当時ゴム会社では、係長職と管理職(社内の呼称は異なる)の選抜に筆記試験が課せられていた。しかしこの試験については過去問題や予想問題が受験者に流れていたり、裏の噂もあったりした。無機材質研究所へ留学して3ケ月経過したときに受験案内が人事部から届いた。また研究所の友人からは予想問題が届いていた。不合格になるとは思えない状況だった。
筆記試験の問題は数題ある試験問題から一題選択し、3時間の試験時間でA4用紙3枚程度にまとめるというものだった。新規事業のシナリオや過去の業務について考察しまとめるなどの試験対策をして臨んだ。びっくりしたのは予想問題と称されていた問題がそのまま出ていたことだ。合格したと思った。
10月になり、人事部長から昇進試験不合格の知らせを無機材質研究所で受け取った。意外であった。入社後担当したテーマでは、必ずゴールを期限内に達成していた。また商品化テーマも3件担当していた。0件でも研究所では合格ラインであり、1件担当すれば絶対に合格とも噂されていたので何らかの意図を感じた。
電話の応対を見ておられた、総合研究官I先生と主任研究員T先生が心配され、当方が描いているビジョンを実現するための実験を無機材研で一週間だけ行ってよい、と言ってくださった。当方のモラールダウンを心配してのことである。すぐに当方は、ゴム会社の研究所元同僚に電話をかけ、事情を話し、ドラフトで実験できるように準備して頂いた。高純度SiC前駆体高分子を合成するためである。
人事部長にも無機材質研究所のご配慮をお話しし、1日だけ研究所へ出張し実験を行うとの連絡をした。フェノール樹脂の廃棄作業で反応条件についてデータを収集していた実験ノートのデータが役立った。元同僚は、丁寧にドラフトの中に試薬関係をすべて準備してくださっていた。また、フェノール樹脂についても、素性の分かっている樹脂を3種類ほど緊急で取り寄せるなど至れり尽くせりであった。
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無機材質研究所で最初に担当したテーマは、αSiC単結晶の異方性がどれくらいあるのか実測する研究だった。四軸回折計に単結晶を取り付け、それをYAGレーザーで直接加熱し、2000℃までの線膨張を測定する仕事だった。ところが2000℃まで耐える接着剤が世の中に無いので、結晶を高温度で固定することができず、1000℃前後までしか測定できない。また、その温度領域までならYAGレーザーも不要であった。
このような状況だったので最初の仕事は接着剤開発となった。この仕事では天井材開発でフェノール樹脂を扱った経験が生きた。すなわち特別に配合したフェノール樹脂で結晶をカーボンロッドに固定し、それを窒素下で炭化する。処理後石英管に封入しゴニオヘッドに取り付けて2000℃までの測定が可能となった。
石英管への封入は学生時代のガラス細工の経験が生きた。フェノール樹脂の処方については、残炭素率をあげ、さらに熱処理でひび割れしないように材料設計する必要があったが、いずれも高防火性フェノール樹脂天井材の開発で経験した改善項目である。入所後1週間でαSiCの線膨張率測定が2000℃まで可能となったので周囲がびっくりされた。
この線膨張率測定のテーマ以外にSiCのスタッキングシミュレーションのソフトウェア-開発を行った。SiCには積層の形態の違いで多数の結晶系ができ(多形)るのでこれをシミュレーションするプログラムである。当時16ビットのPCが主流だったがフロッピーを使用することができたので、50層程度まで積層で生じる多形のスタッキングデータを集めることができた。これは計算が安定してできるまでに1年近くかかった。
半年間はこうしてSiCの単結晶についてじっくりと研究することができた。留学し半年が経過して、昇進試験の結果を人事部長から知らされるまで幸せな毎日が過ぎていった。また、ゴム会社から義務として命じられていなかったが、I先生がT所長室での面談時の状況を心配され、月に1回報告書を持って人事部へ出張したらどうか、と言われていた。そこで定期的に本社へ出かけた。留学中の所属は人事部だったので、人事部長から研究所へ報告書が回覧されていた。しかし報告書のフィードバックは一切無かった。
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無機材質研究所から帰路の社有車の中で話題になった、バッテル研究所と無機材研T所長の見解との相違は、事業としてみているコンサル会社とアカデミアの楽観的見方との違いだろう、という結論になった。2:1であったので多数決としての結果である。
当方は、経営的な見方や考え方について参考になったが、30年以上経過してその社有車の中で行われた議論を振り返ってみると、技術のイノベーションに対する感度が経営判断を左右する問題が大きいと思った。これまでの技術の歴史というものを十分に理解しないで、ステレオタイプ的にアカデミアの見解を批判するのは危険である。アカデミアにも凄い先生がいらっしゃるのだ。高い金を払ったバッテル研究所のレポートを信じたい気持ちも分かるが。
バッテル研究所の調査レポートは、過去から現在の科学的情報を基にその延長線上の未来を予測した内容である。T所長の予測は、科学的情報を基にしているが、未来の社会における無機材料のあるべき姿を語った内容である。両者の違いは、予測不可能なイノベーションの存在を認めているかどうか、という点である。
社有車の中では、T所長の予測は経済性を考えていないから学者の意見だ、と簡単に切り捨てられていた。当方は、地球上のクラーク数や、単結晶育成技術の進歩などT所長の発言の中にも経済性の要素が語られていた、と思っていたが、それらは他の2名によれば教科書の上での話で実現されていない、と否定された。
当方の高分子前駆体による高純度化技術についてもまだ実現できていない、という理由で事業判断のまな板に載せられない、と排除された。道路が渋滞していたため、社有車の中で2時間以上企業における事業企画の考え方を教育された。
この社有車の中の勉強で、かつて同期のKが言っていたことを思い出した。50周年記念論文のようなイベントは、従業員に夢を語らせる施策なので実現性よりも多くの事業を生み出す可能性を感じさせるコンセプトで訴えることが重要になってくる。今実行できる研究開発企画を書いても、そのイノベーションの要素が大きければ博打にしか見えないので研究所にも判断できる人などいないが、今実行できる内容ゆえに専門外の人間には小さな夢にしか見えない、といった言葉である。
30年以上経って、当時のバッテル研究所の予測とT所長の予測では、SiCに限定すれば、後者が正しかったことを歴史が証明している。そしてそのT所長の言葉を信じて住友金属工業とJVを起業するまで頑張ってみて言えることは、世の中にイノベーションを引き起こす企画の立て方を書いた満足な書が無い、ということだ。
技術とは機能を実現するために科学の進歩を貪欲にとりいれるものだ。科学は真理を追究し、その論理を正確に積み上げていくので進歩の速度には限界がある。新しい発見が無いと科学の飛躍的な進歩を望めないのである。だから科学に基づくバッテル研究所のレポートは無難なシナリオになっていた。
新しい発見が科学の世界で起きると、その先の進歩は技術の進歩が圧倒的に早い。iPS細胞のヤマナカファクターの発見で大人の細胞をリセットできる技術が開発されたが、まだ科学としての進歩は遅い。iPS細胞で今進んでいるのは技術開発である。もし科学の進歩が早かったならばSTAP細胞の発見について有益な寄与ができたはずである。T所長の予測は科学と技術の違いを認識した研究開発企画の良い例だった。T所長もI先生もそのキャリアが示すように企業の研究開発の問題をよくご存じの方であった。
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科学者が身につけるデータの扱いについて学生時代に学ぶ。理系であれば、学生実験の時に数字の丸め方から実験ノートへの記載の仕方まで1年生の段階で指導されるはずだ。大学4年になれば、卒業論文をまとめ該当する学会の論文誌に投稿する手順まで指導される。当方の学生時代はそうだった。
その過程で科学倫理も含め指導を受ける。すなわち実験から論文執筆に至る一連の作業を通じ、実験ノートの位置づけやデータ管理や処理の方法を学ぶ。学生実験では、他人のデータをもらい、考察まで真似をしていると、芋づる式に呼び出された。厳しい先生がいる、と噂になったが、必須単位なので先生も学生を落とすわけに行かないから、愛情から呼びつけて書き直しを命じている、と捉えれば優しい指導だと気がつく。
厳しかった先生の指導は、後から思出せば、皆我が身のために一生懸命になってくださっていた、と感謝したくなることばかりだ。シクラメンの香りを全合成するルートの研究を4年生の時に行ったが、日常の中間体の構造確認のために測定していたIRチャートを丸めて保管していて叱られた記憶が今でも残っている。
まだゴミ箱に捨てていなかっただけでも偉い、と妙な褒められ方をしたからである。H先輩には、ゴミ箱に捨てるのも面倒だったのだろう、と厳しい皮肉を言われたものだ。不要なチャートでも一連の研究をまとめ上げるまで全てのデータを整理して保管するのは、科学者の常識であることを学んだ。
ゴム会社の研究所では報告書も含めた研究管理状況等が少しずつ崩れてゆく体験をした。アメリカの大会社を買収し、業界6位から1位を目指すために、大リストラが始まったからだ。この嵐の中、転職するまでの六年間は、企画書の作成は行っていたが、研究結果の報告書の作成をした記憶は無い。特許は研究がまとまる前の技術が見えてくると半年に1件程度の割合で書いていた。
転職した写真会社では専用の実験ノートを会社が配布し、異動時にはすべて回収し管理する仕組みになっていた。各部署の倉庫には実験ノートを管理する棚が備えられていた。このシステムは10歳年上の管理職が退職後、知財の問題でこの会社を訴えてきたときに役だった。
当方の開発した技術も含め、すべて自分がアイデアを出して指導したから報奨金を払え、という図々しい訴えである。その管理職がアイデアを出した、という時期と技術が存在していた時期との差異を実験ノートに押された日付印や前後に書かれた日時からすべて証明することができた。実験ノートに日時の記載が重要な理由である。
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STAP 細胞の論文における写真捏造問題で新たな動きがあった。写真捏造と指摘された部分について、小保方氏側から、それは共著者の若山先生が担当された写真であ るとクレームが出されたのである。そして小保方さんは写真について責任が無い事と、一連の問題について情報をリークしているのは若山先生だと言って憤慨しているという。
なぜこのような科学者として無責任かつ低次元の発言になるのか不思議である。博 士でありながらファーストオーサーの役割を理解していない、と言わざるを得ない。論文著者の役割について研究分野や研究者により若干異なるかもしれないが、ファースト オーサーとは、その論文の大半の実験の推進責任者で論文全体に責任を持っている人という定義である。さらに大半の実験を自らやっていることが望ましいと言われ ている。
もちろん論文全体を正しく理解して、その論文の内容に責任を負うことができる能力を有していることは当然である。ゆえに学生が教授の下ですべての実験を行っても、論文を教授が書くときにファーストオーサーにはなれない。仮に実験テクニックが優れた学生でも論文の内容を理解していなければ、論文に責任を負えないからである。だから大学で論文を執筆するときにファーストオーサーにして頂けると言うことは、一人前の研究者として認めてもらえることなのだ(注)。
名誉あるSTAP細胞のファーストオーサーにしていただいたのに、新聞報道のような発言が出てくるのは、科学者の責任という問題を考えたときにおかしいのである。当方は高純度SiCの発明から事業化まで行ったが、残念な体験ばかりであった。
例えばSiCの反応速度論に関する研究では、研究の発案から実験装置の開発、そしてすべて実験データを自分で採取し論文にまとめたのに国立T大の先生にその論文を出され、自分はファーストオーサーになれなかったのである。文句の一つも言いたかったが、学位のお願いをしていた弱い立場であった。その他アカデミアとしてふさわしくないことが続いたのでそこで学位取得をあきらめ中部大学で学位を取得した。不純な大学に審査能力は無い、という科学者の誇りを持って学位論文をまとめた。(注2)
科学者の倫理と責任の観点で小保方さんは今回の問題を捉えて頂きたい。科学者が不純になった時、真理の体系は崩れるのである。技術者は不純な事をしてでも機能を実現しなければいけない。そして不純な事が法に触れれば訴えられるのである。法で管理しなければいけない技術の世界と異なり、科学の世界に法律を持ち込むのは間違っている。少なくとも法で裁かなければいけない時点でもう科学の世界ではなくなっているのである。科学の世界とは人の論文にちゃっかりファーストオーサーになっても共著者が訴えなければ許されてしまう世界なのである(注3)。
(注)1年間の研究で何も論文を書けない、というのは、研究室のポテンシャルか学生の能力か、あるいはその両方かもしれないが、研究能力が低いと言わざるを得ない。
(注2)当方は技術者であり、学位は科学者としての側面の大切なエビデンスなので、正しく審査して頂かないと困るのである。学位の品質と偏差値は異なるのである。
(注3)性善説を逆手にとってよからぬ事をする科学者が増えてきて、その結果氷山の一角としてSTAP細胞の騒動がおきたのではないか。
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無機材質研究所へ留学するための手続きを兼ねてゴム会社の役員と直属の上司、当方と3人で終日出張した。T所長が特別に2時間面会してくださり、高純度SiCの将来性について講義してくださった。それから30年のSiCという材料の歴史を振り返ってみると、時間の尺度を除き、ほぼこの時の予想は当たっている。うれしかったのは、そのイノベーションに当方のビジョンが一役買う、と持ち上げてくださったことだ。
役員は、彼の論文は、あまりにも生々しいので会社ではボツになったが、わはは、と笑っていた。ここは笑うところではないだろう、と内心思ったが、直属の上司は、続けて、2年という話になっているが、3年4年と御指導して頂いて良いですから、と、当方が心配になるような冗談が飛び出した。そしたら無機材質研究所のグループ長I先生が、ここは学校ではないから長期間いても学位を取れないので、会社のサポートが重要ですよ、と真顔で答えてくださった。
I先生ならずとも一番びっくりしたのは当方で、まるで厄介者払いのように思われているのではないか、と心配になってきた。帰りの社有車の中で、本当に3年以上留学していて良いのか尋ねたら、海外留学には皆3年程度行っているので構わない、とあっさりとした回答だった。そしてT所長のお話と、バッテル研究所の調査レポートとの差異の議論になった。
バッテル研究所の調査レポートはゴム会社の企画部がまとめた市場調査レポートの種本のことであった。T所長が話された高純度SiCの将来性については、その調査レポートで軽く扱われており、高純度化のコストが負の要因として述べられていた。すなわちアチソン法で合成されたSiCをいくら低価格化できても、昇華法を数度繰り返して製造される高純度SiCは大変高価な材料になるとの予想がされていた。
フェノール樹脂300円、ポリエチルシリケート800円の原料を用いれば高くても1万円/kg以下で製造できる、と回答したら、直属の上司は、完全に相溶した前駆体ができているのかどうか分かっていないでしょう、と日頃言われたことのない発言をされたのでびっくりした。実験ノートをよく読んでいたのだ。
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50周年記念論文は箸にも棒にもかからなかった残念な結果、と落ち込んでいたらファインセラミックスを研究できるチャンスが飛び込んできた。また。記念論文に書いた企画について、その実現可能性を大きく左右する高分子前駆体のリアクティブブレンド技術について詳しく確認できるチャンスが、フェノール樹脂の廃棄作業という形で生まれた。
ところが、研究所部長からエレクトロセラミックスであるペロブスカイトをアメリカで勉強してこい、と言われた。これは50周年記念論文では、脇役のシナリオであり、また世の中で当時起きていたセラミックスフィーバーでは、エンジニアリングセラミックスが話題の中心だった。そして、具体的な材料はSiCやSi3N4などの非酸化物セラミックスで、酸化物セラミックスは1960年末にブームとなった材料である。
希望テーマが会社の方針と異なることや留学先の問題もあったので、大学の先生にご相談したら、無機材質研究所が世界のトップを走っており、そこで相談すべきだと指導してくださった。特にSiCについては、日本が先端をリードしており、その研究の中心機関は無機材質研究所第三グループだった。さっそくグループ長に電話をかけ面会を申し込んだら断られた。
学会やセミナー情報を調べていたら、そのグループ長が講演するフォーラムがあったので出張で出かけて名刺交換しつつ、会社でボツとなった50周年記念論文を読んで頂いた。
面白い内容だと褒めて頂き、所内の調整の上連絡する、と前向きのご返事があり、会社の上司に報告した。しかし会社の上司から海外留学と決まっているからダメだと言われた。せっかく良い返事を頂けたのにどうしようか、とKに相談したら、人事部長に国内留学を発令してもらえばよいだけだ、と教えてくれた。
翌日本社へ出張し、人事部長に事情を話し、国内留学の発令を出して頂いた。研究所内の調整は人事部長と上司がやってくださったので、無事無機材質研究所へ上司と訪問することができた。この時の上司の評価で昇進が遅れることになるのだが、ホスファゼン変性ポリウレタン発泡体や燃焼時にガラスを生成する難燃化システムなど新入社員であった当方に自由な研究時間を作ってくださったことに感謝している。
本来担当ではない仕事などをサービス残業でこなさなければならず、休日出勤など世間から見ればブラックな思い出も多々あるが、働くという意味が貢献と自己実現であり、その両者を実行できる環境が与えられていたわけなのでやりがいはあった。
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フェノール樹脂を廃棄するために硬化させる作業は大変だった。しかし、この廃棄作業のおかげで、フェノール樹脂とポリエチルシリケートのリアクティブブレンドのアイデアを具体化することができた。後日思い出してみても運が良かった、といえる。この時の実験で得られた膨大なデータが無ければ、高純度βSiC合成法は生まれていなかった。
廃棄作業であるにも関わらず、実験ノートをつけた。それはメモ程度の書き方であったが、日時と時間を細かく記録した。単なる廃棄作業でもA4の実験ノートには4ページ隙間が無いほど観察記録が書かれていた。それは習慣の賜物であった。具体的に現象を記録することで観察が細かくなるメリットがありさらに記録することで深く考えるきっかけになる(注1)。
廃棄作業の実験では完璧な前駆体高分子を創り出すことはできなかった。しかし様々な重合度のフェノール樹脂を扱ったので前駆体高分子の合成に重合度の因子があるらしいことは見えてきた。さらに世界で初めての有機高分子と無機高分子のリアクティブブレンドの反応で生じる現象について詳細なデータが得られた。
Aさんは当方の研究に対する姿勢をご存じだったので、廃棄作業を楽しくやっていることについて何も言われなかったが、上司の主任研究員からは、「趣味で仕事をやるな」と注意をされた。ところが実験ノートを見せたところ、無言で去って行った(注2)。実験ノートはマジメに仕事を行っている証拠となった。
この実験ノートに書かれたメモがその後重要なデータとなるのだが、廃棄作業を行っているときには、この詳細なメモで人生の一大チャンスをモノにできる事態になるとは夢にも思わなかった。余談だが、実験ノートには、最低限日時と実験の経過時間だけでも記録する必要がある。時間のデータは、現象がどのような速度で起きていたのか重要な証拠となるからである。
何も書くことが無くても時間のデータだけは書いておくと良い。現象をチェックした間隔が後日分かるからである。実験ノートは後日それを見て検証できることが重要で、単なるメモ目的で書いてはいけない。ゆえに日時情報は重要である。
実験ノートの形式は様々だが、最低限記入すると良い一例を示すと、時間を記録する欄と実験目的、そして実験のゴール予想欄をどこかに必ず記入する場所を定めておくと良い。また、見開き2ページ分を一つの実験に使う形式が使いやすい。もったいないかもしれないが、一実験2ページを使用し、左上には実験の目的を、右上には、その実験のゴールを予想して書く。こうすることで仮説無しの実験を防ぐことができる。
とかく思いつきの実験をやってしまうことがあるが、どのような実験でも仮説を立てる習慣をつけることが研究者として大切で、実験の目的とその実験から得られるであろう結果、すなわち到達するゴールを書くことにより仮説を考えることになる。フェノール樹脂の廃棄作業の実験記録には、ゴールとして透明な前駆体高分子が得られること、と書かれていた。主任研究員が納得したのはこの欄の意味を理解していたからである(注3)
小保方さんの公開された実験ノートで一番ダメなのは記録された日時情報がない点である。下手なネズミの絵があったが、その絵が何の目的で描かれたのか、そしてどうなっていて欲しかったのか、も記入されていない。すなわち現象を観察したときに持っていた仮説情報である。仮説は間違っていることも多い。それが実験で確認され新たな仮説が設定され、真理に迫ってゆく。それが科学における実験の意味であり、実験が単なる作業と異なる点である。
サンプルとして収集されたフェノール樹脂の廃棄作業を廃棄作業として行えば、貴重なサンプルは単なるゴミとなる。中には高価な輸入品もあった。しかし、不要なサンプルでも新たな現象を見いだすための実験に用いれば貴重な検体として活用したことになる。さらにそこから20年以上も続く事業のシーズが生まれたのなら、サンプルを購入した金額以上に活用したことになる。
実際に、この廃棄作業からゴム会社で20年以上続いている半導体用SiCの事業のシーズが生まれた。すなわち高純度SiCの事業はゴミを活用して企画された事業であって、タイヤよりも売り上げ規模が小さいためにゴミのような事業と社内で噂されていたのは間違いである。
(注1)デジタル時代になって、パソコンを実験ノート代わりに使用する例もある。当方も一時期ワープロを実験ノート代わりに使用していた。しかし、紙に直接書く場合とワープロで記録する場合で明確に異なるのは、表現である。ワープロで書く場合には、なぜか情報が整理されて記録される。紙のノートには、日本語になっていない情報も書かれる。写真会社では会社から実験ノートが貸与されたので必ずノートに記入する必要があったのでワープロを打ち出し添付していた時期もある。今30年以上の研究生活を思い出してみたときに紙に書いた内容をリアルに思い出すことができるのは不思議だ。ワープロで打った内容については思い出せない事柄もある。
(注2)実験ノートは研究者にとって、その作業が仕事であることを証明する重要な証拠である。ハートマークが書かれているような実験ノートは単なるメモである。30歳にならなくてもその程度の理解はできているはずだ。理研の騒動で弁護士が単なるメモを実験ノートとして開示したのには疑問が残る。自ら適当に税金で遊んでいたことを白状しているような行為である。
(注3)このように今でも想像しているが、当時その程度も理解できない人だという陰口もあった。また、部下であった2年間陰口を否定するような姿を一度も見ることは無かった。しかしゴム会社で昇進が早かった方なのである程度の力量はあったと思いたい。どのような人物がどのような昇進をするのかは、組織の健全性の指標になる。理研の騒動では、理研という組織に多くの問題が存在することを世間に曝してしまった。学位論文の状態や、学位論文の図を新たな研究のデータとして使い回すのは、捏造という悪意よりも能力が無かった、と考えたほうが理解しやすい。能力の無い研究者をグループリーダーに雇用し、論文を書かせたので騒動が起きているのである。
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人事部から海外留学の内示を受けたが、直属の上司から数日話が無く不思議に思っていた。突然上司である主任研究員から呼び出しがあり、天井材はいつできる、と聞かれた。当方は入社してまだ2年程度の若輩なので不明である、と答えた。そしたら半年後までに仕上げよ、という。材料の基本処方もできていなくて、さらに天井材の商品仕様も決まっていない段階で答えられない、と述べたら、おもむろに海外留学の企画書を前に出して、この話が無くなるよ、と言い出した。
当時フェノール樹脂の天井材は、3人のプロジェクトで進められていたが、係長クラスのリーダーが長期病欠で、同じ年齢で社歴が5年先輩のAさんと二人で担当していた。当方は基礎技術担当でAさんは応用技術担当と仕事が分かれていたが、迷走状態であった。そもそもプロジェクトの最初にあった説明は調査研究のはずであったが、いつの間にか商品化研究テーマになっていた。
リーダーは長期休暇で、プロジェクトの全体計画も分からず、月一回の課内会議でプロジェクトのゴールだけが変わっていった。ある日後工程の部署がトラックで研究所まで乗りつけ、実験室にあったフェノール樹脂発泡体の設備一式を持って行ってしまった。
Aさんは仕事ができなくなるから困る、と抵抗していたが、後工程の課長が主任研究員からの指示で動いている、と一方的であった。上司と部下のコミュニケーションの問題であるが少々乱暴である。実験装置が無くなったので翌日からどうしようか、とAさんと相談したら、Aさんが大至急簡易実験装置を組み立てる、と言ってくれた。頼りになる先輩であった。当方は一連の動きが海外留学の内示とも関係していることが分かっていたが、内示段階なのでAさんに言えなかった。
Aさんは器用な人で社内にあった遊休設備を集めてきてとりあえず実験を行う事ができる環境を整えてくれた。そこへ主任研究員が現れ、天井材の評価技術1テーマだけ行えば良いことを伝えてきた。具体的な仕事の内容については、後工程のMさんと打ち合わせよ、との指示であった。相変わらず一方的な指示であった(注)。
翌日から仕事の内容が変わったので、集めてあった多数のフェノール樹脂材料を処分しなければならなかった。この処分について、液状物の社内処理ではコストと時間がかるのですべて固体で処理するように指示がきた。自ら志願してその担当を引き受けた。
(注)現場の状況を考えず、手配師のように仕事を進めるマネージャーがいる。仕事の中身がよく分かっていない管理職の場合、とにかく周囲との調整で仕事を流してゆくやり方を行う。主任研究員も天井材の商品仕様と材料設計の関係について理解していなかった。外部のレジンメーカーから樹脂を購入すれば簡単にできる、と勘違いしていたのである。この勘違いは係長のリーダーが長期病欠となる原因でもあった。当時フェノール樹脂発泡体は先端素材で、天井材の商品仕様を満たす材料は、それなりに高価であった。レジン販売を行わず、発泡体を完成品として販売している例もあった。安価な汎用レゾール樹脂で高防火性の発泡体システムを開発するのが課題であったが、当初掲げられたこの課題はいつの間にかどこかへ消え、外部のレジンメーカーの商品性能を評価する仕事になっていた。コストが合わなくなることが分かっていたので、ヤミ実験で安価なシステム開発を進めた。そしてそれが最終的に採用され、M社の天井材として販売された。成果は出たが、サービス残業で仕事を進めなければいけない辛い仕事であった。それにも関わらず、賞与を見て分かったことだが、その成果も評価されず逆にマイナス査定になっていた。ただ、この程度のことは主任研究員の場合には当たり前だ、と言われる人がいた。仕事を理解できていない管理職なので、理解していない仕事で正しい評価などできるわけがない、と慰めてくれる同僚がいたが、妙に説得力があった。サラリーマンはどのような環境でも腐ってはいけないのである。貢献と自己実現が働く意味であり、日々努力を続けられる環境がある限り前向きに働く努力が重要である。
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多くの企業の研究開発では、ステージゲート法あるいはそれに近い方法が導入されていると思われる。30年以上前にアメリカで話題になり日本に導入された方法だが、そのような研究開発の管理が成されていなかった頃の話である。
1980年代に新事業ブームがあり、各社異業種への参入が相次いだ。そのような時代にセラミックスフィーバーが起きたので、セラミックス市場への新規参入は1000社を越えたという。ゴム会社も創業50周年を迎え、CIを導入して社名からタイヤをはずし、ファインセラミックス、電池、メカトロニクスの三本の柱が社長方針として出され新規事業への意欲を従業員および社会に示した。
創業50周年記念を機会に、新規事業への関心を高めるための行事が幾つか行われたが、その一つに記念論文の募集があった。一席は10万円の賞金付きである。まだ新入社員の香りの残っていた当方は素直に応募した。しかし、同期のKは当方の論文を一読し、これでは10万円は取れないと言った。
内容は、ポリマーアロイを前駆体に用いて高純度セラミックスを合成し、ファインセラミックス市場へ参入する具体的な戦術(注)であったが戦略論は無くむしろ学術論文に近かった。実現方法が具体的に書かかれ、半導体市場をターゲットにした論文のような、まじめな内容ではこの会社の審査員には選ばれない、というのが同期のKの見解であった。
だったら一席を取れるような見本の論文を書いてみよ、と言ったらおもむろに事務局へ電話をかけて、どれだけ応募があるのか尋ね、呆れたことに〆切を延ばすように交渉していた。ところがすんなりと〆切が一週間延びた。理由は、〆切前日において応募件数がたったの一件で、今事務局が各部署へ応募を促しているところだ、という。たったの1件は、当方の論文である。
その後事務局の努力の甲斐があって50周年記念論文が多数集まったようだが、何と一席にはKの論文が選ばれた。一席から佳作の論文まで夢のような内容だったが、実現の可能性の高い現実的な当方の論文は佳作にも選ばれなかった。表彰式の後、Kは手にした10万円で当方を誘って二人だけのお祝いと残念会をした。
当方は正直に悔しいと告げ、Kが論文に書いていたブタと牛の合いの子のトンギューを育成するバイオ技術や、蓄熱ポリマーを用いた省エネ技術の具体的アイデアを尋ねてみた。
専門家ではないからそんな具体的なことは考えていない、と意外な答えであった。すなわち事業コンセプトを伝えることが大切で、大企業が記念論文募集で求める内容とはそんなものだ、とあっけらかんとしていた。これには脱帽であった。Kの企画マンとしての能力に驚くとともに学生気分が一気に吹っ飛び頭の中が180度回転する出来事だった。この飲み会の数日後人事部から電話が入り、海外留学の内示を受けた。
(注)当時軟質ポリウレタンフォームにガラス成分を安定なアルコキシドの状態で添加し、燃焼時にガラスを生成するコンセプトの難燃化技術を完成し、フェノール樹脂に水ガラスから抽出したケイ酸をナノ分散する技術を検討していた。M社向けプラスチック断熱材を使った天井材の開発を担当し、係長に相当するリーダーが長期病欠だったため、大変苦労していた時期である。
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