えない。すなわち、音楽理論を用いて、体裁の整った曲を作ることはできるが、その結果生まれた曲は、どこかで聞いたような曲である。
形式知を活用して、とりあえず何か作り出すことができても、形式知に従い出来上がった創造物は当たり前のつまらないものになるのかもしれない。また、創造物とは呼べないような作品になる可能性がある。ひどい場合には明らかな盗作を作り出す恐れがある。
最近購入したジャズの教則本には形式知に基づく説明が詳細に記述されている。そこには、これにとらわれる必要は無い、という著者の注釈がよく出てくる。例えばテンションという技法があるが、ルールにとらわれず自分で良い響きと思ったらそれを使え、と書いてある。
すなわち、形式知に従って演奏していてもつまらない、と行間に書かれているようなものだ。音楽と技術は異なる、と言われると当方の1年以上の努力が無駄だったような気分になる。当方が音楽理論に取り組んだ背景は、経験知や暗黙知が乏しい分野における形式知による創造とは何かを考えてみたかったのである。
ちなみに、当方は自信をもって音楽の才は無い、と胸を張れる。その実力レベルを理解しているので、国内のカラオケにおいて人前で歌った経験は無い。このように音楽の才能が無くても、形式知を身につければ、とりあえず作曲ができるようになる。
本に書かれているコード進行のルールに従いコードを配置し、リズムに合わせておたまじゃくしを並べてゆくと一応それなりの曲ができる。ゆえにそのためのプログラムが搭載されたコンピュータによる自動作曲が可能となっているわけだが、出来上がった曲のどこかで聞いたような味気無さをどうしたらよいのか。
この経験から、形式知があれば、とりあえずやりたいことを実現できる便利な知であることを理解できた。ただし、形式知から生み出された曲は、どこかで聞いたような不満が残る。
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