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2015.08/04 未だ科学は発展途上(14)

科学と技術については、それぞれ異なる知の形態あるいは体系、構造体であると思っている。しかし、これが科学技術という二つをくっつけた呼び名ができて以来、みそくそ一緒に扱われるようになったのではないかと懸念している。

 

あるいは科学という哲学が生まれてから、その形式知としての美しさゆえに、実践知あるいはノウハウ知、最近よく言われる暗黙知が多くを占める技術の知の形態が軽んじられるようになった気がする、と表現した方が当方の意図が理解されやすいかもしれない。

 

その昔ギリシャの哲学者アリストテレスは3つの知の形態を指摘している。これは大学の教養部で昔学び感動した(注)講義「知性の歴史」の受け売りだが、エピステーメー(Episteme)テクネー(Teche)フロネシス(Phrnesis)と呼ばれているのがそれで、それぞれ形式知、暗黙知、実践知に相当する。

 

アリストテレスの時代に科学は無かったが、形式知である哲学は存在していた。すなわち、エピステーメーは、哲学そのもので、その一分野である科学はこれに相当する普遍的な知の形態である。

 

テクネーは属人的知識であり、職人などの持っている知識に相当する。これは現代の技術者も必要な知の形態だ。ただテクネーだけでは職人の域をでず、フロネシスとエピステーメーを理解できる能力が必要である。フロネシスとは実践からの知恵のことである。アリストテレスの3つの知の分類に従えば、現代の技術者とはテクネーとフロネシスを身につけ、エピステーメーを理解できる職業人のことだと思う。

 

テルマエロマエに出てきた風呂技術者は、科学の存在しない時代の技術者だったので、科学を理解する必要は無かった。風呂の設計については国王の指示に従い、現代へタイムスリップして得たフロネシスを基にテクネーを駆使して、風呂を建設していた。彼は国王のエピステーメーを理解できるだけで良かったが、現代の技術者は、自然現象を扱う多くの科学の成果を理解できなければならない。但し、科学の成果を出すのは技術者の主たる使命ではなく、アカデミアの使命であり、技術者はそれを理解し機能を完成させるのが使命である。

 

すなわちアカデミアの研究者はエピステーメーを徹底して追求することが求められるのに対して、技術者にはフロネシスをエピステーメーで見直したり、テクネーをエピステーメーに近づけ伝承できるようにしたりする能力が求められる。このような能力を鍛えられる場所は、現代ではメーカーの現場と学会であり、大学のカリキュラムには存在しないようだ。そもそも現代の大学で本物の技術者育成コースを備えているところがあるのか?

 

酸化スズゾルの技術を開発することができたのは、ゴム会社で身につけた知の体系のおかげである。酸化スズゾルだけでなく、写真会社で成果をだせたのは、ゴム会社で扱ったテーマからフロネシスとテクネーを身につけ、アカデミアの先生との議論から一部を形式知として普遍化する作業を通じ取得した学位が大きく寄与している。この学位論文にはゴム会社が日本化学会から技術賞を受賞する基になった研究がまとめられている。

 

そのプロセスで普遍化された形式知をもとに写真会社の新たなテーマに必要なテクネーとフロネシスを知の体系の中で見なおしながら仕事を進め成果を出した。だから写真会社で初めての技術に接してもそれが難しいと感じたことはない。さらに昔から技術を担当していた写真会社の人たちを指導できたのも、このような知の体系に基づく作業のおかげだ。

 

ゴム会社ではセラミックスを担当していたが、セラミックス会社とは異なる知の環境だったと思う。ゴム、窯業、その他と分類されたりするが、レオロジーが中心となる高分子材料と結晶構造が中心となるセラミックスでは技術の知の体系が異なると思っている。高分子材料の知の体系を置かれた環境から身につけることができたので、写真会社で成果を上げることができた、と考えている。

 

(注)卒業した大学の講義には、感動的な内容の講義から時間の無駄に思われる講義まで多種多様だった。福井大学の客員教授時代にアジア圏の留学生から講義内容に感動した、という内容のメールを頂いたときにはうれしかった。その時、時間の無駄に思われた講義については先生を激励すべきだった、と反省した。講義する側の問題と受講する側の問題があり、学生が皆下をむいて授業を聞いているのかいないのかわからない状態なら先生も気力が無くなるだろう。

カテゴリー : 一般

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