科学成立以前の時代に、日々の営みの中で自然界から有用な機能を人類が取り出して技術を開発してきた。この自然界と対峙する姿勢について不易流行という思想がある。
ニュートン力学は物体の変形を伴う運動について取り扱う時の、いつまでも変わることのない「不易」の形式知である。
高分子のレオロジーに関しては、ソフトマターの物理学という分野が誕生しており、これは新しく変化を重ねてゆく「流行」である。
ソフトマターの物理学が永遠性を獲得し、不易と一体になろうとしているのが現代のレオロジーである。
さて、質点系の力学とは異なる連続体の力学では、弾性体と流体を扱う。これはニュートン力学の後に誕生した形式知である。
過去の高分子のレオロジーでは、この形式知を土台に築かれている。そこには、高分子鎖一本一本の運動が表現されていない。
高分子にレオロジーを適用した初期の研究では、ダッシュポットとバネのモデルを使っている。ただし、このモデルによる体系化が形式知として破綻したとはいえ、高分子材料のマクロ的な側面、弾性変形と粘性に基づく現象が無くなったわけではない。
この方法は、高分子のミクロブラウン運動や塑性変形を無視できるマクロな時間スケールの現象を扱う場合に問題があったとしても、経験知として使用可能である。また、このモデルを使った説明は直観的で単純であるという長所がある。
すなわち、目の前の現象について自由に頭の中で高分子鎖をイメージし、過去のレオロジーの道具を用いてコンパウンドのおさわりをしながら、高分子の運動を感じる、というつきあい方が賢明である。
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昨日のNHK「あさイチ」で大人のいじめを扱っていた。しかし、そこで展開されたのは無難な内容であり、実際の組織内の複雑ないじめまで踏み込んでいなかった。
また、先日7日には三菱電機新入社員が上司のパワハラで自殺したニュースが報じられた。そして上司は書類送検されたらしいがトカゲの尻尾きりの感じがしないでもない。
これだけパワハラやセクハラが社会で叫ばれていても社会でこのような事件が無くならないのはなぜか。
当方はゴム会社で高純度SiC事業を立ち上げているが、異業種の新事業を立ち上げたことで推進中に研究所で様々な「いじめ」に会っている。
転職の引き金になったのは会議前日に大切なデータが入っていたFDに他人のデータを上書きされた事件であり、これは隠蔽化されようとした。
ここまでくると犯罪であり、命の危険を示すサインもあったので転職を決断している(注)。
転職後は管理職の立場となったが、特許に履歴が残っているような多大な成果を出していたにもかかわらずリストラや単身赴任を経験している。
それでも部長職まで昇進しておればラッキーなのかもしれないが、ゴム会社のサラリーマン生活も含め、サービス残業までして成果をだす貢献をしても苦労の連続だった。
ただ、その苦労を今から思い出すと楽しい思い出となっている。倉庫に使用していた部屋をあてがわれ給与をもらいながら自由に仕事を選べたのである。そしてゴム会社で学んだカオス混合技術を実用化できた。
また、ゴム会社におけるいじめの数々は、人との交流における学びの機会であった。32年間のサラリーマン生活を通じて現役世代にアドバイスできるとしたならば、「誠実真摯に生きる」ことである。
また、死にたくなるようなことは何度もあったが、殺されそうになったら会社を辞めることである。命は大切にすべきである。
どのように社会が進化したとしても善人ばかりの社会にはならないだろう。仮に周囲が悪人ばかりになったとしても、自分だけは誠実真摯に生きる努力をし続けたい。
もし、NHK「あさイチ」に紹介されたような、あるいは転職した当方の様な陰惨な事件に巻き込まれている方にはご相談にのります。
(注)ここまでの経験をしてもゴム会社に恨みは無い。また、ゴム会社に特許の実施報償やサービス残業代その他深夜勤や休日出勤手当などそれらを申請できる証拠が残っていても転職後に要求していない。転職後ゴム会社では週刊誌や新聞を騒がせる事件が起きているが、その事件については社長に同情している。組織におけるいじめの難しさにはこのような複雑なところがあるが、犯罪を防止するよういじめる方もいじめられる方も仲良く努力すべきである。いじめる方は越えてはいけない第一線があることを知るべきである。そのために誠実真摯に生きる必要がある。世の中悪い人ばかりでなく、転職して20年経過した時にはゴム会社から年金の一部未払いについて手続き書類が送られてきたり、無機材質研究所に支払われた特許報奨を当方に送りたいから、といった涙が止まらない経験もある。生きておれば良いことの一つや二つはあるので腐らず挫けず努力することが大切である。
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身の周りで観察される高分子材料は、何らかの運動をしている。例えば、手元で操作しているプラスチック製のマウスの自由体積部分では、体温に相当するエネルギーで紐状の分子の一部が運動している。
そして、その運動はセグメントのミクロブラウン運動であったり、紐の末端あるいは側鎖基の回転運動だったりする。
また、高分子は、その分子の一次構造の方向に垂直な円盤を仮定して分子がうまくすり抜けられる直径を基準に考えた管の中を、あたかも蛇のごとく、一定の分子の長さを保ちつつ運動している。
この動きをレピュテーション運動というが、蛇やウナギの動きを想像すると少し不気味である。
このレピュテーション運動について次のような経験がある。すなわち、非相溶系のPPSと6ナイロンをカオス混合で混練すると相溶し、透明な樹脂液が混練機から吐出されるが、それが10年近く経過したら白濁してきた。
これは、カオス混合(非平衡状態)で一旦は相溶した組成物をTg以下に強制冷却して相溶状態のままガラス化しても、レピュテーション運動でゆっくりと平衡状態になろうとスピノーダル分解が室温で進行し、相分離した結果である。
この現象は、カオス混合装置の発明で得られた発見であり、21世紀になっても高分子分野ではこのような新しい現象が見つかる。形式知が完成していない分野では、過去の知の遺産の活かし方次第で研究開発の効率は変わる。
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実は電気粘性流体のテーマを担当する1年ほど前に結婚していた。その時に大きく働き方改革を実践していた。
独身時代には、独身寮が実験室から徒歩3分の位置にあったので、毎日が仕事と寝る時間だけであった。
結婚してその生活が大きく変わった。働き方を家庭中心に変えたのだ。そのため、毎日17時退社が実行された。
他の人が業務をしていても、さっさと帰宅していた。しかし、電気粘性流体のテーマ担当を命じられて1週間ほどは、当方の担当業務について企画するために徹夜したり遅くまで仕事をした。
その1週間の努力で電気粘性流体の業務に対するサポ-トメンバーが増えたので、住友金属工業とのJV準備の仕事以外に担当させられた電気粘性流体の業務が増えても、1週間後にはその生活スタイルを変えなくてもよかった。
降ってわいた電気粘性流体の仕事について、以前から担当していたメンバーの実験を指導する業務だけとなった。
電気粘性流体について深い知識があったわけではない。知識については仕事を担当してから勉強し獲得している。
知識が無くても、6年間基礎研究ばかり推進し製品化のための技術開発を推進していない問題を十分に理解できた。テーマのマネジメントを指導していたようなものだった。
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電気粘性流体の開発では、その方法において科学を用いていない。例えば、電気粘性流体の耐久性問題を解決するのに、論理的ではない、たった一晩の実験で成果を出している。
ただし、高偏差値の大学の修士以上の学歴の複数の研究員が1年かかって、その方法ではできないと科学的に完璧な報告書を書いていた。すなわち当方が出した成果は「科学的にできない」と結論されたカテゴリーの技術成果だった。
科学的にできないとされた方法で実用化できた理由は、以前この欄で書いているので、ここでは簡単に説明する。
これは、哲学者イムレラカトシュが、その著書「方法の擁護」で述べている事例となる。
すなわち、科学で完璧な証明ができるのは、否定証明だけである。わかりやすく言えば、科学的にできる、あるいは問題解決可能な方法を科学的に導く方法は、いつでも「できる」という結論に至るとは限らない、ということだ。
これが科学の方法で業務を進めるときの非効率性につながる。また、スタップ細胞の騒動は、データを捏造してまでも科学に忠実であらんとした結果起きている。
科学の世界で捏造は悪いことだが、技術の世界では、繰り返し再現性があれば、捏造データはそれを再現できる限り必ずしも悪いことではない。この十年に起きた品質管理問題にこの誤解から生じた捏造の問題が多い。
捏造が人を欺くために行われたならば、それは悪いことである。しかし、自分一人で完結した実験を行う時に、捏造は新しいアイデアを生み出す場合があることを知っておくと便利である。
こんなデータが得られたら良いと考えて(第三者が見たら捏造だ)、実験シナリオを書いてみて実験を行うのである(これは科学の仮説設定とは異なる、誰でもできる易しいことだ)。
ここで科学の形式知を採用しようが経験知を採用しようが構わない。ヤマカンは外れる可能性が高いのでとにかく「知」を使うことは実験の成功確率を高めるために重要である。
半導体用高純度SiCを世界で初めて高分子前駆体から合成した実験では、原因不明の電気炉の暴走が起きたおかげで大成功している(運が良かったが、それ以外は知の集大成の実験だった)。
この時合成された高純度SiCを社長の前のプレゼンテーションで使用しているが、どのように合成されたのか説明していない(さすがに運よくできたとは言えなかった)。
モノができているので、嘘でも捏造でもないのだが、なぜか胸を張って説明できなかった。それが謙虚な社員と誤解されたのだから世の中何が幸いするかわからない。
たった1回の実験で、2億4千万円の先行投資を引き出せたのだから、極めて効率の高い仕事である。
いつでも運や偶然に頼って気楽に仕事ができたなら面白いに違いないが、研究開発において真面目に科学の世界だけで仕事を行うのは見直した方が良いのではないか。
技術を検証したり解析したりするときには科学的に行うべきであるが、技術を生み出す仕事を行う時に科学にとらわれる必要はない。
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社会をよく知らない時には、総理大臣が偉いと思ったり、会社の重役はさぞ立派な人たちだろうと思っていた。
しかし、社会が分かってくると、本当に偉い人というのは、例えばスーパーボランティアとして紹介された元魚屋だったり、有名人としては国民栄誉賞を今回も断ったイチローと思えてくる。
組織の幹部であっても組織が社会に悪事を働いたならば幹部は悪者とみなされるが、組織が一応社会に貢献していると偉い人とされたりする。
しかし、これが間違っていることは組織で働いた経験のある人でなくてもワイドショーに映し出される官僚や先日の池袋で事故を起こした元通産省工業技術院トップをみて理解する。
今の若者がかわいそうなのは、人生のロールモデルとなりうる本当に偉い人がいないことだろう。
逆に偉そうな顔をして自分一人では仕事もできないのに口先だけで社会を渡り歩いている反面教師となりうる人物が増えているような気がしている。
早期退職した会社の元役員と称する人物が事務所に訪ねてきて、カラー複写機の新しいCD技術を調査してくれ、と依頼してきた。成功報酬の仕事を請け負わないことを告げても先輩であることを担保にされ、引き受けることになった。
3つほど技術をまとめ、それを実行できるように手配をして準備ができたところで、騙されていたことに気がついた。すなわちその先輩と称する人物がL社顧問に採用されるための手土産づくりをワークさせられていたのだ。
元役員の先輩は、顧問として採用されなかったのでこれまでの調査は必要なくなった、と言ってきた。しかし、当方はそのような話ではなかった、と怒ってみても頭を下げている老人にきつく言えない。
仕方がないので手配をした会社の謝罪に同行してもらい、すべて幕引きを行ったが、当方の労働対価は0。幕引きが終わったところ、「さすが君は優秀だねえ」と言って去っていったが、謝礼を払わないことに悪びれた様子は無く、最後まで上司の様な偉そうな顔をしていた。
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All Nippon NewsNetworkに日本財団の若者の意識に関するアンケートが載っており、「自分で国や社会を変えられる」と考える日本の若者は18.3%で、残り8カ国で最も低い韓国の半数以下となっていたそうである。
また、「自分の国の将来についてどう思うか」という質問に至っては「良くなる」と答えた日本の若者は9.6%で、調査した9カ国中最低だったそうだ。また、トップの中国の若者の10分の一という。
連日ワイドショーでは「桜を見る会」に関して報じられている。そこには、官僚の幹部が野党から追及され、「ウソではないがあまりにも情けない答弁」をしている姿が映し出されている。
官僚が国民を見て働いていない姿、として解説されたりしているが、これを若い人が見たらどう感じるか(どう思うか、ではない)。
おそらく家族ならば情けない父親の姿として感じているに違いない。家族でなくても将来の出世の姿として捉えたときに幻滅を感じるだろう。
政治家どおしの攻防ならばまだ我慢できるが、政治家ではない官僚のこのような姿を国民にさらけ出す必要があるのだろうか。
組織を経験した人であれば、家族を抱え明日の生活を考えたときの発言として彼らの発言は、理解できる。またあの場で正義感を出してまともな答えを胸をはって言ってみても日本は変わらない。発言したその人のその組織における将来が無くなるだけだ。
当方はTVに映し出される官僚とは異なるサラリーマン人生を送り、転職や単身赴任、そして早期退職を経験している。
しかし、以前この欄にも書いたが、新入社員のころに書いた始末書も含め、組織から課せられた理不尽な仕打ちに対して素直に従い恥ずかしい、と感じたことはない。
ちなみに始末書では新技術提案をそこに書き、モノにしている。この時の経験から理不尽な組織に媚びる必要など無い、と自信を持って言える。ただ、それは組織から放り出されても生きていくという覚悟が必要である。
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働き方改革は、「働く時間を短くする」のが目的ではない。本来は、効率よく成果を出すための改革である。
昔から日々の改善は日本企業のルーチンだったはずだ。現場ではQCサークル活動として定着したが、ホワイトカラーの業務では定着しなかった。
原因の一つに科学を重視しすぎていた点にある。企業はアカデミアではないのだ。研究所さえも、本来はアカデミアと同じ活動を行っているのがおかしい、という感覚にならなければ働き方改革などできない。
故田口先生は良いことを言われていたが、この先生も科学から離れることができなかった。せっかくタグチメソッドを考案しながらも科学の世界でそれを定義づけようとした。
学者はそれが必要かもしれないが、所詮「メソッド」である。しかし、技術開発を効率化するものすごい「メソッド」なのだ。
科学はいつの時代でも大切である。少なくともこの50年くらいは科学に代わる世界共通の言語あるいは宗教、哲学は現れないと思う。
技術さえも他の人とその成果を共有化しようとしたり、次の世代に伝えようとするときに科学の力を借りなければいけない。しかし、それはコミュニケーションの手段としての科学である。
技術はいつでも人が中心であり、人の生活を豊かにするための営みである。科学の中心に来るのは論理学であり、結果がどうであれ、論理に忠実でなければならない。だから人類は科学を管理しなければいけないのだ。
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(昨日からの続き)そして、高分子材料というものをいろいろな角度から眺め、計算をしてきた実績がある。
形式知として問題があるかもしれないが、優れた研究者達による豊富な考察を経験知として借用したくなる魅力がそこにある。
現在の形式知で歯が立たない混練分野では、このような経験知でも構わないから少しでも「知識」を身に着けていたほうが、目の前で起きる現象に対して理解しやすい。
ラテン方格を使用した実験を行う時にも、制御因子の取り上げ方に、このような経験知の有無が影響を受ける。
すなわち、高分子の科学的研究には役立たないかもしれないが、ダッシュポットとバネのモデルによる現象の捉え方は、その限界を知ったうえで活用すると、実務では便利なツールとなる。
もう一つ高分子の理解を難しくしている原因をあげるとしたならば、レオロジーの教科書に書かれた説明である。
高分子を粘弾性体として捉える考え方は、弾性変形について固体力学の形式知を、粘性については流体力学という形式知を利用している。
この両者の形式知を動員して高分子の変形を考えようとしたのが、過去のレオロジーである。
しかし、困ったことに高分子には塑性という変形様式が存在する。金属やセラミックスにも塑性は存在し変形を考えるときの形式知が完成しているが、高分子ではこの塑性が分子1本1本の絡み合いや運動で引き起こされ、大変複雑な現象となって現れる。
それを解明しようとソフトマターの物理学が新たに提案されている。おそらく10年後にはこの形式知が反映された今よりもわかりやすいレオロジーの教科書が出てくるかもしれない。
今月下旬に発売予定の書では、このようなレオロジーの現状を考慮したうえで、混練を考えやすいよう高分子の運動に力点を置き、その考え方を説明したい。
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高分子へ導電性微粒子を添加した時に生じる体積固有抵抗の急激な変化について混合則を用いて考察を進めていた時代があった。
その後、浸透理論による考察すなわちパーコレーション転移の閾値を評価してその現象を理解しようとした変化以上に、高分子のレオロジーに関する研究の内容は20世紀末に大きく変わった。
そもそもレオロジーとは、物質の変形及び流動一般に関する学問で、その現象論的目的は、応力(力/面積)と歪(変形量/元の寸法)と時間(周波数=1/振動数)の関係を調べることにある。
ところが、高分子の融体は、原子が共有結合でつながった紐状の分子、それも長い分子や短い分子、さらには枝分かれした分子など様々な構造の分子を含んでおり、それぞれの構造の制約を受けながらその場のエネルギー状態に応じてそれらが運動している複雑な物質である。
すなわち、一組成の高分子であっても分子一個一個に着目すれば多成分系であり、さらに、その運動を考慮すると分子量や分子の形態に基づく分散を考慮しなくてはいけない多分散系である。
そのような複雑な状態の物質が引き起こす現象をダッシュポットとバネのモデルを組み合わせて解析していたのだから、説明できない現象が出てきたとしても当然であるが、形式知としてこのような事態は許されない。
まず、高分子のレオロジーについては、今新たな研究が展開されている状況である、という認識を持つ必要がある。
すなわち、レオロジーの教科書を読むと粘弾性体についていろいろと難しい理論や計算式が並んでいるが、それらを無理に理解する必要はなく、とりあえず教科書全体を流し読みすればよい。
ダッシュポットとバネのモデルは、形式知として時代遅れのモデルであり忘れてしまってもかまわない。
ただし、かつて多くの研究者がこのモデルを使って高分子材料を理解しようとした知の遺産と認識し、経験知としてうまく生かして使おうという努力は無駄ではない。
このような表現をすると叱られるかもしれないが、そもそも、以前のレオロジー研究者は、ダッシュポットとバネのモデルをいろいろ組み合わせて現象を再現しようと試行錯誤していた。
すなわち、それは、あたかも手探りでモデルを探していたような「おさわり感覚」の学問である。
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