2015.05/18 問題解決(15)
その昔、フォード社はすべてを自社で開発する体制を作りあげたという。また、日本では1970年前後に基礎研究所ブームがあり、メーカーの基盤技術開発を自前で基礎から作りあげようとした。日産自動車の基礎研究所が二つ作られたのもその時代だと聞いている。
昔のような基礎研究所の時代ではなくなったが、メーカーのコアコンピタンスとなる技術のマネジメントについてどのように行うのか、今は難しい時代ではある。バブルがはじけた頃に、技術のマネジメント(MOT)が話題になった。メーカーが生産性を上げようとするときに基礎研究所のマネジメントが各企業で話題になったのだ。
ゴム会社では、それよりも10年早く1980年頃に研究所の運営が問題になっていた。これは、指導社員が自分の専門スキルであるダッシュポットとバネのモデルを使うレオロジーが将来無くなる、という発言をしていた背景でもある、と推定した。当方は入社後配属された研究所が縮小されてゆくのに戸惑ったが、ドラッカーを読んでいたので、知識労働者のあるべき姿を悩み解決のため考えた。
その結果、現場の技術者が考え、貢献と自己実現の目的で経営へ提案をしなければいけない時代になった、という結論に至った。ゴム会社のマネジメントもその方向になっていた。ゴム会社の社名からタイヤが無くなり、変化に対して工夫で対応する化工品事業を拡大するという方針で、「電池」「メカトロニクス」「ファインセラミックス」を三本の柱になるように育て事業を展開する、と全社員に社長は説明した。
そしてCI導入キャンペーンの一環として論文募集を会社は全社員向けに行った。社長方針を受け、当時フェノール樹脂の天井材を担当していた当方は、有機物から高純度半導体を製造する技術の提案を行った。紆余曲折あったが、無念の退職をするまで事業立ち上げに経営陣とともに努力した。
今もゴム会社にその事業は残っているが、恐らく当方が会社に残っていたら子会社として独立させるマネジメントを行っていたと思う。また、やめる直前までそのような活動を行っており、住友金属工業とJVを立ち上げたのだ。そのとき出願された半導体冶工具の基本特許はもう権利切れになっているが、このころの活動の証拠文献である。
このJV立ち上げ努力と平行して、日産自動車の基礎研究所と電気粘性流体部品開発のお手伝いをしていた。アクティブサスは、電気粘性流体を用いると大変簡単な構造になり、コストダウン可能な技術に見えたが、シリコンオイルを用いる電気粘性流体が高すぎた。
当時ものにならない技術と思いながらも、高純度SiC事業化のかたわらのお手伝いであってもベストをつくし、3種の電気粘性流体用特殊構造粒子やホスファゼンの難燃性油、そしてこの技術を手伝うきっかけとなったゴムからの抽出物で粘度が高くなる問題を解決した界面活性剤技術などを開発した。短期間になぜ豊富な技術を生み出すことができたのか。それはヒューマンプロセスを用いたからである。その具体的方法につきましてはお問い合わせください。
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