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2016.03/13 偏差値29で北大合格騒動

某予備校が、PR目的で偏差値29の生徒が北大を合格したことを公開し、それがネットで話題になっている。詳細は、ネット情報で確認していただきたいが、そもそも偏差値29であることと大学合格を結び付けたCMが話題となることに関し、疑問に思っている。
 
サルが大学受験し合格したならば話題になってもよいかもしれないが、人間がその学力にふさわしくない大学に合格したことは、それが不正でない限り、どうでもよいことである。このケースでは、本人の努力によるものか、第三者のサポートによるものか、明確に分離できないし、そもそも学力が生まれつきの特性として本質的に低い人が偏差値の高い大学に入ったらどうなるか考えていただきたい。
 
そもそも偏差値の高い大学に入ること自体が意味のあることかどうかが不明となった時代(注1)である。さらにいえば、現代は、その人の能力で幸不幸が左右される時代ではないのである。人生の幸不幸は能力とは異なるファクターで決まるので、偏差値が29だろうがなんだろうが、どうでもよいことである。
 
働き成果を上げる場合にも、ドラッカーは頭の良い人ほど成果を上げられない、とはっきり指摘している。働いて成果をあげる作業は全人格的な行為である(注2)。
 
大学受験でも偏差値の高い大学に入ることが良いことかどうかは、そろそろ考え直したほうが良い。偏差値の低い大学でトップになっり、授業料を免除されたほうがはるかに良い。偏差値の低い学校でトップになり、学費を最小限に抑え、社会に出て働き多くの成果をあげるような人生こそ効率の高い生き方だと思っている。
 
人生で挫折は重要といわれるが、勉強につながる挫折のレベルならばよいが、それ以上の挫折は人生の幸福感を減ずるので好ましくないと思っている。バブル崩壊後日本全国不幸な人が増えた。かつてのバブルの様な時代はもう来ないのなら、そろそろ人生観を変えて幸福になる道を探したほうが良い。偏差値で振り回される受験生に考えていただきたい。自分の学びたい大学でトップを目指す生き方もある。明確な目標に対して努力して、その努力が確実に報われるのは学生時代しかないのである。
 
(注1)いまやタレントの特性としての位置づけになったような気がする。企業では東大卒の肩書きが本人にとって重荷となる時代でもある。情報がこれだけ世の中に溢れ、誰でもその情報を活用できる時代になった。今何ができるか、今どのように貢献できるのかが問われる時代である。かつて亀*氏が東大卒でもないのに首相を務める時代になった、と言われたが、田中角栄氏がすでに学歴とは無関係に首相を務めている。
(注2)会社の業績が悪いため社長が辞任する。その時の挨拶で時折使われる言葉に、「不徳のいたすところ」というのがある。業績が悪い理由が、本当にその人物の責任で無くても、問題があれば辞任しなければいけない役割がその組織のトップの仕事である。それを理解しているかどうか、そして誠実に実行できるかどうかは大切なことである。

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