開催中の東京オリンピックではお弁当が大量に廃棄されているという。それに対して組織委員会は無観客開催になったために減ったボランティアの人数調整ができていないことを認めて昨日謝罪した。
そのうえで適切な発注で廃棄物を減らすよう心がけるとしか今の時点で応えようがない、とのこと。環境問題は2015年で大きく様変わりし、SDGsが共通認識となった時代に信じられない回答である。
もっともこの回答は、時代錯誤もはなはだしい無知を露見したものであることは明らかであるが、これまでの記者会見で共通した責任感の無さもセットで存在している。組織委員会会長や事務総長は今回の大量食品ロスの問題放置で即刻辞任すべきだろう。
そのくらいの問題である。国会議員もSDGsを理解されているのだったら、すぐに組織委員会に引導を渡すべきではないか。会長や事務総長はサラリーマンでいえば一流企業の役員クラスの給与が支払われているのである。しかもそのお金は税金からでている。
このお弁当の大量廃棄問題について、地球環境の視点から国民はもっと怒っても良い。記者会見の答弁中に廃棄されたお弁当のゴミをスポークスマンの頭からかけるぐらいの事件が起きても良いような状況だ。
今回の東京オリンピックでは環境問題に配慮していると宣言しているので、各会場でゼロエミッションが守られているべきであるが、おそらく組織委員会の幹部は、ゼロエミッションの意味など理解されていないと思われるから無駄かもしれない。
しかしこれまでの廃棄弁当代だけでも云千万円、と聞いたらどう応えるか?人数なら毎日4千人分と少なく聞こえるが。オリンピック反対を叫び、選手に誹謗中傷をSNSで繰り返されている方は、もっと深刻な状況をよく見てほしい。
廃棄された金額を計算すれば、日本国民全員で弁当代返せ、と叫んでも良いような額である。おそらくこの金額がゴミに見えるほどもっと多額の金額が無駄に使われているのかもしれない。開催前に鉄道で不審死されたJOCの経理担当者の真相は闇の中であるが。
(注)ニュースの値が平均値ならば金額にして昨日まで4000x5x1000=20000000円分廃棄されたことになる。おそらく発注量を減らすことは難しいと思われるが、それを実行すると言っている。組織委員会の会計監査をどなたがやられるのか知らないが、週刊誌は是非スクープしていただきたい。オリンピック開催直前の経理担当の事故死の原因がわかるかもしれない。
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材料に関する多量のデータから知を取りだすためには多変量解析が有効である。シミュレーションと多変量解析とを組み合わせる手法もある。多変量解析とマハラビノスタグチメソッドとどちらを使うのか、については、すなおに多変量解析を用いた方がアイデアを練りやすい。
理由は材料に対する経験知を用いることができることと、データの癖に振り回されないためだ。ここでデータの癖とは、サンプル集団が何らかの理由である偏りをもっているサンプリングがなされた場合に隠れてしまう情報がある、と言う意味である。
例えば既存の公開されたデータを使う場合には、その時間における形式知と経験知で集められたデータを用いることになる。高分子科学に限って言えば、複雑で未だ解明されていない現象が存在するので完璧なランダム状態のサンプリングが難しい。
例えば混練プロセスであれば、溶融温度近辺で混練している場合がほとんどであり、剪断混練やカオス混合が行われた樹脂データはほとんど無い。すなわち二軸混練機による剪断混練やカオス混合で改良される物性データが存在しないか極めて少ない条件のサンプリングしか公開データからではできない。
ましてや配合設計に関して全く新しいコンセプトで行われたデータなど存在しないのでどうしてもデータ群にそれら新技術の入っていない癖が残ることになる。
このような問題を理解すると、何らかの新しいコンセプトにより材料を創り出そうと考えたときにマテリアルインフォマティクスでは、いちばちということになる。もう少し気の利いた方法はないのか、と思われた方は弊社にご相談ください。
なお、弊社のホームページに多変量解析でもよく使用する主成分分析と重回帰分析の解析ソフトウェアーを公開している。現在使用料は無料であるが使用した結果については弊社は責任を負わないし、使用した履歴も何も残らないように配慮している。弊社では使用した結果発生した問題点の問い合わせを期待している。
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家電量販店に行くと入り口にインクジェットの容器回収ボックスがある。正規品ではない詰め替えインクを販売しているメーカーが設置している。面白い事業である。なぜ大手のインクジェットメーカーが行わないのか自明である。
インクジェットプリンターに限らず事務用複写機もビジネスモデルが消耗品で儲ける仕組みになっているからだ。同様の論理でニコンがカメラ市場でシェアーを落としている理由も明快である。サードパーティーの交換レンズの存在を認めていないのだ。
カメラ本体の価格を下げて販売すれば一気にシェアが伸びるはずだ。ただ、レンズは消耗品ではないのでこのような戦略が難しい。すなわち、プリンターや事務用複写機では、利益はともかくハードウェアー本体を安売りしてシェアーをたくさんとれば消耗品の売り上げが増えるのでそこで利益を回収するシステムができる。
その結果、純正品の消耗品では本体の利益もそこに入れる必要があり、どうしても消耗品が高くなる。すなわち、現在のビジネスモデルを成立させるためには、消耗品を高くする必要があるのだ。そこにサードパーティーの参入する機会を作ってしまった。
サードパーティーはインク容器を製造する必要もないので価格をさらに抑えることができる。サードパーティーのインク技術も高度になってきたのでアマゾンには純正品の半額で高品質のインクが売られている。
昔トナーも詰め替え用が売られていたが、静電気の制御で情報を紙に転写する技術は神業に近く、トナーの静電気特性も本体に合わせる必要があり、カラー複写機が普及すると消滅した。
カラー複写機では、トナーの設計がインクジェットのインクよりも難しい。インクジェットのインクでは、本体の目詰まりを起こすようなインクでもとりあえずカラー出力ができるが、カラー複写機では画像品質が著しく落ちる。
年賀状しか印刷しないユーザーはこれに気がつかないから、本体の壊れた原因がインクではなく経年寿命と勘違いする。写真画質インクジェットプリンターも出始めは高価だった。
これを純正インクで10年使用できたが、10年目に買い替えたときに安くなっていた。さらにサードパーティーのインクも販売されていたので買い替えたが、2年で目詰まりによりダメになった。
プリンター開発も経験していたので今では純正インク以外使わないが、プリンターの仕組みを知らなければプリンターメーカーの責任を疑うのかもしれない。しかし、これはサードパーティーのインクを使用したユーザーの責任である。
純正インクを使用し、本体を長持ちするように使うのも環境問題解決に貢献する。プリンターの環境問題の一部はサードパーティーのインクを使う消費者にあることに意外と気がついていない。自由競争経済の仕組みにも手を入れなければいけない問題かもしれない。
今の会社を始めたときに中国企業から詰め替え用のトナー製造のビジネスについて相談されたが、インクジェットのインク詰め替え事業の方が無難だ、と指導している。20年世話になった会社に気を遣ったわけではないが、事業の容易さからである。
この時、インクジェットメーカーには申し訳ないと感じた。しかし、今なら環境問題に対する考え方が当方も少し変化し、そのような事業はSDGsの観点から先行きが危ないからやめとけ、と指導するだろう。
この発想は環境問題とプラスチックを考えるときに重要である。今日本の産業は、素材産業から組み立て産業まで分業体制となっている。家電リサイクル法の成功により同様の法律が将来拡大して立法化される可能性がある。
その時、製品回収を事業としてどのように取り組むのか。回収された製品を資源と捉えるのか、ごみと捉えるのかにより、従来の分業体制に少なからず影響を与える。すなわち、組み立てメーカーが素材産業に進出する機会がこの時生まれるからだ。さて素材産業はどうするのか。
これから仁義なき戦いが環境問題解決のために勃発する。業界を越えた戦いが活発化すればするほど環境問題は解決する方向に向かうのではないか。環境問題の脱プラスチックというシナリオは、ダスティンホフマン主演ではなく菅原文太主演に書き換える必要がある。
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日本におけるサブカルの問題を昨日指摘したが、技術と芸術に対する認識も科学と技術の認識以上に日本人は曖昧である。芸術家でもあるレオナルド・ダビンチは、マッハによれば科学が生まれる前の人物であり科学者ではない。
昔は職人と技術者との境界同様に技術者と芸術家の境界は曖昧だった。これは、技術が人間の営みの一部なので芸術家がその創造力を活用して技術を生み出すことがあったため、と理解できる。
芸術家が貨幣価値を生みだす工夫として技術が生まれたととらえることもできる。芸術家が人間の営みの中で力を発揮する場合に、葛飾北斎はその創造力を活かして数々の春画を残している。ダビンチは異なる分野でその創造力を活かし、医療機器はじめ様々な技術に業績を残したのかもしれない。
愛知県出身の写真家加納典明氏は、「人に見られたい写真を撮りたいならばヌードを撮ればよい」という名言を残している。彼に限らず大衆に有名な写真家が、ヌード以外の作品を撮影していることが意外に知られていない。また、ある写真家はカメラのレンズ開発にも協力している。
現代でも芸術家による技術分野への進出があるように、技術者が芸術分野へ進出しても良い。すなわち、技術と芸術はその境界を柔軟に捉えるべきだろう。
今回の東京オリンピックでは様々な問題が噴出したが、あまり騒がれていない問題として「KIMONOプロジェクト」がある。これは、呉服屋が風前の灯となりつつある着物事業を活性化し一儲けしようと考え出された企画のようだ。金銭問題でとん挫し、集金をしただけで終わっている。
そのうち週刊誌が取り上げるかもしれないが、この欄で取り上げた理由は、着物という商品に隠れた技術を後世に残すために国は金を出すべきだ、という誤った発想である。着物事業の経営者がもし本当にそのような技術を残したいと考えるならば、財政的余裕のある時に純粋芸術に技術を無償提供すべきだった。
すなわち芸術の一手法として残された技術は、それが難易度の高い技術で永遠の美を生み出す手法ならば必ず後世に必ず残ってゆく。芸術として後世まで残された技術が、また新たな商品に必要となり発展することもあるのだ。例えば半導体分野の技術には、セラミックス芸術に受け継がれてきた技術が活かされている。
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今回の小山田圭吾氏の一件でサブカルチャーへの関心が高まっているが、まず日本におけるサブカルチャーを正しく理解されていない方が多い。
当方は文化論者ではないが、1960年代に入学するや否や校長室封鎖事件が勃発するようなとんでもない高校へ入学し、カルチャーに目覚めた、というよりもカルチャーショックを受けた。さらに友人と見に行った映画「卒業」ではR指定ではないにもかかわらず鼻血まで出そうな内容だった(50年前の日本の風俗水準はそうだった)。
その後、この映画の主人公の気持ちを理解するために再演された時に5回ほど見に行っている。名古屋では「ジェレミー」という初恋物語との二本立てだったが、それがさらに「卒業」に描かれた恋愛の複雑さを際立たせた。
アメリカではこの映画の製作された時代にカウンターカルチャーと呼ばれる文化が教養人の文化に対抗して生まれている。このカウンターカルチャーの衰退とともに欧米ではサブカルチャーが商業主義と結びついてゆくのだが、日本では、バブルがはじける前後に一部の人種がサブカルチャーを名乗って活動し始めた。
それ以前に高田渡や岡林信康といったカウンターカルチャーと呼べそうなムーブメントを創り出したアーティストもいたが、彼らはそれを名乗っていないし、彼らの活動は必ずしも反体制の歌ばかりではなかった。日本では松任谷由実とか井上陽水などを生み出す流れの一つだととらえている。
すなわち、日本のサブカルチャーの流れは、漫画も含め1980年代からそれを名乗るアーティストたちにより形作られた文化であり、その中身は玉石混交どころかAVのように危ない世界も多い。当然見えないところでは、今回話題となったいじめやドラッグ、麻薬の温床にもなっている。
本来文化とは高い教養に裏付けられて発展してゆくものだが、そうでないものをすなわち教養も分別もいらない文化を日本ではサブカルチャーとしているところがある。
少し乱暴な表現だが、このようなサブカルも含め日本の文化は表に見える部分は健全そうであるが、一歩闇に足を踏み込むとここでは書きにくい世界が広がっている。
漫画の世界だけをサブカルチャーと誤解していると、今回のオリンピックのような問題が起きる。その他の例として、その方面の先進国アメリカから今や世界の先進国は日本だと言われている映像文化がある。
文化に関しては、今や日本はアメリカを抜き世界一自由な国になったのかもしれない。文化を楽しむためには、やはり教養を身につけなければいけない。
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冗談ではなく緊急事態宣言下でオリンピックは昨夜開会式が行われた。オリンピックとは何か、といった議論はさておき、様々な問題を抱えたオリンピックは、昨年に中止宣言をすべきだったところを延期とした決定で、すべてのドラマが始まったように思う。
「いだてん」は低視聴率におわったが、東京オリンピック2020は、開催について国を2分するほどの議論となり、大多数の国民が反対する中で東京オリンピックは開催された。国民の関心を集めたことだけは確実である。
興味深いのは開催直前の国内の動き。天皇陛下は感染拡大の心配をされたにもかかわらず、政府は宮内庁の私見として軽く扱った。それに対して与野党ともに憲法違反の心配をしている。天皇陛下は開催の是非には言及したわけではなく、国民の象徴として国民の心配の声を述べられたわけである。
象徴天皇と政府との関係の変節をここに見ただけでなく、政権担当者の傲慢とも思われる姿勢に驚いた国民もいるかもしれない。当方は少なからず驚いた。その天皇陛下は、開会式にお一人でご出席されるとともに定型文の開会式宣言で「お祝い」の部分を「記念」とされ、国民の意見を最大限反映される、まさに象徴天皇としてのお仕事をされた。
残念ながら当方はすでに夢の中にいて今朝のニュースで知ったのだが、日本の天皇制が重要なシステムであることを気づかされた出来事である。
また、トヨタ自動車はじめトップスポンサーや経済界の重鎮は、事前に開会式への出席辞退を表明していた。スポンサーや経済界はステークホールダーである国民の声を天皇陛下同様に尊重したのである。
インターネットの普及は、名もなき人の声を社会に届ける機能を果たしている。そしてコロナ禍となって気がついたのは、日本では「オレコロナ事件」にみられるように、感染者の暴走を法律で取り締まることができない現実である。また東京オリンピックのドタバタ劇は、多額の血税が投入された国家の行事さえも適当に運営されている有様である。
コロナ禍の東京オリンピックで日本人は現在の日本が抱える正しい問題を見出したのではないか。ポストコロナ禍では、コロナ禍で影が薄くなった環境問題やエネルギー問題はじめ様々な国家で取り組まなければいけない問題が2年前と異なる姿で登場する。
すでに原子力が電気料金最安値のエネルギーではなくなった、との真実の声が出始めている。国体なるものを意識したことは無かったが、言われ続けた「戦後レジュームの終焉」が本当に「終わる」のかもしれない。日本人一人一人が意思決定し、その行動の責任まで負わなければならない国に変わるのだろう。
また、30年ほど前にオリンピックや万博、テーマパークなどのイベント事業で儲けるビジネスが日本の経済の主役になる、と言われ、観光立国日本まで事業展開されたが、これも大きく見直さなければいけないだろう。冷静に考えてみても、第一次産業と第二次産業が無くなった国家の姿を考える事はできない。
また、カーボンニュートラルの観点では第二次産業と第一次産業のバランスを取ることでも実現可能であり、今後第二次産業の各企業で第一次産業の見直しが始まるのかもしれない。
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昨日開会式のディレクターの一人が組織委員会から解任された。小山田圭吾よりも悪い人間がいたのか、と思ったら、数年前からYOU TUBEでコントを無料公開し、その収益を災害復興や障がい者団体に寄付していた小林賢太郎氏である。
いじめ自慢を商業的に展開し、自己の価値を上げていた以上の悪事を働いたのか、と思ったら、過去にこの人は漫才をやっていたらしい。らしい、と書いているのは、この人の漫才を聞いたことが無いからだ。
小山田圭吾のパクリなのかどうかわからないような作品は、NHK教育番組にも流れているからよく耳にする。それがサブカルの作曲法、サンプリング(サンプリングと盗作が異なる、というのは驚きであるが、パロディーのような二次創作と考えれば納得できる。)として知っていたが、今回解任された小林氏については全く知らないので売れていなかったようだ。
その人気が無かった漫才師の時代に「***ごっこ」とか国際標準ではタブーにされている用語を用いたために今回の解任に至ったらしい。小山田圭吾以上の悪人と評価されたわけである(国際的な大問題であると捉えれば、この視点も正しいが。)。
職をやめる言葉には、「辞任」や「退任」、そして今回の「解任」があるが、「辞任」や「解任」は何か不適切なことがあり、職を「辞めさせる」場合に用いる。任期がきたりして、不都合が無く退くときには「退任」である。
辞める側に立った場合に、「辞任」と「解任」とでは少し印象が異なり、前者は自ら反省し職を退く意味があり、後者は、簡単に申せば有無を言わせず「くび」を切ることである。
メディア業界でいじめの商業利用により有名になった小山田圭吾を組織委員会は、引き留めたあげく辞任として最後は世間の常識に従ったのに、人を傷つける笑いはいやだ、と公言し、すなわち過去を謝罪し、災害復興や障がい者支援のための寄付活動までしてきた人物を、なぜ、すぐに解任としたのだろうか。
本日は開会式なので時間が無い、という理由はわかる。しかし、小山田問題が起きてから十分な時間があり、今回解任された人物についてネットにも漫才ネタの情報が出ており、それを調べてゆくと過去の贖罪も十分に反省している事実にであう。なぜこのような人物に対して小山田圭吾のような擁護をしなかったのか不思議である。
小山田圭吾の問題は、過去にいじめをしただけでなく、それを自分の活動に商業利用してきたことだ。そのようなブラック人物を擁護したあげく、うわべの謝罪の機会を与え、最後に辞任という花道を与えた感覚がよくわからない。
国際標準では重大な事件にもなる用語を漫才のフレーズとして用いたが、その後反省し贖罪活動をしてきた小林氏の問題は、解任ではなく辞任とし本人擁護(注)の会見をすべきではなかったか。小林氏の問題は小山田圭吾とは少し異なり、寛容の姿勢を示すべき事例(国際的な理解が得られるような表現は難しいかもしれないが)となったはずだ。
ネットにも記録として残っている公序良俗に反する官僚ノーパンしゃぶしゃぶ事件の過去があっても出世できるが、過去を謝罪し寄付活動まで行っても許されない社会とは、いかなる社会だろうか。また小山田氏と小林氏のケースにおける考え方の違いなども含め、その判断基準について記者会見の席で質問をする記者は現れないだろうか。
(注)「**ごっこ」は、今でもその扱いが重大事件になるナチスドイツの所業であるが、小林氏は過去にその謝罪をしており、活動にもその姿勢を貫いてきた。国際的に重大問題であればこそ、国家の立場で丁寧に説明し、解任ではなく辞任とすべきだったように思う。首相の強い言葉は海外に向けて発せられた言葉であるが、組織委員会の扱いには疑問が残る。小林氏の過去の問題は、今でも関係者の逮捕や裁判がある重大事件であるが、いじめの商業利用は、ナチスドイツの行いと罪の重さに差はない。
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今回の小山田問題を受けて、ホリエモンこと堀江貴文氏が「一生公の場で何もできなくなった」とコメントしている。どのような意味でこの発言をされたのか関心はあるが、小山田氏(犯罪とも呼べるいじめの加害者)がNHK(日本の公共放送で高い放送倫理が求められる。また、その番組制作の緻密さから調査能力は十分にある)の教育番組にも重用(教育者としてもふさわしいアーティストの代表)されていた事実があり、今の日本社会が強ければ何をやっても許される社会になってしまっていることが今回は問題なのだ。
例えば、先の大相撲で白鵬は全勝優勝をした。横綱のプライドもそっちのけで勝ちにこだわったその姿勢には脱帽するが、千秋楽のかちあげはじめ、奇策で勝利をものにした取り口など彼の横綱になるまでと横綱に昇進してからの取り口は横綱の品位を汚しているといえる技で勝利をものにしている。大相撲とは強ければよい(大関までは許せるが横綱には無形の品格が求められている)、と皆思っていないはずだが、それでも横綱のままである。
小山田問題は、サブカルチャーで発揮されたその才能が彼の弱者を痛めつけて快感を覚えるその感性に根づくことは作品のいくつかを見てみれば理解できる。それをそのまま放置して日本のカルチャーの代表まで持ち上げた社会、とりわけ音楽業界の責任は大きい。
カルチャーとは高い教養に基づく日々の営みがあって始めてなりたつものであり、それに対する文化に似たアンチカルチャーを日本ではサブカルチャーと呼ぶ背景になっている(欧米のサブカルチャーとは成り立ちが異なり、日本ではその意味も広い。大衆文化という意味合いまでサブカルと呼んでいる)。すなわち日本におけるサブカルチャーとはエログロまでも含む裏文化と呼んでも良いようなものだ(漫画家や一部のミュージシャンはファッション感覚で自ら名乗るケースがある。それが日本のサブカルの意味を誤らせている。サブカルには反社会的なカルチャーも含まれていることを知るべきである。)。
サブカルチャーで発揮された能力をカルチャーで生かすことを否定しない。しかし、あくまでもサブカルチャーを創り出す過程において犯罪だけでなく道徳的な視点においても反社会的でないことが前提になる(注1)。
サブカルチャーで麻薬に頼り創造していても許されていたが、カルチャーではそのような手法が許されないのは当たり前である。サブカルチャーの世界で許されてきた反道徳的な行いをどこまで許すのかは、社会の教養のバロメーターとなる(注2)。
例えば、問題の一つとなっているインタビューが、もし謝罪の形で終わっており、彼がその才能で得た利益の一部を障がい者はじめ社会的弱者のためにサブカルチャーの世界で寄付活動をしてきたならば、それを誰もが理解したときに、武藤事務総長の発言に拍手を送ったに違いない(レミゼラブルでジャンバルジャンは一切れのパンを盗み犯罪者になっている)。
しかし、彼の行動はそうではなかったのだ。少し調べればわかることを組織委員会はさぼっていただけでなく、社会は、たまたま捕まらず時効となった悪人を認め拍手喝さいを与えてきたのである。そこの問題に気がついたからこそ社会は声をあげ、そして官邸も動いたのである。
都知事は今でもこの件で明確な見解を述べていないが、おそらくどうしたらよいのかわからないのだろう。あるいは、下手な発言をしたら組織委員会に対する怒りのとばっちりが自分のところへ来るのを警戒されているのかもしれない。
都知事の立場であれば、ドラッカーが「何もしない、も一つの問題解決の手段である」と言ったアドバイスが有効であるが、この方の教養のレベルはこの程度であり、カイロ大学卒が問題とされた意味を理解できる。
小山田問題はまだ終わっていない。ホリエモンが刑務所に入りながらも社会復帰しまじめに仕事をされているように、今回の機会をチャンスとして自分の行動を本当に改め謝罪し、社会復帰していただきたい(注2)。人生100年時代のまだ折り返し点である。ただ、過去を改心した結果、才能まで無くなった小山田圭吾では、盗作すれすれの駄作以外にも少なからずうなりたくなる作品(但し演歌ではない)もあるだけにもったいない。
(注1)デジタル化の波は、銀塩フィルム事業を過去の遺物としたが、文化の面でも変革を起こしている。例えば芦原温泉にあった芦原ミュージックホールはいつの間にか無くなっていた。調べてみると温泉街のミュージックホールは壊滅状態である。母校の近くにあった銀映は、岡崎銀映閉館後ライブシアター銀映となって続いていたが、そこもいつの間にか無くなっていた。生活指導の先生が指導のためによく出入りされていたことが思い出としてあるが、このような場所でも警察沙汰の事件が起きるのだ。ライブシアターであり、いかがわしい場所でもないのだが演目によりそれが反社会的となる。サブカルチャーの危うさである。日本のサブカルチャーについても教養を深めていないと現代はその境界が曖昧なために危険と隣り合わせとなっている。科学と技術の境界も曖昧であり、時代とともに変化し、アカデミアではマテリアルインフォマティクスという科学の視点ではいかがわしい研究が盛んになっている。これをどこまで科学とみなすかは、これまでの科学の歴史を知る必要がある。学ばなければいけない事柄は情報化社会では山のようにあり、「40にして惑わず」と言っていたのでは時代遅れとなる。現代は「80にして惑わず」と言うべきかもしれない。あと20年弱なので忙しい。
(注2)寛容な社会も大切であるが、悪人に対する寛容さの前提となるのは過去をどのように清算したのかである。武藤事務総長はインターネットを調べるとノーパンしゃぶしゃぶ事件(官民接待が社会問題となる引き金となった事件。反社会的なストリップとしゃぶしゃぶのコラボ企画。)でも名前が挙がった方だそうだ。そのような人物でも日本の社会は、財務省事務次官、日銀副総裁、オリンピック組織委員会事務総長などの要職を与える様な寛容さがある(ノーパンしゃぶしゃぶとミュージック劇場の反社会的な演目との差異が当方には不明である。また今回の事件の経緯からわかるように彼のような人材が日本のリーダーとして重用される日本社会に若い人は幻滅しないでいただきたい。血のにじむような努力をした若者の舞台オリンピックをこのコロナ禍でも必死で守っている年寄りもいるのだ。)。当方はここまでの寛容さが日本をダメにしているように思うが、一方で犯罪者を時効も含めてそのまま許して社会に受け入れることまでも寛容としてはいけない。日本は一応法治国家である。会社の中で隠蔽化されても、犯罪は犯罪として罪の償いは必要である。それを行わないと、犯罪の連鎖が起きる。当方が被害者となり転職した結果曖昧となったFD事件でも同様にその連鎖は起きている。犯罪を放置した時の一番の問題はその社会の倫理観までもおかしくすることだ。FD事件後には、当方の仕事を自分の成果として学会賞に出してきた人物がおり、たまたま当方がその審査をすることになった。今回の小山田問題も含め、因果応報について「どこかで神様が見ているよ」と子供に教えたりするが、悪事をすればどこかで天罰を受ける。小山田問題が起きたときにおかしな芸能人が「その時代の背景も考慮しなければ」と発言して炎上していたが、この人物の頭には必殺仕置人が思い出されたのかもしれない。当時この番組のヒットした背景として、悪人が放置され栄華を楽しんでいるようなバブル社会がある。ただこの時でも悪は悪としてみなしていたのである。戦後犯罪者を社会が許した時代など無い。
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今回の東京オリンピックは、世界中に日本の民主主義の状況を発信したのではないか。小山田問題における19日朝の政府見解は民意を受けたものである。一方主催都市の首長である小池氏は型通りの見解を述べただけである。「東京」オリンピックと言う看板がどういうものかご理解されていないようだ。
東京オリンピックの騒動について民主主義の非効率性を指摘した人がいる。しかし、これは民主主義が衆愚政治となるから非効率なのだ。もし、すべての国民が賢く代表を選んでおれば、もう少し効率があがる。日本の民主主義では国民が見せかけのパフォーマンスに惑わされて一票を投じているから現在の状態である。
例えば小池氏の政治手法は、首長としてどうしたらよいのかわからない時にはだんまりを決め込み、都民の指示が得られそうなパフォーマンスでお茶を濁しているように見えなくもない。
いわゆる狸の政治手法である。このような人をリーダーに選んでいるのも東京都民である。菅首相の支持率が危険水域に至ったという。しかし、この首相の執行結果を見ていると国民の意に添うように懸命にかじ取りをしている様子もわずかながら垣間見えてくる。
小池氏と菅氏との比較でどちらが好ましいかは自明である。ただ頼りないのは、周囲のスタッフに問題のある人が多いのだろう。ワクチン接種で河野大臣が自分を押さえ懸命に説明されている姿を見ると、官邸内の葛藤が見えてくる。
ただし東京都のコロナ対策室よりもまともである。都政の問題はそのような葛藤が見えてこないのだ。緑のイメージのフリップだけはきれいであるが。
政治は、その結果で判断されるという厳しい意見がある。ただし、いかなる時の結果であるかが難しい。小泉政権下で派遣法が導入され日本の中産階級の姿は大きく変わった。さらにバブル崩壊後のGDPの停滞で、日本人の経済状態は中国以下になる可能性が出てきた。
中国は7階層に分かれている、とどこかの講演で聴いた。その時3階層までは日本の経済水準以上の生活だが、大半を占める4階層以下は年収50万円の生活とのことだった。今4階層の年収は300万円前後まで上昇しているので中国の経済状態は日本に近くなったとみてよい。
日本は生活保護があるので一世帯年収200万円以上の生活が保障されているが、中国の6階層7階層はまだ年収50万円の生活である。しかし、数年でこの階層も日本の生活保護世帯まで到達すると言われている。日本はもっと頑張らなくてはいけない。民主主義の非効率性だけで経済が停滞しているわけでもないのだ。
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昨日今回の東京五輪・パラリンピックで最高位のトップスポンサーを務めるトヨタ自動車は、五輪に関するテレビCMを国内では放送しない方針を明らかにした。
その理由は表題であり、具体的には述べられていないが、昨日というタイミングを考慮すれば、武藤事務総長の知らなかったから続投する発言が引き金になったのではないかと当方は推測する。
知らなかった、などという言い訳謝罪は通用しないのに、さらに下された判断が続投である。もうすぐ開幕するが、昨日書いたように今回の五輪の関係者は、武藤事務総長以下日本国民の心を理解されていない人ばかりである。
さらに、月曜日に加藤内閣官房長官は武藤事務総長の判断に疑問を持っていると明確に表現したが、東京オリンピックでありながら東京の首長は未だ黙認したままである。
開催も目前だが、五輪関係者に今一度五輪憲章の理解と日本国民の総意をくみ取ることをアドバイスしたい。五輪はいわゆるオリンピック貴族と呼ばれる一部の人間のためだけではないのだ。
トヨタ自動車の社長はパワハラ騒動が起きたときにすぐに遺族に謝罪したばかりか、判決が出た後も改めて遺族に謝罪している。異例の2回も謝罪したのである。企業のトップとはこのような心のある姿勢を示すべきで、そのトヨタが今回の声明を出した意味は重大である。
今回の五輪のような状態の仕事を引き受けたときに責任者はどのように判断をすればよいのか理解していない人が多い。この時、何もしないのも一つの方策、というドラッカーのアドバイスがあるが、今回の問題ではそれでダメなのだ。
当方が半導体無端ベルトの開発を製品化まであと半年という状況で、コンパウンド工場を自前で立ち上げた理由は、周囲にできて当たり前の状態でありながら、科学的に状況を判断すると絶対に失敗することを当方だけが理解できたからだ(通常1年以上かかるコンパウンド工場を半年で立ち上げる、といっても理解されないばかりか、他の方策を考えろと言われるのが関の山だ)。
ゆえに当方は自分の業務をコンパウンド改良に焦点を絞り、プロジェクトのマネジメントを部下の課長に任せ、10%以下の歩留まりを100%にできるコンパウンド開発と工場立ち上げに土日を返上して専念したのである。その結果、無事製品化に間に合ったが、当方の仕事は、事前に覚悟をしていたように評価されない隠れた仕事に終わった。
今回の五輪は、無観客と決まった時点で満足な運営は難しくなった。満足な運営は難しくなったが、五輪憲章の追求は、まだ100%の実現が可能な唯一の仕事である。武藤事務総長は先日この決断をすべきだった。
また、高谷スポークスマン(注)は、昨日続投を改めて強調していたが、おそらくこの人の頭には開会式を盛大にやることしかないのだろう。彼も日本の状況を理解できていない人物であり、今一番大切なことは理想を追求することなのだ。いざとなったら開会式は行進だけでもよいはずである。当方ならそのような決断を下す。
不完全な開会式となっても理想を追求する姿勢を示すべきだと思っていたら、夜遅く小山田圭吾辞任のニュースが報.じられた。時間が無くて何もできない状態でも、リーダーは何かできるのである。それがうまく機能したのだろう。.
最後の砦、組織委員会名誉会長は元キャノン社長御手洗氏である。良い仕事をされたと思う。ダメな組織委員会の重しになっていた。
(注)組織委員会のメンバーがどのような思いで仕事をされているかは、この人物の発言から垣間見える。オリンピック貴族の一員と疑われるような発言が多い。例えば今回のCM打ち切りに対応した発言では、本来組織委員会としてまずスポンサー企業に謝罪しなければいけないところを、スポンサーのご苦労と表現している。さらに自分たちは支援していただいている、という表現まで飛び出している。ここでは、感謝は当たり前であり、組織委員会の運営のまずさについて謝罪の心をまず表現に出すべきである。毎度の発言がオリンピックは組織委員会はじめオリンピック貴族のためであり、スポンサーはそれに協力すべき、という姿勢になっている。どれだけの税金が投入されているのか、組織委員会の方々には改めて投じられた金額を見直していただきたい。
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