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2025.06/27 ホスファゼンエラストマー

大学4年生の時に有機合成の研究室で1年間充実した研究生活を送り、有機合成のスキルや当時一部で話題になったAI関係の研究としてコーリーの逆合成を勉強している。それだけではない。


自慢話になるのでこれ以上書かないが、レベルの高い研究室で、恐らく当方の研究者としての基礎が完成した1年だったように思う。ショートコミュニケーションだったがアメリカ化学会誌に当時の研究成果が掲載されている。


あのノーベル賞を受賞された野依良治先生にも褒められている。このような体験は人生の励みになる。ところが、名古屋大学というところは教育機関として理解できないところで、このような講座をつぶしてしまった。


仕方が無いので、大学院はSiCウィスカーの研究講座へ進学している。この講座にホスファゼン研究で有名な梶原鳴雪先生がおられて2年間この先生のご指導を受けている。また、ご指導を受けるとともに、論文を4報書くなど2年間十分に貢献している。


大学院の2年間は教授が考案した研究テーマを遂行したが、2年間最後までやり通し、論文まで書いたのは当方が初めて、という奇妙な褒められ方を梶原先生からされた。確かにテーマはその時代に旬のテーマではなく、研究が末期のホスフォリルトリアミドという化合物だった。


研究調査を行うと、この化合物について研究する内容など無い、という結論となった。梶原先生は勝ち誇ったように、教授のテーマはいつもそうで、毎年梶原先生が研究されている内容の一部を大学院生は研究して卒業してゆく、と話されていた。


当時アメリカにはオールコックというホスファゼンの第一人者がいて、リニアタイプのホスファゼンポリマーを研究していた。梶原先生は、ホスファゼンをリングのまま重合する研究をされていた。


すなわち、当時ホスファゼンの研究はこの二人の先生の研究分野が中心だった。しかし、当方は教授の考案されたテーマだから最後までやり遂げる、と主張している。そして、梶原先生から毎日まだそのような研究をやっているのか、と聞かれ、半分喧嘩状態で研究生活を送っていた。


しかし、半年もホスフォリルトリアミドを研究しておれば新しい方向も出てくる、というよりも今から思えば、アカハラに近い状態が新しい方向を生み出したとも思っている。当方はほとんど意地になって毎晩遅くまで研究していた。


そして、修士論文では3報分の研究成果を出している。1報は卒業式の後の2週間梶原先生が研究していてよいと言われたので、晴れてホスファゼンの研究を行い、一報論文を書いた。


研究者の少ない領域というのは、未踏査の研究テーマが多くあり、楽であることを知った。しかし、研究者が少ないということは、注目されていないということでもある。SiCウィスカーの方が注目されていた。


しかし、大学院の2年間でホスファゼンの研究は、世界の注目を集めるようになり、1980年代には日本でも10社以上の企業で研究開発が進められ、大塚化学はいち早く事業化に成功し、10年ほど前までホスファゼン事業を行っていた。


これは1970年代末にファイアーストーン社がホスファゼンエラストマーの事業化に成功したからである。ゴム会社からは3名の研究者がファイアーストーン社と交流しているとの情報が梶原先生のところに届いていた。


それで、当方はゴム会社へ就職を決めたのだが、研究所へ配属されてがっかりしたのである。ただ、部所間で情報共有がなされていなかったので、タイヤ部門と非タイヤ部門、および研究所から1名づつ3名ファイヤーストーン社へ訪問していただけだった。


ホスファゼンの研究などテーマとしてどこの部所でも扱っておらず、それで研究所に配属された当方は、ホスファゼン変性ポリウレタンフォームを企画したのである。これも1種のホスファゼンエラストマーである。そして工場試作に成功後始末書を書かされている。


ファイヤーストーン社ではリニアタイプのホスファゼンエラストマーだったが、当方は環状のままエラストマーとして世界で初めて実用化への道を開いたのである。しかし、始末書である。


入社動機となった研究について量産技術を開発しながら始末書を書かされ、一生残る心の傷を負うことになった。その後、80万円のローンもさせられることになる。とんでもない会社に就職したのだが、地獄ばかりではなかったので12年間勤務できた。天国の話はいつか書きたい。

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