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2017.06/04 無駄な研究はあるのか

高分子学会の年会では、学生のためのキャリアカフェなどの企業ブースがあったため、企業の方々も会場に多かった。日本化学会の年会では規模が大きいので企業研究者の参加が少ないように見えるが、高分子学会の年会では、発表こそ少ないが、出席者は多いように思われた。

 

企業研究者の数はアカデミアよりも多いはずなので、本来は、発表者も参加者も同じくらいが理想だと思っている。これが小規模の研究会になると企業研究者の割合は多くなるが、この研究会の内容によっては、アカデミアが圧倒的多数という状態も見受けられる。

 

こうした企業研究者のばらつきは、明らかに研究発表について序列あるいは価値判断をしている結果である。若い頃に興味があったので出てみたい研究会があり出張を申し出たら、上司から仕事に関係ない無駄な研究発表を聞いてどうするのだ、と言われた思い出がある。

 

民間のセミナー会社の講演会は4万円前後であるが、学会開催の研究会のたぐいは1万円程度で、また発表件数も多いので、一件当たりのコストパフォーマンスが高い、とか説明し何とか出張許可を頂こうとしたら、その高いと言っているセミナーで聴いてきて欲しいのがあるからこちらへ行ってこい、と言われた。

 

そのセミナーは難燃剤のセミナーで業務に直結はしていたが、残念ながら自分の知識の範囲以上の情報は無かった。しかし、組織で働く立場として出張報告には「時間の無駄だった」とは書けず、「知識の整理ができた講演会」というコメントを書くのが精一杯だった。

 

源氏物語の研究で光源氏の恋に新しい真理が見つかったとしても、その価値を感じる人は源氏物語ファンに限られるかもしれない。しかし自然科学の研究では、それで新しい真理が導かれている限り、技術者にとって、そこに新たな機能や問題解決のヒントになるコンセプトが潜んでいないか、考えるだけの価値がある。

 

今アカデミアは、求められた真理について研究との関係に関する考察を加えるだけではなく、それがどのような新しいコンセプトを人類に提案しているのか、あるいは人類に役立つどのような機能を見いだしたのか、など真理の一般化や汎用化の考察を夢でも良いから自ら「しなければいけない時代」だと思う。素粒子研究などでは、壮大な夢物語が語られ、時としてそれをばかばかしく思ったりして自分の年齢を感じたりするが、その他の分野の研究者も見習う必要があるのかもしれない。

 

(注)本来は人生に関わるという理由で、光源氏の恋についても価値を感じなければいけないのかもしれないが、古典に興味が無ければ記事さえ読むこともない。文学の研究の価値を問われても分からないが、自然科学の研究は、人類が営みとして自然から新しい機能を取り出す活動を必要とする限り価値がある。昨日名大工学部応用化学科の卒業生の集まりがあり、山本尚先生のご講演を聞くことができた。明日からこの先生のお話についてまとめる前に、当方の科学の研究に対する考え方を本日書いてみた。

カテゴリー : 一般

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