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2017.03/12 先日の講演会の余談

川村氏の講演会の手土産代わりに,名古屋から駆けつけた高木君提供の1969年11月22日の出来事の写真と何枚かの冊子が配られた。それは文部省「高校生の政治活動禁止の通達」に抗議した旭丘生によるデモについて書かれたものだった。

 

105組担任だった廣林先生が準備された書類だという。ただ、配布された内容を読みデモの思い出よりも日本の教育のありかたについて改めて疑問を感じた。

 

デモには1000人以上が参加した、と書かれていたが、これは主催者側の発表した数値で、当時の新聞によれば800名前後だったように記憶している。主催者側の数値が大きくなるのはこのデモに限ったことではないので問題にしない。

 

ただ、その冊子にデモへ参加しなかった高校生の考察が書かれていなかったのは残念である。すなわち、デモをしたことが立派であった、という書き方である。

 

当方は当事者だったのでこの冊子をそのまま肯定的に懐かしさを込めて読むことができなかった。むしろ一度は教師を目指しながら考え直し技術者として生きてきてよかったと改めて感じた。おそらく教職を選んでいたなら、今の当方の価値観では後悔でその人生を終えたかもしれない。

 

かつて教職は聖職と言われたが、今や単なる知識労働者の一部門となっている。そのように社会が動いた結果だが、デモ当時はまだ聖職者を気取る先生がいらっしゃった。一方で教師も労働者だと血走った目で語る先生もおられた。

 

この高校生のデモの一シーンの裏には、文部省の通達に対してデモではなく他の継続的抗議手段を模索した生徒たちもいた。そしてデモは全校一致ではなく有志で行われたことなどの説明は、その歴史の1シーンとしてそれを正しく語るために重要なはずである。

 

当時の校長室封鎖に始まりデモに至る全校集会の議論では、デモがその目的ではなかった。当時の教育と教師の姿勢、そして大きくは社会体制が問題にされていたのだろうと事件の顛末について自分なりに総括している。そしてデモが終わった瞬間にすべてが日常に戻っていたことに疑問をもっていた。もしデモが戦いの始まりだったならデモの翌日からのあの授業の平穏さを説明できない。

 

単純にデモに突入した生徒も生徒だが、翌日の平穏を見て胸をなでおろしていた教師も教師である。あれでは単なる受験勉強のガス抜きだ。もし先日配布された冊子のような思いがあったなら、生徒の尻をもっとたたくべきだった。教師や生徒の非日常から日常への切り替えの早さに納得していなかったのは当方以外にも多数いた。教師という職業は知識労働者の仕事の中でも貢献のし甲斐のある尊い仕事である。しかし今日に至るまでその本来の目的や教師の役割が明確にされぬまま放置されている。

 

例えば今新聞に毎日のように活字が出てくるいじめなど当方の中学校時代でも存在したが、当方はいわゆるいじめっ子と戦っていた中学生だった。だからいじめっ子にとっては当方がいじめっ子に見えたかもしれない。時には危険な目にあいそうになったが、そのようなときには交番に駆け込んだ。生徒が危険な状態になっても先生が守ってくれないことを経験から知っていたからである。たかが子供の喧嘩と軽く見てはいけない。チェーンや刃物などが校内に持ち込まれ、生死を賭けた光景も現実に見られた。だからお巡りさんが時々学校に現れた凄まじい教育環境だった。しかしそれは隠蔽された。

 

通学していた中学校は名古屋市内でも、知る人ぞ知るその方面で少し有名な学校だった。ゆえに自分で自分を守る知恵はその生活の中で自然についた。教師を交えたデモの議論でも当方の目には同様に映った。なぜ全校一致ではなく「有志」でデモを行わなければいけないのか。先生はなぜ一緒に戦わないのか、すなおに不思議に思った。県教委通達も問題だが、それに対して短絡的に生徒だけでデモをしようという意見に疑問を持った。

 

ドラッカー流に何が問題なのか、考えても答えを出せるほどの大人ではなかった。ただ、亡父から渡された「断絶の時代」を理解しようと辞書を片手に毎日必死に読んでいた。「世代の断絶」という言葉は、著者と異なる意図でこの年の流行語となった。1969年は、ドラッカーが愛読書になった思い出の年である。大切なことはイデオロギーで過去を正当化したりせず、豊かで健全な未来を築くために皆が誠実で真摯に努力することだろう。

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