この数年気になっていたことだが、雑誌の立ち読みをできないようにする書店が増えた。地元の駅前の本屋も昨年からすべての雑誌に紐がかけられている。仕方がないので立ち読みのできる本屋をわざわざ探し出して、今では車で15分ほどかかる本屋まで本の立ち読みに出かけている。
当方のこの行動から立ち読みのできない本屋は売り上げが減るのではないかと思っていたら、小学館がコミック誌の包装を廃止したところ売り上げが20%向上したので、各書店にコミック誌の立ち読みができるように呼び掛けているという。
そして最近数値として実績が出てきて、立ち読みが全くできない書店と立ち読みができる書店では売り上げベースでやはり20%ほど異なり、立ち読みのできる本屋の方が売り上げが高いという。
昔はどこの本屋でも立ち読みが可能で、本は立ち読みしてから購入する商品だと思っていた。しかし雑誌が痛むという理由で立ち読みができないようにする書店が増加し、その結果客足が遠のき、書店がつぶれていったのかもしれない。
とにかく小学館の呼びかけは歓迎したいが、不思議に思うのは、書店でもお客が減った原因として立ち読み禁止が関係していることになぜ気がつかなかったのだろうということだ。
以前この欄で書いたが、当方は雑誌の定期購読をしていない。本屋で立ち読みし面白い本を買うことにしている。多い月には4-5冊雑誌を購入する月もある。最寄駅前の本屋ももう一度立ち読みができるようにしてほしい。
ガソリン代と駐車料金で雑誌一冊分の値段になる。ガソリン代は今時燃費の悪い無鉛ハイオクガソリンを使った車の影響なので本屋に責任は無いが、本屋に行くためだけに電気自動車を購入する気にはなれない。
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横浜市大口病院の事件について捜査が進み、その状況が報道されているが、単純な看護師の殺人事件とは言えない、いくつか組織の問題点が浮かび上がってきている。
おそらく今後専門家によるこの事件の考察が行われると期待したいが、「一人の犯人による殺人事件」だけでなく職場の問題が素人の目にも見えてくる。
まず大きな疑問として、なぜ20人もの被害者が出るまで犯行が行われたのかという問題である。終末期の患者の病院、という特殊な事情があっても、これは不思議である。
次に、20人の殺害以外に異常な事件が起きていたという。まだ事件の解明途中の情報なので異常な事件一つ一つに言及しないが、それをどうして職場は放置してきたのだろうか、という疑問である。
さらに、犯人の看護師は、20人の殺害以外は犯行を否定しているという。警察が捜査途中でこうした情報を流しているのは、警察もこの点を異常ととらえている可能性がある。
すなわち、犯人は逮捕されたが事件がまだ解決していない、と警察は考えているのかもしれない。また公開された異常な事件の中にはそのままでは警察が扱えない民事事件のようなものまで存在する。病院の社会的役割を考慮して警察が意図的に捜査情報を流している可能性もある。
転職して以来考えてきた問題の一つに、「おかしなリーダー」が生まれる問題がある。この「おかしな」は部下の立場から見て「おかしな」という意味である。先日逮捕された息子を裏口入学させた文部省の役人も部下から「おかしなリーダー」の大合唱が起きていたが上位職者の評判は悪くなかった。
この文部省の役人ほどでなくても部下の立場で迷惑な「おかしなリーダー」がいる。それは鈍感なリーダーで、例えば、組織の中で異常と思われる事件が発生したときに、それを日常の些細な問題としかとらえられないリーダーである。
このリーダーの組織では、異常な事件の被害者はただ我慢する以外に方法が無くなる。我慢できない場合には、被害者がその組織を離れる以外に問題解決の方法(注)が無いからだ。
当方はこのような異常な組織を体験した時にたまたまヘッドハンティングの会社から写真会社を紹介され転職の機会が得られたが、このような組織内の異常さに対して感度の低いリーダーにより大口病院は運営されていた可能性がある。
組織の病理が放置された場合に、病院の場合では今回の事件のように患者の死として現れるが、東芝や東電のように関係する企業だけでなく社会全体まで影響を与えるケースもあるので大変だ。東電内部の異常さは著書として出版されている。
(注)コミュニケーションで解決できる、と考えるのは甘い。コミュニケーションで解決できる組織ならば、まだ健全である。昨年から品質データの捏造について社長の謝罪会見が続いているが、調査してみると謝罪会見の前にインターネット上に内部告発がされているケースを見つけた。これも組織として問題を抱えている実例である。バブルがはじけてから見える化運動が普及したが組織で発生する異常な問題は、組織リーダーが異常として気がつかない限り是正されず、大きな問題として社会へ突然見える化される場合があるので、組織風土に鈍感ではリーダーは勤まらない。このようなリーダーを生み出さないようにする仕事の責任は、病院長や社長などトップにある。
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「教えることは、学ぶことである」というのは故ドラッカーの言葉である。以前この欄で新入社員時代の座学の様子を書いている。おそらく深夜も仕事をしていた当方に休養の時間をとらせるため指導社員は居眠りを承知で難しい話をされていたのかもしれない。
ダッシュポットとバネのモデルから微分方程式を作り、それを解いて数値シミュレーションを行っても高分子の挙動を説明できない。特にクリープについて説明できないのは、この手法の重大欠陥、というのが指導社員の口癖だった。
そして高分子のシミュレーションには分子に着目した手法の開発が重要で、そこを研究するのが当方の役目だ、といいながら、ホワイトボードに軍配やワラビを書き連ねていたが、およそ当方には豚の餌のような話だった。おそらく指導社員もそこは理解されていたのだろうと思う。
小生が故矢島先生のSiCの研究について話題にしたりして、およそ偏微分などの数値シミュレーションに関心を示さない態度に内心は呆れていたのかもしれない。3ケ月で一年間の予定の樹脂補強ゴムのテーマをやり遂げ、報告書を書いた後、指導社員が変更になっている。
レオロジストの指導社員が、お経を聞いている犬のような新入社員に3ケ月間辛抱強く座学をやられていたのは、おそらくご自分の勉強のためもあったのだろうと思っている。マンツーマンで居眠りをしているような聞き手に当方ならば一週間で座学を中止している。
ただ、3ケ月間の座学で当方には材料設計における数値シミュレーションの重要性が十分に理解できた。だから指導社員の座学は無駄ではなかったのだが、3ケ月の座学の内容の半分以上は、仕事と無関係の話であったことは、もう40年も前のことなので話しても許されると思う。
その話の内容は、ダッシュポットとバネのモデルで、高分子のクリープを説明できない否定証明のような話だ。少なくとも指導社員は当時レオロジストとして高分子の仕事を担当してきて、従来のレオロジーの考え方に限界のあることを悩んでおられた。
その悩みをすべて理解できないまでも、半分くらいは頭に残っている。ケモレオロジーという言葉を使われて説明されていた、高分子物性を研究する当時として新しい概念のようだった。今このような言葉は聞かないので指導社員の造語かもしれないが、指導社員の方は新しい概念について整理し、それを修正発展させることを考えておられたような座学の時間もあった。
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ごみ付着距離とインピーダンスの絶対値とがうまく相関した実験結果は、日常の帯電という現象が帯電と放電とが同時に起きており放電では、交流的に電荷が移動し電気が流れている様子を示している。
すなわち、教科書に書かれている帯電現象についてその体系を直流的な視点から交流的な視点へ書き直さなければいけないことを示す実験結果である。
しかし、このような結果を学会で発表してもそのような騒ぎになっていない。もっとも当方は騒ぎを恐れ、ただの事実として発表しただけで、その示す意味まで明確に語っていない。
カナダで開催された写真学会では、トリで講演を行っているが、その時にも穏やかに実験結果のみについて冷静に講演した。
当方が科学者であればこのような発表の仕方はしない。すでに当方は技術者として生きる道を選んでいた。技術者の立場としては、自然界の現象に潜む機能だけを取り出せればよいだけで、科学の真理など科学者の仕事だととらえていた。
また、それでも社会は困ることは無い、と判断したので、今でも帯電現象の科学的理解など仕事としてやろうと思っていない。これはニュートン力学とアインシュタインの相対性原理をうまく使い分けている日常と同じだと思っている。
もし若手科学者で帯電現象に興味を持たれた方がいたならば、帯電現象における相対性原理の発見に努力するのも面白いかもしれない。超電導現象の理解にもつながるのかもしれない。
ゴム会社で常温超伝導体の研究を命じられた時には、それを面白いとは思えなかったので、常温超伝導体が作られた時に社会はどうなるのかという視点で開発を行い、特許を書いている。すなわちその機能を取り出すときの問題点に着目した研究開発である。
カテゴリー : 一般 電気/電子材料 高分子
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昨日のホームランダービーは筒香が優勝したが、金曜日のオールスターを見たかった。残念ながら無機高分子研究会40周年記念パーティーがあり、平成の怪物松阪投手をライブで見ることができなかった。かつて当方の世代に同様の怪物と呼ばれた江川投手にはがっかりさせられたが。
ライブでは見られなかったがスポーツニュースで見た彼は大物だった。ホームラン2本を打たれ、5点を取られながらも直球勝負で打者に向かう姿は、スター投手の役割を十分に理解し責任を果たした。
オールスターゆえの投球内容だが、打者にはストレートが来ることが分かっており、今のパリーグの選手であれば安打が出て当たり前である。それなのに三振も取れている。
投球後「やっぱり緩急をつけないとだめですねえ」と語っていたが、調子がよくないにもかかわらず、直球勝負でファンサービスを行い三振も取れていた内容は、オールスターでは十分である。
途中までパリーグの勝ちに見えたが、筒香選手が同点打ホームランを打っており、オールスターを盛り上げていた。結局松阪投手の5点が重荷だったのか、一点差でセリーグの負けとなったが、ニュースのハイライトを見る限り、金曜日はホームランの打ち合いになった面白いオールスターだったようだ。
さて、ホームランを2本打たれ5点を献上した松阪投手のどこが大物かと言われそうだが、打たれるとわかっていても直球勝負で逃げなかったところである。これはオールスターだからできた投球であるが、ホームランを打たれた直球はいずれもど真ん中でファンサービスそのものだった。
二流の投手であれば、恐らくオールスターでも打たれないように投球したに違いないが、打たれても、打たれるとわかっていてもファンから期待されるストレートを投げ続けた松阪投手は力が衰えてもスターである。
彼はボロボロになるまで投手を続けたいと語っていたが、スケートを引退した高橋選手が再度競技人生をスタートするという。理由はケガで引退せざるを得なかった自分に満足していなかったからである。
世界的に若手の台頭で高橋選手がリンクに戻っても年齢からみて良い結果を出せない可能性は高い。それでも松阪投手同様にチャレンジするという。
ダメな可能性が高くてもチャレンジしようと努力する姿には賛否両論があるが、一度しかない人生である。伊達選手のチャレンジでは良い成績を残せなかったにもかかわらず多くのファンは感動したはずだ。プロ野球の後半戦松阪投手の活躍が楽しみであり、高橋選手の全日本挑戦という楽しみも出てきた。
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銀塩フィルムが写真材料として使われていた時代に、写真フィルムの滑り性は重要な品質項目だった。その滑り性付与には、滑剤による方法とマット材による方法とがあり、さらに帯電防止性能も滑り性に関係した。
アカデミアで表面界面の研究は今でも活発に議論されている分野だが、写真フィルムの滑り性付与に必要な機能といえば、滑剤とマット材、それに帯電防止性能だった。
滑りすぎてもフィルムが扱いにくくなるのでその程よいさじ加減でフィルムを設計する行為が滑り性設計技術である。すなわち学会でどのような活発な議論がなされようが無関係に、職人技に近い技術開発で滑り性は設計されてきた。
このとき滑剤のブリードアウトも品質問題を引き起こすので設計に際し、最初にテストする項目となっていた。開発初期に合格していても、商品テストで粉を吹いたようになることもあった。
ブリードアウトは開発者泣かせの品質問題だが、コツをつかめば恐れるに足らずの問題でもある。しかし現場で困っていてもアカデミアでは、このような問題を取り上げてくれない。せいぜい拡散係数程度の研究である。
写真フィルムの新製品ごとに毎度設計しなおさなければならない面倒な技術だが、おやじギャグで滑らないようにするのと、フィルムの滑り性を制御するのでは、後者の方がやさしい、という程度の技術である。
やさしい技術ではあるが、品質設計となると市場での問題が絡んでくるので担当者にとっては頭の痛い問題となる。転職したばかりのころ、ある担当者に連れられて印刷工場の現場に案内された。
そこで2枚に1回現像されたフィルムがうまく滑らず途中で金属の壁にくっついている光景を見せられた。おもわず吹き出して面白い現象だ、といったら担当者に叱られた。しかし調べてみたら本当に笑えるような面白い現象だった。
科学時代ゆえに科学的に解明された考え方で表面の設計をすると問題解決できないパラドックスというよりも「科学時代」ゆえのとんでもない現象だった。まさに科学とは自然現象をある一つの視点で眺めているに過ぎない哲学であることを気づかせてくれた問題だった。
技術者は恋愛真っ只中の若者のようなモノの見方で自然現象を眺めてはいけない。科学者にはそれが許されても技術者は常にストイックに自然現象を多方面から、それも科学者が思いもつかないような視点で眺める努力が必要である。真理がどうであれ、まず観察し機能を感じるモノの見方が求められる。
カテゴリー : 一般 電気/電子材料 高分子
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街の本屋が減少し、心配していることがある。昔は本屋の立ち読みという行為が知識人の習慣だった。それについて書かれた随筆を読んだ思い出もある。誰が書いた随筆か忘れたが、小林秀雄が出てきたので、そのような時代の人だ。
そこには、文系の視点で知識について書かれていた。学生時代に受講した哲学の授業では、講師の著による「知の歴史」を読むことになったが、講師も立ち読みを勧めていた。この授業では居眠りをしがちだったので、要所要所をよく覚えている。
授業中の居眠りは先生に対して失礼な行為であるが、真剣に聞いていると眠くなる講義があるということも事実である。先生に申し訳ないと思っていても意識が遠くなる。眠ってはいけないと緊張すればするほど眠くなる。睡魔は良心とは無関係に襲い掛かる。
客員教授をしていた時に、2日間の集中講義をしていたが、半分近くの学生は睡眠学習状態だった。講義の最初にレポート提出と知らせたためと思われるが、当方は睡眠学習の手助けをするように努めた。
すなわち、講義の途中で寝ている学生の横に行き、質問するのである。これは効果絶大で、クスクスと笑い声がして教室全体が明るくなる。この時肩をたたきながら、睡眠学習の手助けをするぐらいの気持ちで優しく質問するのがコツである。
話がわき道にそれたが、学生時代の講師も大学生協での立ち読みを勧めていた。人生少しでも多くの書に接するという経験知は重要だと言っていたが、この年になってみると確かにそうだと言いたくなる。
街の本屋が無くなるとその機会も減少することになる。インターネットで情報が簡単に入手できるようになったので本屋が不要になるという因果関係は少しおかしいと思っている。ネット情報でも知識になるが、何か軽薄さを感じるのは当方だけだろうか。
中にはダウンロードして、必要ならばハードコピーを読めて、書物と変わらない情報としてそれを提供をしてくれるサイトもある。また学位論文にベタコピーしてもその学位論文が審査に通るくらいのレベルの情報もインターネットに存在する。ゆえに本屋など不要かもしれないが、一冊の本の重みをインターネット情報からは感じ取ることができない。この感覚は何だろうと思う毎日である。
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街の本屋はピーク時の半分近くになったと言われている。この原因はアマゾンで本を買うようになったから、と言われているが本当か。実は日本では本そのものも売れなくなっている。これは、ただインターネットの普及という今の時代のステレオタイプ的な見方では説明がつかない。
また若い人が本を読まなくなった、と言われているが、若い人だけでなく年寄りも読まなくなったのではないか。電車の中で文庫本を読む風景は、いつの間にか携帯電話を誰もが眺める風景になった。吊革につかまりながら化粧をしている女性を見つけて驚いたのは10年前だが、電車の中の化粧は常態化した。
身の回りから本を読んでいる人がいなくなったことからも多くの人が紙の本を読まなくなったことがわかる。紙の本もこのような状況に対応できるようオンデマンド出版技術が進歩し、3000円前後の本を200冊程度でも出版できるようになった。
ゆえに自費出版も一時ブームになったが、そもそも街の本屋が少なくなったのでブームも長続きしない。大手から売れる本しか出版されなくなった結果、購入する人が限られ、出版物の減少となり、本の売り上げが減り、街の書店が少なくなった、というのが大きな原因ではないだろうか。
このような仮説をもとに適当な統計を探したが、見つからない。しかし、パソコンブームで多くのパソコン関係の雑誌や単行本が登場し、それが次第に少なくなった流れや、デジカメブームで写真雑誌や書籍が登場し、それがほとんどなくなった駅の本屋の風景を思うと、間違いではないのかもしれない。
面白いのはコンビニに置いてある雑誌が、街の本屋と少し趣が異なる点である。これに気がついたのはこの10年のことであり、新しい動きに違いない。一定の占い本やノウハウ本が定期的に入れ替えがあり、並んでいるのだ。定点観察するとよく売れる本の話題がTVで取り上げられたりしている。
紙の本が読まれなくなったのはペーパーレスの時代の潮流で理解できる。一方で購入場所の変化という流れと出版社の対応のずれもあるのではないか。それから書籍そのものが高価になったことだ。昔ならば気軽にちょい読みができた環境が壊滅したことが本を読む人の淘汰につながり、そこで書店の廃業がシナジーを起こし、書店の減少を加速しているのかもしれない。
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AIの普及で知識労働者の仕事が奪われる、と言われている。過去の大小の産業革命が多くの職人から仕事を奪っていったようにこの未来予想の半分は当たっているかもしれない。
しかし、AIは情報を集め、それを過去の方法で知識に加工することはできても、今どのような情報を選びどのような知識を身につければよいかは、AIにはできないはずである。少なくとも現代のどんどん成長しているAIは人間の作ったプログラムとモデルの教師データをもとに動いており、情報をAIの知識に変換するときに特定のパターンになっているはずである。
分かりやすく言えば、AIの知識なるものは、そのAIを生み出した人に必要な知識であって、多くの人間にとってAIの提供する知識は単なる情報に過ぎない場合がある、ということだ。すなわち、AIの生み出す知識が情報の価値程度にしか活かせないような仕事は、人間の仕事として残ってゆく、ということだ。
知識は人間の知恵により情報が昇華されたものであり、形式知はその意味からAIは人間と同じ知識を身に着けることになるが、経験知は必ずしも全ての人間が同じものを身に着けていないという理由で共通の知識になるとは限らない。さらに暗黙知になるとAIは身に着けるのが苦手のはずである。
このように考えると、AIが知識労働者のすべての仕事を奪うとは考えにくい。経験知や暗黙知が重視される知識労働は残ってゆく。さらにその仕事において、その仕事を継続するために何を勉強してゆかなければならないのかを要求されるような研究開発職は将来も残ってゆく。
おそらく未来の研究開発職では、AIを操り問題解決できるスキルと「何が問題か」を考え出すスキルとが厳しく求められると思われる。だから今のように形式知を中心とした勉強しかできない人には厳しい時代になる。AIの時代とは、本当の「勉強」という活動、すなわち今何を学ぶべきかが求められる時代だ。
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有機合成化学について真剣に勉強したのは大学4年の時だけである。しかし、研究以外の面白さを見つけ、社会人になってもたまに専門書を一冊買って読んでいた。
専門外で専門書を読むと意外と楽しめる。ドラッカーの難解さとこのような専門書の難解さは異なるが、理解できなくて興味をもてなければ読み飛ばせばよい気楽さがある。
学生の時、専門書を読むのを苦痛に感じていたのが不思議に思えてくる。なんといっても自分のペースで読めるというところが良い。そして読み終わったあとに何か頭に残っている心地よさが良い。
ただ、有機合成関係の書物を楽しんで読んでいたのは20代だけで、それ以降はコンピューター関係の本がたくさん書棚にたまっていった。日進月歩の進歩が一種の脅迫感として感じ、雑誌から専門書まで新しい情報が載っていると買って読んでいた。
このころは本を読む楽しみなど無くなり、情報の洪水の中で遅れまいともがいていたような気分である。業務とは無関係と理解していても、なぜ時代を追いかけるようにコンピュータ関係の本を読んでいたのか不思議である。
ただ、ニュースはじめ社会に意味不明な言葉が、今以上のスピードで氾濫していた。インターネットの前身であるパソコン通信も刺激的だった。データメディアの使用方法はじめそれらが自然に社会に溢れる状況において、コンピューターの知識無しでは21世紀を生きることができない、という恐怖感があった。
会社よりも早く、DOSの時代に家庭内にはLANができ、子供たちはゲームを楽しんでいた。ウィンドウズ95が普及し始めたとき、家庭内には自作のAXパソコン(今のDOS/Vパソコン)がPC98に代わり動作していた。有機合成化学の知識よりもコンピューターの理解が優先された。
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