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2014.07/19 早稲田大学の学位審査

小保方氏の学位論文には不正があったが、その取り消しには当たらない、という早稲田大学の見解が昨日新聞発表された。不正の方法と学位の授与との関係に因果関係が無いから学位取り消しに当たらない、という。おそらく裁判になった時を想定した解釈だろう。

 

新聞には丁寧な説明が書かれていたが、早稲田大学の学位審査は、多少の不正を行っても論文のロジックが厳密であれば審査には影響しない、と言っているような内容である。一方で、彼女の論文は正常な審査であれば通過しなかったが、すでに審査された学位論文を取り消すまでには至らないと、通過しないレベルの論文が通過したので許されるというおかしなことも述べている。

 

この姿勢は真理を追究する科学者を育てる、という視点から見ると大変恐ろしいことなのだ。すなわち捏造を行ってもそれが明らかにならない、ロジックで厳格に支持された捏造ならば許される、と言っているようなものである。

 

科学の世界では、新しい発見について科学的な証明を行うために実験は不可欠である。実験を行い新しい自然現象が再現された時に仮説が正しい、となる。早稲田大学から今回発表された見解は、厳密な論理で裏打ちされた実験ならば、誰にも分からない捏造をやっても良いですよ、と言っているのである。

 

もしこのような姿勢でSTAP細胞の実験が行われたならば、野依所長の晩節を汚すことになる。野依所長は捏造されたかどうか分からない実験結果を信じて判断を下す役目にあるからだ。

 

そもそも科学に携わる人間は一点の曇りも無い心の持ち主(追記)の天職であったはずである。性善説で科学の世界は動いてきた、といわれるのはそのためである。ところが分けの分からない科学的成果でもそれが人類に役立つ「かもしれない」と権威づけられたときに科学者が地位と名声を得られるような時代になってから、研究の捏造が増えてきたのである。

 

技術の世界では実際に安定した品質の「モノ」ができなければ地位や名声は得られない。だから他人の成果を取り上げるような不正は行われても、その成果にインチキな実験が含まれるという余地は少ない。

 

仮に捏造を行ったとしても実際に機能が実現される前提が保証されていなければ捏造の価値が無くなるのである(注)。ロジックが厳密で誰にも分からなくなる捏造を認めた科学の世界は、捏造が品質に影響してその結果が市場で影響の出る技術の世界とはもはや車の両輪に例えられない。

 

少なくとも不正を不正として認め、不正の無い状態の論文を受け入れる、というセレモニーを行うべきで、「まちがって下書きが製本され、それで学位審査が行われた」という言い訳が通用していてはおかしいのである。もっとも早稲田大学の学位とはその程度のレベル、と言うのであれば話はべつだが。

 

(注)企業秘密と成果の早期公開との問題を解決するために、学会発表でデータを黒塗りしたりすることは暗黙の了解となっているが。

 

(追記)下書きが間違って製本されそれが審査された、という言い訳が今回認められている。この言い訳の内容について、どこからアイデアが出てくるのであろうか。また、それを簡単に認めてしまう大学をどのように理解すればよいのであろうか。苦労して学位を取得した経験からはとても理解できないことが起きている。

カテゴリー : 一般

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