2025.05/25 日産自動車の「社長」
ニュース報道で日産自動車の取り上げられる頻度が高い。今コメ問題についで日産自動車の動向が日本人の関心ごとかもしれないが、社長が交代した結果であることも注目していただきたい。
おそらく、交代前の社長だったなら、現在のような展開になっていなかっただろう。これだけメリハリのはっきりした大会社の社長交代はめったにないので、サラリーマンの出世を考えるときの良い題材かもしれない。
昨日は当方の不幸な12年間のサラリーマン生活について注)で触れたが、不幸な出来事だけでは12年間も勤務できない。幸運な出来事や、人生に良い影響を与えてくださった人との交流も少なからずあったので12年間我慢できたのである。
その12年間を日産の元社長の人物像から気づいた視点で反省してみると、幾つか当方の反省点も見えてくる。例えば、新入社員の時にゴム会社社長の講話で「火中の栗を拾う人物となって欲しい」という言葉を聞き、その気になって高純度SiCの半導体治工具事業を立ち上げている。
これは、社会情勢がファインセラミックスフィーバーで、ファインセラミックス事業を呼びかける社長方針が出されても研究所では方針無視状態が続いたからである。しかし、火中の栗を拾ったとたんに火だるまとなっている。
恐らく日産の元社長ならば、研究所の管理職と相談し、おとなしく他のメンバーと歩調を合わせ、社長方針など適当に右から左へ流すような仕事の進め方で乗り切ったかもしれない。
あるいは、ポリウレタンの難燃化研究のテーマ検討において世界初の難燃化技術という目標設定がなされても、ホスファゼン変性などという高度な最先端技術の提案などせず、大八化学が試作品評価を依頼してきたチャンスを利用し、当時の上司の仕事のやり方であった独占契約を結び、それを世界初の技術として企画したかもしれない。
大企業の組織における仕事は、無難に右から左へ受け流すだけでも、70点となる。多面評価であれば、笑顔を上乗せして100点とすることも可能だ。
かつて、カローラとサニー、コロナとブルーバード、セリカとシルビアとが市場で争っていた時代がある。今の日産自動車の国内車種の少なさは当時と比較すると驚くほどの状態である。
そして、ゴーン退場後の経営陣の状態が週刊誌報道されて、その内情が明るみに出てきた。日産自動車の「社長の姿」は、サラリーマンの人生を考えるときに参考となる。
日本では、ドラッカーが書いているような、誠実真摯に会社に貢献できるように必死に働くと失敗する確率が高くなるのではないか。当方の体験談を書くときに躊躇する理由が、このような誤ったメッセージとなる心配である。
火中の栗を拾った結果は大変だったが、高純度SiCの事業は、ゴム会社で30年続き、その後愛知県にあるMARUWAという企業に事業継承されている。
この仕事でまったく評価を受けていないが、住友金属工業と半導体治工具事業を立ち上げた思い出や、当時の人たちとの交流が続いている。すでに亡くなられた人もいる。創業者の立場は、ゴム会社の同期や一部の人がご存知であり、それが転職後のリスキリングの支えとなった。
新入社員の時の社長のメッセージ、「火中の栗を拾う(注)人物となって欲しい」をどのような意図で話されたのかは今となってはどうでもよい話である。
しかし、拾った結果、現在の当方の人生であることを思う時に、柴本重理氏に感謝したい。科学を唯一の哲学とする研究所でひどい目にあわなければ、科学とそれを唯一の哲学として扱う研究者に疑問を持たなかったかもしれない。トランスサイエンスの重要性に早く気がつかなかったかもしれないのである。
(注)日本社会では、火中の栗を拾わない方が良い。もし、拾いたいならば、誰かをおだてて拾わせて、温かいうちにそれをもらうのである。奪う人ばかりを見てきたが、奪われた立場では、悲しい思い出となる。日本社会の良いところは、奪われた立場の人を激励する奇特な人が現れる点である。中国ではそういう人は現れないので拾った栗は死ぬまで手離してはダメだ、と中国人に教わった。死んだあとは国際問題となるといけないので書かないが、火中の栗の話は、人生訓としてあまりよい話ではない。ダイハードという映画シリーズがあるが、ハッピーエンドがわかっていても何故か笑って見れなかった。
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