ペンタックスがフィルムカメラを開発しているという。昨年末よりユーザーとの共創プロジェクトが動いている。今時フィルムカメラにどれだけのニーズがあるのかわからないが、面白い試みである。
携帯のカメラ機能が進化したので、コンパクトデジタルカメラの市場が一気に無くなった。デジタルカメラは著しく高画質の方向へ開発が進められ、ニコンZ7で撮影した写真は、すでに銀塩フィルムの映像をはるかに超えた美しい絵を出力してくれる。
A3まで引き延ばしてもその美しさは変わらず、思わずため息が出たのだが、最近写真撮影するときに使うカメラは、ペンタックスK3である。
結局10年前に購入したカメラに戻ってしまった。ニコンZ7は防湿庫に眠っているのだが、ペンタックスカメラには不思議な魅力がある。
10年以上前にペンタックスで撮影した写真で国際ボディペイント写真コンテストで優勝した。ミラーレスブームとなりペンタックスからニコンカメラに変えたのだが、きれいな写真が失敗無く撮れるにもかかわらず、今一つ不満だった。
そしていつのまにか、ペンタックスK3に戻っていた。写真の魅力が高解像度できれいに撮れてそれでおしまいではないことに気がついたからである。
そもそもカメラで写真撮影をするときにイメージしている画像は、ただのきれいな映像ではない。レンズを通して見える世界からの創像である。少なくとも当方が写真撮影する目的は、自分でイメージした絵を得たいからである。
もしかしたらペンタックスの技術陣も同じことを考えたのかもしれない。最近モノクロ専用デジカメを新製品として出してきた。サンプル写真を見ると、単にカラー画像をモノクロに変換しても得られないであろう絵である。ペンタックスカメラは感性領域で新製品開発を進めているのか?
各社がミラーレスに移行したのにペンタックスは従来のTTLミラー方式である。ミラーレスとの違いは、オブジェクトからの光を直接自分の眼で感じているかどうかである。
ミラーレスを使ってみるとこの差異を強く感じる。確かにミラーレスでは仕上がりを確認できた画像を失敗無く撮れる便利さがある。しかし、出来上がった写真を見たときに失敗の無い味気無さが残る。一眼レフカメラに戻った原因は、恐らく失敗するかもしれないという快感を味わいたいのかもしれない。
ペンタックスとニコンのカメラでは、得られた写真に明らかな違いを銀塩写真のころから感じていた。ニコンカメラでは失敗なくきれいな写真が撮れる。それが分かっていても一発勝負の写真コンテストでは、いつもペンタックスを使ってきた。
ニコンカメラではきれいな写真が撮れるが、ペンタックスでは歩留まりが悪くても自分の思い描いた写真を撮れるからだが、この違いがどこから来るのかよくわからない。
ニコンカメラに搭載された技術はペンタックスカメラよりもスペック上は高い。しかしペンタックスカメラにはスペックに現れない魅力がある。
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昨日日産自動車のリコールの話題を書いたが、自動運転技術で感心するのは、ぶつからないように制御されている安心感である。ただし、この安心感は砂上の楼閣のようなものだ。
ソフトウェアーにバグがあった場合には、制御が危険な方向に行われるか、制御不能となる。オーラに乗っていて感心した点は、多数のバグらしきものがあっても、常に車の基本機能が安全側に制御されていたことである。
新車納入後の点検のたびにクレームとして問題を指摘してきたが、また、最初にはA4用紙にクレームをまとめなければいけない事態だったが、それでも車を信じていた。
おそらく新車納入時の車が、中国の名もないメーカーの自動運転車だったならこのような安心感は無かっただろう。やはり「技術のニッサン」に対する信頼は大きい。
しかし、これは理解できることだが、ディーラーにクレームをつけてもソフトウェアーの問題は新しいソフトウェアーが提供されていない限り対応できない。
バグの修正のないまま乗り続けることになる。今回のリコール対象となった、プロパイロットをオフした時の急加速については、車間距離をとっている高速道路上であれば何ら問題を感じなかった。
最初は驚くが、車が運転者の操作に応答してくれたようで当方は好感を持っていた。おそらく車が頭脳を持ち進化していったときに怖いのはこの信頼感だろう。
10年ほど前に自動車の評論を読んでいた時に、自動運転車になれば事故が減るようなことが書かれていた。当方はこの意見に疑問を持っている。おそらく一定数まで事故は減少するのかもしれないが、0にはならないだろう。
まだ現在のレベルであれば、運転者は自動運転のミスを検知できる可能性が高いが、技術が高度化した時に自動運転のミスに運転者が気づけない場合が出てくる。
すなわち想定外のバグ発生に対する安全技術は、自動運転技術の高度化とともに難易度が上がってゆく可能性がある。すでにオーラレベルの自動運転でバグなのかそれが仕様なのかわかりにくいケースが出てきた。
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先日14日に日産自動車オーラやセレナのプロパイロットについてリコールが公開された。プロパイロットをオフにしたときに他の操作と重なると急加速するからだそうだ。
当方はオーラ4駆に乗っているが、これ以外にいろいろ不具合があった。例えばサイドミラーを格納し、次回乗車時にサイドミラーを使用可能にすると微妙にミラーの角度が変わっていたり、ナビシステムの不具合、プロパイロット使用時にセンターライン寄りになるなどである。
ナビシステムの不具合は、突然進路を示していたイエロウラインが消えたり、画面がメニュに戻ったり、ハードスイッチが応答しなかったり、と様々な問題が起きていた。
プロパイロット使用時にセンターライン寄りになるのは居眠り防止かと誤解していたのだが、トラックが近寄ってきたときにトラックの方に近づくので居眠り防止というよりも肝試しに近かった。
自動運転中は、安全側に制御されるので、車が好き勝手に動いてもそのまま任せていたが、今回のリコールでプログラムの修正が行われた車に乗ったところ、すべて解消されていた。
さて、リコール対象となったプロパイロットをオフにしたときの急加速について、当方はそれが車の仕様だと誤解していた。プロパイロットの使用は高速道路限定が鉄則で一般道での使用は想定していない、とマニュアルに書かれている。
一般道での使用を禁じているのは、赤信号でも突っ込んでゆく車について行ってしまうからだが、高速道路の使用でオフ時に急加速してくれるのは気持ちが良い。
ゆえに、当方は高速道路での急加速を異常と感じていなかった。車がOKと答えてくれているような感覚で使用していた。自動運転がさらに進化した時に、自動車と運転者とのコミュニケーションがとられるようになるのだが、その時何が異常なのか気づくのが難しくなるのではないか。
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研究開発のゴール設定が難しい時代になった。ソフトウェアー業界では早くからアジャイル開発が行われるようになり、研究開発のゴールの陳腐化しない工夫がなされた。
セラミックスフィーバーの時にゴム会社の研究開発本部リーダーに就任したU本部長は、ソフトウェアー業界が導入する前からアジャイル開発を指向していた。
「まず、モノ持ってこい」と研究企画会議で管理職に命じている。「モノができないから研究を行う」と答えた管理職には、「女学生より甘い」と、今ならばパワハラや差別発言など非難されるような厳しい言葉がかけられた。
もっとも研究所の体質も新入社員に始末書を書かせて平気な係長や課長が管理職を務めていたような部門であり、さらに事業でも起業しようものなら周囲から袋叩きにあうような、研究だけやっていたいという甘い集団だった。
18歳からドラッカーを愛読書としていた当方には、その風土にびっくりしている。タイヤ事業部門の研究開発部隊は別組織となっており、同期の技術系社員の大半はそこに配属され、この甘い研究組織に配属されたのは博士課程出身者の1名と修士卒の当方含めた2名だけだった。
タイヤ事業部門に配属された同期からは、事業機会を逃がさないために残業の多さも含め厳しい職場環境の、ある意味幸せな愚痴が漏れていた。企業の技術開発にあこがれていた当方は大学よりもアカデミックな風土になじめず、苦労していた。
事業を目標としていない研究テーマにその意味を感じていなかったので、U本部長が就任された時には、研究所の風土が変わることに期待して無機材質研究所からこの研究所に戻っている。
さて、ドラッカーは担当した業務について「常にそれが事業の何になるのか問え」と言っていた。組織の中で働くときに担当した職務から事業が見えないケースは、組織が大きくなればなるほど個人の役割は抽象的になるので多くなる。
それゆえ、事業の何になるのか問う個人の努力が重要となってくる。方針管理は1970年代にQCが定着した頃から行われているが、個人の業務のゴール管理は、バブル崩壊後からではないか。
研究所においては、研究所のミッションさえ明確にしていないところも存在するらしい。いまや基礎研究でも個人の研究テーマのゴールを明確化すべき時代である。
しかし、DXの進展により時代の流れが40年前と比較できないほど早くなった。そのような時代に数年後のゴールなど設定できない。1年後でさえ難しい、と思っている。
たとえ難しくてもとりあえずのゴール設定をしなければ効率的な研究開発などできないので、どうしたらよいのか悩まれている方は弊社へご相談ください。
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LOIについて規格に準拠した方法でうまく測定できない場合に自分で工夫して条件を決めて測定するとよい。但し、求められたLOIについて規格外の方法で測定したことを記録しておくことが大切である。
燃焼試験では常に規格の扱いをどのように行ったのか記録しておかなければ、後日他の人がデータを見たときに悩むことになる。規格通りの測定においても燃焼挙動に変化が見られたらそれも記録しておくと経験知として利用できる。
また、各燃焼試験間で普遍的な相関を見出せないことはよく知られているが、LOIが21以上の性能にならないと合格しない規格として、UL94-V0試験がある。
ゆえにUL94-V0試験に合格しているならLOIは21以上という推定は正しいが、LOIが21以上ならばUL94-V0に合格する、という逆の命題は真ではない。ゆえにLOIとUL94-V0とは相関が無い。
このように各燃焼試験規格の間に相関が無い場合が多いが、これを知っておかないととんでもない技術を開発することになる。
例えば昔難燃二級という建築規格の燃焼試験があった。これは暗黙の合意として空気中で自己消火性を示す材料が求められた。すなわち、台所用天井材の規格とした場合に着火しても火が消えてくれる性能が求められた。
台所用の材料なのでLOIは21以上欲しい。しかし、燃焼試験中に試料が大変形し試験用の火源から離れた場合についてこの規格では判定方法が決まっていなかった。すなわちそのような場合に合格するかどうかは、燃焼試験後のサンプルの状態を目視観察する決まりになっていた。
この決まりでは、変形しても穴が貫通していなければ合格という判定が可能だった。ゆえに加熱されると餅のように膨らむ変形では、膨張してはじけなければ合格となった。
その結果、LOIが18-19程度の材料の天井材でも合格となる場合があって、そのような天井材が市場に出回り、火災が頻発する事態になった事件が1980年代初めに起きている。
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規格の存在が実験を難しくする場合がある。LOIはその一例だが、その他の火災に関する評価技術にもそのような規格が存在する。
電気抵抗に関する規格では、高抵抗の絶縁材料で評価不能となる場合があるが、これは抵抗が高いためであり、高抵抗ゆえに測定不能と書けば間違いない。
しかし、LOIで測定不能とすると、燃えにくいためか燃えやすいためか不明なので間違いのもとになる。とっておきの面白い話があるが、本日のテーマから脱線するので後日紹介としたい。
少し面白い話として、アラパフォメーターの体験を紹介する。煙量を測定できる評価装置だが、煙の原因が煤であることに着眼した評価技術だ。濾紙に付着した煤の量で煙量を評価する。
ほとんどの試料でうまく評価できるのだが、ハロゲン化合物と三酸化アンチモンで難燃化した試料では煤が多すぎて、測定不能となることがある。
一方ホスファゼンで難燃化したした試料でも煤がほとんど出ないので測定不能となることがある。その結果、LOI同様に測定不能とするとその結果が良いのか悪いのか不明となる。
この話のどこが面白いか説明しないので想像してほしい。少しニヤリと笑えた人は、それなりに火災と評価技術の問題を理解できた人である。トランスサイエンスを理解できると大笑いできるかもしれない。
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LOIは継続燃焼するために必要な最低限の酸素濃度を指数化したものである。ゆえに、測定法を工夫すればどのようなサンプルでもその値を求めることが可能である。
工夫するにしてもガス流量と測定雰囲気温度を一定にすことは重要である。いずれの因子にもLOIは影響を受ける。また、LOIに影響を与えるが、センサーなどの部品が揃っているので精度よく管理することは可能である。
タグチメソッドの実験では、これらは誤差因子となる。もし、ガス流量や測定雰囲気の温度を信号因子にした実験を行うと、後者については悩ましい結果となる。
ガス流量も規格値を中心値として測定すると信号因子になりそうな結果が得られたりする。実験は面倒になるが、難燃剤の添加量を信号因子にすると、LOI値が23ぐらいまでは、線形性の良い結果が得られる。
UL-945VBに合格するためには、LOIは21以上が必要なので、それを目的とした材料の基本機能のパラメータとしてLOIを用いることが可能である。
LOIの測定を規格通りに行うと測定不能となる試料が出たりする。しかし、規格外の条件で工夫するとどのような試料でもその値を決めることが可能となり、その再現性も良い。ただし、規格外で得た値は、あくまでも規格外であることを忘れてはいけない。
しかし、難燃性を樹脂の基本機能としたときに用いるパラメーターとしてLOIは難燃剤の添加量や高分子の高次構造に対して線形性が成立するので、燃焼速度よりも扱いやすい。
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高分子の不燃化は難しいが、燃えにくくする技術ならばできそうだ、と1970年前後の高分子材料の研究者は考えた。そして高分子の難燃化技術の開発がそのころから活発になるのだが、「燃えにくく」する技術の評価をどうするかが議論された。
1971年に書かれた書籍には、LOIに関して触れられていない。空気中で実際に燃焼させてそれを観察する評価技術が中心だった。
そのころ、燃焼とは急激に進行する酸化反応なので、どのくらいの酸素濃度で継続燃焼できるのか、という指標が科学者達から考えだされたばかりである。
1995年にJIS化されているが、当方は1977年にスガ燃焼試験機を使用し、PVAフィルムのLOIを測定している。その時PVAフィルムの燃焼速度が速いために使用法に書かれた条件では測定が難しかった。
点火器の炎の大きさなどを工夫し、測定可能な条件を見出して、燃焼を継続可能な最低限の酸素濃度を求めることができた。その同じ条件で、新規反応型難燃化剤で変性されたPVAについてLOIを測定したところ、添加量に対して線形性の高い関係が得られた。
LOIの測定法について書かれた論文には、ろうそくの炎のように燃焼、と書かれているので、測定法の工夫は、どのようにそのような燃焼条件を実現するのか、がコツとなる。
東日本大震災ではキャンドルアートが話題になり、最近再度そのアーティストが話題になっているが、規格に準じた測定において測定不能となるサンプルのLOI測定には、ちょろちょろと美しく継続燃焼できるように調整するアーティスティックなテクニックが重要である。
規格に準じて評価し測定不能と結論を出すのも良いが、実験の目的によりどうしてもLOIを知りたい時がある。その時には、規格外の方法であっても測定可能な条件があることを知っておいてほしい。
LOIは、ろうそく燃焼法として書かれた時代もあった。規格に準じて測定を行うことは大切だが、測定不能であっても工夫して測定値を求めると、タグチメソッドの基本機能として使用可能である。
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激暑の夏に飲料水は欠かせない。高校生の時は、あのチェリオが流行しており、誰もがクラブ練習後に学校近くの少し汚れた店先のチェリオを飲んでいた。同じ価格でどの飲料水よりも量が多かったからである。
高純度SiCの半導体治工具事業を始めた1983年ごろキリンから午後の紅茶が発売された。紅茶ドリンクの流行が始まった頃だが、その翌年表題のミルクティーが500ml紙パック100円で登場している。
おそらく当時の高校生にはヒットしたのかもしれないが、午後の紅茶の大人の味とは少し異なる方向だった。ミルクティーでありながらさっぱりした味わいは悪くないのだが、また、コスパも良い。
コロナ禍となって森永は突然この銘柄の新製品を出してきた。しかし、新製品を出して1年でまた旧製品に戻したことが話題になっている。
話題になっていたので早速購入して飲んでみたのだが、500ml一気に飲めてしまった。ミルクティーでありながら飲み口がさっぱりしているのだ。昔はこれが安っぽく感じたのだが、夏の暑い日にはこのさっぱり感が合っている。
森永としては売り上げが落ちてきたのでより高級感のある新製品を出してみたところ、特に売り上げ増につながらず、愛飲者から昔の味に戻してほしいというラブレターが多数届き、結局旧製品に戻したという説明がついていた。
そして旧製品に戻したところ売り上げが復活したというので話題になっている。このような現象は市場調査による商品企画の難しさを示しているのだが、ロングライフの製品については多少売り上げが落ちたとしてもその市場動向の判断に注意を要する。
飲料水ではないが、日産フェアレディZの新型がなかなか納車されないという。この件については、EVへという業界の流れの中、モデルチェンジしても売れないだろうという日産社内の判断が働き、生産計画を極めて後ろ向きに設定した、との説明が新車発売時にあった。
ところが予約注文が殺到して現在もその消化のために追われているという。市場ニーズを読み間違え事業機会を逃がしたわけである。
ミルクティーもフェアレディ-Zも歴史のある製品である。このような製品では、隠れたファンの存在をどのように掘り起こすのかという戦術が重要で、長期的な戦略で市場活動を行う必要がある。
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日本政府はSUMCOはじめ海外の半導体企業の工場を日本に誘致し、産業の米とかつて呼んでいた半導体産業を改めて日本で育てようとしている。しかし、日本の半導体産業の凋落原因について本質的な反省が無ければ、国民の税金をドブに捨てることになる。
日本の半導体産業の凋落について、タイミングの良い投資など経営面の問題がよく語られる。すなわち、ヒト、モノ、カネの組み合わせ問題にその原因をもとめ、大型投資が必要だった半導体産業においてカネの決断ができなかった、というのである。
もっともらしい説明であるが、もし、半導体技術分野でリーダーとなれるソフトウェアー技術が育っていたなら、投資決断はそれほどの問題ではなかったと思われる。
そして大型投資を国がサポートするような今日と同様の体制構築をできたはずと、当方は以前より考察してきた。
例えば、CPUについてインテルの独走を阻むことができるぐらいの技術が日本に育っていたならば、現在のような状態にならない政策を政府に促し、トップランナーとなることができたかもしれない。
しかし、日本の半導体産業の凋落を語る時に、カネの問題が議論されることはあっても、そのカネを促す技術シーズの育成問題について本音のところが語られていない。
30年前、技術経営(MOT)のブームが起きた。バブルがはじけたときに、それまでバラ色の科学論が日本で展開されていたが、それが技術経営の議論へと変化した。同じころアメリカではトランスサイエンスが話題になり始めている。
すなわち、科学への疑問と技術に対する見直し議論が30年前に行われているが、ソフトウェアー開発では科学と異なるアプローチが求められ、そこにアメリカは気がつき、現在に至る。
ところが、日本ではようやく義務教育にプログラミング教育がカリキュラムとなった。このソフトウェアー技術に対する認識の日米の違いがどこから由来するのか、日本のリーダーは反省が必要である。
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