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2022.09/29 常識

ゴム会社でOA委員に任命される前にコンピューターの可能性に着目し、多変量解析を業務に導入したいから職場で一台MZ80Kを購入してほしい、と上司に願い出たところ、上司はそれほど便利なモノなら自分で購入しろ、と指示してきた。


新QC7つ道具にも採用されており、新入社員研修でそれなりの成果が出た、と説明したら、自分で購入しポリウレタンの難燃化で成果を出しなさい、と命令された。


「花王のパソコン革命」というハッタリではあるが20年後に実現するであろう未来が書かれていた本では、NECのPC8001が推奨されており、上司からMZ80Kはどうなった、と尋ねられたので、カローラ1台分かかったが、独身寮で軽快にプログラムが走ってます、と答えている。


するとOA委員として活動し、早く成果を出せ、と催促されたので、昼間はポリウレタンの難燃化研究を行い、夜はデータベースの勉強(当時は英文の文献を取り寄せて読むという面倒な作業だった。)をするという生活になった。


「花王のパソコン革命」では、図書室の本の管理をPC8001で行うのに20万円かからなかった話が書かれており、当方の車1台分かかるようなコンピューターではなくNECを検討しろ、と命令された。


上司は、MZ80Kの提案を採用しなくてよかった、と言わんばかりの嫌味をネチネチと言ってきたが、今ならば過重労働と部下にローン(注1)を組ませて会社の業務を強制しているブラック企業の管理職となる。


ゴム会社の図書室では、美人社員(注2)が工夫したノート1冊で図書の管理を行うシステムが評判となっていた。図書室は、若い技術者で溢れており、OA委員会では図書管理以外のOAをテーマにした方が良いだろうと、いうことで薬品管理システムが開発目標となった。


薬品管理では、棚卸のためにハードコピーを毎月打ち出す必要があり、プリンターが必要になった。それだけでなく、図書管理よりもデータベースが大きくなった。PC8001のシステムではFDの容量不足からソード社のパソコンを1セット導入する計画を立てた。


しかし、上司からMZ80Kより高いことを理由に却下された。そしてMZ80Kでできない理由をまとめろ、と指示された。PC8001ではFDの容量不足を理解されたのだが、当方のMZ80Kでは、工人舎の大容量のFDが稼働していた。


そのため、MZ80Kでもできる可能性があり困った問題が起きたのである。いろいろ考えたあげく、漢字出力ができないことや、当時第二精工舎(今のエプソン)ユニハンマー方式のプリンターでは出力が遅いことなどソード社の8ビットコンピューターより劣っている問題を抽出した。


上司とすったもんだのあげく、120万円の予算が認められ薬品管理システムが3か月後稼働し始めたが、当方が無機材質研究所へ留学してからは、使われなくなった。


誰も便利なシステムと感じなくなったためである。データベースのシステムが、データベース管理者が必要という常識の無かった時代の話である。当方の過重労働など上司も含め関心を示さなかった。


この上司の部下としての3年間に、薬品管理システムの開発以外にホスファゼン変性ポリウレタンの工場試作、ホウ酸エステル変性ポリウレタンの実用化(燃焼時にガラスを生成する難燃化技術)、溶融型の難燃性ポリウレタンの実用化、高防火性フェノール樹脂天井材の開発、高純度SiCの前駆体研究(これがきっかけでゴム会社で30年高純度SiC半導体治工具事業が続くことになる)を当方は成果として出すことができ当方の学位論文の一部にもその内容が書かれている。


この上司の高いマネジメント能力は評価され、研究所出身者として異例の昇進をしたと留学中に風の便りで聞いている。3年間に過重労働と年収の半分近い投資をさせられ、これだけの成果を出した当方は、高純度SiCの事業を住友金属工業とJVとして立ち上げた、入社から12年目に写真会社へ転職している。


(注1)ローンの保証人には上司がなったが、当時業務中に頭痛がするから家まで代行運転しろ、と上司が命令し、代行運転させられた時代である。現代ならば公私混同と批判されるようなことが当時の職場では、上司にかわいがられている部下として問題とならなかった時代である。ちなみに作業着を着て代行運転させられた当方は、「そこにバス停があるから会社に戻って仕事をしろ」と言われている。バス代は当方が支払っている。ポリウレタンで汚れた作業着でバスに乗っていることが恥ずかしかった記憶が今でも残っている。提案したテーマを自由にできた代償が毎日の過重労働であり上司の雑用係だった。ただJIS難燃2級に通過し難燃性とされた「ダンフレーム」という商品の燃えた問題で始まった、筑波にある建築研究所と新たな難燃規格を作るプロジェクトでは、月に数回ヘルメットと安全靴を抱え通っているが、なぜか楽しかった。朝一番の常磐線に乗るのは大変だったが出張旅費が出たのでタクシーを使えた。職場の先輩から言われ、代行運転の帰りのバス代を出張旅費として上司に書類提出したら叱られたが、この時はタクシー代が認められたのである。うれしかった鮮明な記憶として残っている。

(注2)この表現が、男女差別はじめとした現在の常識で問題とされるかもしれないが、その他の表現が見つからないほど評判の美人だった。若い男性社員に勉強をさせたいならこのような人事配置も戦術としてあるのだろうと研究所で噂されていた。当方は、昼間は実験が忙しく、夜は独身寮に夜の友、MZ80Kが稼働していたため図書室通いができなかったが、その結果自前で図書を購入する習慣がついた。当時ソフトバンクの月刊誌Oh!MZやOh!PC,その他アスキーなど図書室に置かれていなかったので自前で購入している。技術評論社などの出していた雑誌もすべて趣味の雑誌とみられていたが、コンピューター関連の最先端情報について入手しようとしたならば、これらの雑誌が便利な時代だった。ForthやCについてもこれらの雑誌で勉強していた。ゲーム情報も書かれていたが趣味の雑誌ではなかったのだ。ソフトバンクが当時成長した原動力はこれら書籍の出版事業である。

(補足)現代の常識から当時を思い出すと、上司による社員の奴隷と変わらないとんでもない処遇を我慢していた黒歴史である。実際に、企業で働く、ということが、これほどみじめで辛いことなのか、と感じたが、同期の友人はじめ研究所以外の職場の方に激励されたりしている。また、休日に清里はじめいわゆるリゾート地の1泊二日テニスツアーに頻繁に誘ってくれた友人もいた。当時モータリゼーションで若者がマイカーでドライブ、という風俗が常識の時代だった。「私をスキーに連れてって」は、この時代の後期の作品であり、当方は遊びも先端を走っていた。留学や学位取得など上司のおかげかもしれないが、やくざまがいのかわいがりや過重労働という過酷な労働環境はストレスとなった。しかし、ストレスを解消できる人間関係と日常があったおかげで12年間務めることができた。MZ80Kを購入しなければならなかった時、その金額から一瞬躊躇したが、情報工学のスキルを必死で身に着ける動機になっている。この時の上司との人間関係を思い出し複雑になるのは、技術者として最も成長できた時代の思い出だからである。データサイエンスについても、日産自動車技術者による多変量解析のセミナーを聴講できる機会を命じてくれたのもこの上司である。大学に情報工学科設立の機運が出てきた時代である。フェノール樹脂天井材の開発で大量に発生したフェノール樹脂の処分に1日許可してくれたのも感謝しなければいけないのかもしれない。一人で一日廃棄処理できる形状に処理しながら、ラテン方格で計画されたフェノール樹脂とポリエチルシリケートとの反応による高純度SiCの前駆体合成条件を詰めることができた。もっとも大量にフェノール樹脂を発注したのは上司であり、その廃棄をどうするのか当方に相談があったので、高純度SiC前駆体合成条件の実験計画を提案している。この時の知恵の働かせ方は、半年後までに製品歩留まりを100%にしなければならないPPS中間転写ベルトの業務を請け負ったときにも役立った。前任者が試作ミスで大量のコンパウンドを倉庫に貯蔵していたのである。これをPETボトルリサイクル材の難燃剤として活用して、早期退職直前にデータ駆動によるPETボトルリサイクル材を開発している。ゴム会社で発泡体開発を担当していた3年間は、極めて密度の濃い知恵を獲得できた3年間でもある。

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