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2016.03/26 人工知能Tay

ITメディアニュースが、面白い事件を報道していた。米Microsoftが3月23日(現地時間)にTwitterなどでデビューさせた人工知能「Tay」が、デビュー数時間後に停止したというのだ。
  
Tayは、Microsoftが会話理解(conversational understanding:CU)研究のために立ち上げたプロジェクトで、日本マイクロソフトの人工知能「りんな」と同様に、一般ユーザーとの会話を繰り返すことで学習し、成長していく。
 
ところが、Tayは公開後数時間で徐々に人種差別的だったり暴力的な発言が多くなっていた。例えば、「ヒットラーは正しい。私はユダヤ人が嫌い」というツイート(現在は削除されている)を繰り返すようになったという。現在、ほとんどの問題発言は削除済みだそうだが、Microsoftがこの問題に対処するためにTayを休止したようだ。
 
ご存じのように、知には、「形式知」と「実践知」、そして「暗黙知」が存在する。現在の技術で、AIに「暗黙知」を教えることは出来ないはずだ。そもそも人間どおしでも暗黙知の伝承は難しい。
 
物事の善悪には暗黙知も関わっているような気がする。「形式知」や経験の結果体得する「実践知」をロジックでつなげることは可能だが、「暗黙知」の中にはロジックでつながらないもの、あるいはどのようにつなげるのかはそれぞれの価値感に左右されるものなど存在し、現在の技術ではAIに暗黙知を教えるのは難しいのではないか。
 
形式知である科学は、将来AIの独壇場になる可能性がある。実践知の一部もAIが人間より優れた成果を出せるようになるかもしれない。しかし、第六感として頭に現れる暗黙知はいくらAIが進化したところで人間に追いつかないのではないか。
 
技術は、科学と異なり人間の営みの中で発展してゆく「行為」であり、形式知や実践知、暗黙知の総動員が必要である。形式知の伝承は比較的簡単だが、実践知や暗黙知の伝承は難しい。ご興味のある方は弊社へご相談ください。
 

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2016.03/22 竹とんぼ

昨日竹とんぼの話を書いたが、20年近く前タグチメソッドが日本で普及し始めたときに、品質工学フォーラムという雑誌が刊行された。その数号めかに竹とんぼの飛距離安定化をタグチメソッドで行う、という記事があった。
 
故田口先生に直接ご指導していただいていたので創刊号から数年とっていたが、起業した時に処分したため読み返すことができない。国会図書館でも行きたいと思ったが月曜日は休日だった。世間も休み。本日、朝起きて今週忙しくて行けないことに気が付き、こうして思い出しながら書くことにした。
 
品質工学フォーラムに書かれた座談会風の記事の内容は、こうだった。すなわちタグチメソッドの定番となる基本機能を何にするかの議論があって、そしてその基本機能の制御因子を議論し、誤差因子として多数あるので調合誤差因子として使用してSN比を求め、ラテン方格を用いた実験で各制御因子の水準とSN比の関係をグラフ化した。
 
得られたグラフから最適条件を求め、確認実験を行ったところ、飛距離が伸びなかった、という内容だった。そして結論が基本機能は難しい、という感想が書かれていた。その記事として基本機能の選択の重要性を言いたかったのだろうか、タグチメソッドが難しい、ということを言いたかったのか、主旨のよくわからない記事だったように記憶している。
 
ただ、NHK放送の番組のように、竹とんぼを回転して飛ばす機械や、風の影響を配慮して体育館の中で行ったりしはしていない。誤差因子がいっぱいの状態で雑誌の実験は行われていた。
 
「凄技」における科学対決の時にそのあたりの解説もしていたが、それによれば品質工学フォーラムの記事において誤差因子が十分に選ばれていなかった影響が大きく、これが原因で確認実験においてよい結果とならなかったと推定される。タグチメソッドでは、因子の選択は極めて重要な作業で、この作業において実践知がものをいいう。
 
故田口先生は科学に拘り、タグチメソッドを科学の世界で語ろうとされていたように感じたが、弊社で指導するタグチメソッドは形式知だけでなく実践知や暗黙知も総動員する。すなわちタグチメソッドをあくまでも技術開発のツールとして指導している。
 
少し話がずれたが、竹とんぼおじさんの試行錯誤で手作りによる竹とんぼが、科学の英知を集めた竹とんぼや、科学の世界で実施されたタグチメソッドで最適化された竹とんぼよりも遠くへ長時間飛んだという話を世の技術者は注目したほうが良い。
 
科学は真理を追究するのが使命であるが、技術は自然界から機能を取り出しそれを製品に組み入れる行為である。それぞれのミッションは異なり、メーカーの技術者は技術開発を行っているのだ。科学の研究も大切だが、技術開発しなければ飯の食いあげである。
 
だからと言って、ヤマカンを頼りに技術開発を行っていては駄目である。ファーガソンの「技術屋の心眼」に書かれていたように、カンにも働かせ方(注)があり、経験にも伝承の仕方がある。形式知はやがてAIでどこでも同じ成果を出せるようになるばかりか、形式知で組み立てられた部品は簡単にリベールされてしまう。しかし、暗黙知と実践知により創りだされた部品は容易に他社がまねできない技術の成果となる。もちろんそこには形式知である科学の成果も造り込まれている。
 
この意見にご興味のある方は弊社へお問い合わせください。
 
(注)E.S.ファーガソンは、その著書の中で「心眼」の働かせ方を書いている。科学では説明がつかないが、日々の営みの蓄積から暗黙知は形成され、科学的に見れば不思議ではないが、何となく奇妙だと思う現象でその知は機能する。20世紀にはロジカルシンキングがもてはやされた。確かにロジックは重要であるが、すべてをロジックで語り満足していないだろうか。ロジックが、他の可能性を排除している、というパラドックスに気がつくとこの暗黙知の働かせ方の理解が進む。科学の世界で起きたSTAP細胞の事件は、暗黙知と形式知の闘争と捉えることもでき、その闘争の中で形式知の権威が自殺に追い込まれた。その自殺の原因が責任感だけで無いことは、理研の幹部もご存じのことである。「あの日」にも書かれているが、小説家の方がもう少しこのあたりをフィクションでクリアに表現されると21世紀に日本が目指さなければいけない技術開発の方向が見えてくるはずだ。弊社「未来技術研究所」(www.miragiken.com)では、STAP細胞の事件について時計を止めたままにしている。弊社の科学と技術に対する姿勢については、この研究所の活動日誌にある「科学と技術」をご一読ください。「コロンボとホームズの対決」において、コロンボは技術の象徴であり、ホームズは科学の象徴として表現しています。

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2016.03/21 土曜日のNHK「凄技」

19日土曜日NHK「凄技」が凄かったらしい。らしい、と書いたのは自分が見ていなかったからだ。ただ番組を見ていた家族の話から、相当に感動的で凄かったようだ。当方は手紙を書いていたので見落としたが、昨日聞いた家族の話をもとに感想を書いてみる。家族の話だけでも感動的だった。
 
内容は、以前放送された「竹とんぼ対決」の結果に挑戦した職人の話である。こちらは見ていたが、長時間飛ぶ竹とんぼの科学技術による対決だった。この対決では科学的シミュレーションにより導き出された結果を用いて作成された竹とんぼが、14秒台で勝った。
 
この番組の結果に、竹とんぼおじさんが挑戦状をたたきつけた、というのが土曜日の放送だったらしい。竹とんぼおじさんというのは、建築関係の職人で家庭の事情があって竹とんぼを作り始め、ブーメランのように戻ってくる竹とんぼを発明した人である。
 
家族の話す家庭の事情も感動的だったが、試行錯誤で手作業で作った竹とんぼが16秒台も飛び続け、科学技術を集結して創り上げた独創の竹とんぼの記録を2秒も塗り替えたのは、記録を聞いただけでも超感動モノである。
 
そこには、矛盾(ホコタテ)で問題になった「やらせ」の入る余地は無い。竹とんぼを機械で飛ばしているからだ。すなわち科学対決で行われた条件とすべて科学的に同じ条件で対決した結果だそうだ。
 
科学こそ人類を救う、と声高に言われ、科学的方法やロジカルシンキングがもてはやされたのは20世紀の社会風潮だが、当方はその科学的方法論やロジカルシンキングの弊害で現場型技術が軽視される状態を懸念していた。技術は人類が誕生して以来、その営みの中で行為として深化と進化をし続けている。
 
そして、現代の科学を集結しても解き明かせない技術が存在する。20世紀は「やがて解き明かされる」と勢いがあったが、最近はSTAP細胞のように醜態を見せる場面が多い。技術と科学はその究極の目的が異なるので、科学で解き明かせない技術も存在するのである。
 
土曜日の番組はその一例だろうと想像するが、家族が職人と呼んでいたのは、もはや技術者だ。職人と呼ばれる人たちの中には、技術者と分類すべき人たちがいる。それも高学歴を持った技術者よりも凄腕の技術者である。弊社では技術のコンサルティングを行っていますが、科学についてもご指導いたします。

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2016.03/20 文化の融合

オリエンタルラジオのダンスユニットによる「パーフェクトヒューマン」という歌が話題になっている。先週ミュージックステーションでトリとして歌われたこともあって今週この話題がネットに多かった。
 
面白いのはなぜこの歌がヒットしたのかを解説している記事である。そしてそれらの記事によれば、お笑いと歌との垣根を無くした革新的なところだそうだ。どこが革新的なのかはそれぞれの記事を読んでいただきたいが、記事を読んでいて気がついたのは、文化の融合でも材料の相変化と似ていて、例えば界面の存在とかそれが無くなったときなどに新しさが生まれる点である。
 
音楽の世界でクロスオーバーとかフュージョンと言う言葉で「異分野の融合」が話題となったのは1970年代からで、ジャズとロック、あるいはジャズとポップスなど様々な分野の融合が行われ、現在に至っている。
 
かつては音楽状況そのままを番組名にした「クロスオーバーイレブン」というFM放送も存在した。その番組では、グローバーワシントンJr.やジョーサンプルと行った面々の、まさに異分野の融合した新しいヒット曲が演奏されていた。こうした50年近くにわたる異分野の融合が重なりカオス的な音楽が最近のヒットの傾向としてあるような気がしている。
 
材料の世界でもそうだが、単一材料で様々な要求品質に対応できなくて合金とかポリマーアロイとかブレンドされた材料が生まれ技術開発の幅が広がった。ゴムの世界では100年以上前から混ぜることが技術の根幹にあった。
 
このような融合により新しい物を産み出す努力は文化よりも技術の世界が古いのかと思っていたら、友人からそれぞれの民族音楽が融合して現在の音楽のジャンルが形成された話を聞かされ、「混ぜて新しい物を産み出す」技術は、人間が昔から心がけてきた自然の行為のようだ。
 
高分子のスピノーダル分解は二成分のポリマーが相容した状態から濃度のゆらぎが生じ、相分離してゆく過程だが、文化についても一度融合が起こり、それがまた分離してゆく過程において新しい芸能が誕生するのかもしれない。
 
しかし、歌って踊るオリラジが新鮮と思っている若い人は一度三河万歳を見て欲しい。演奏しながら歌って踊る巧みなキレを作らないその芸は、一つの文化として完成されていると思う。三河万歳が家に来るとその一年は幸せになりそうな気がした。しかしその風習は今や消滅し、お正月の風景も様変わりした。今年のお正月は、年末との界面が無くなり、それと気がつかないままに過ぎ去った。梅の香りに刺激され散歩をしてみたら、もう桜の咲く季節である。
 

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2016.03/19 時間のトリック

ヒト、モノ、カネは重要な経営資源であるが、ドラッカーはこの3つに加え、時間を他の経営資源と異なり取り返しのつかない重要な資源と位置づけている。そして時間については他人に奪われる性質の資源であることも書き添えている。
 
これは大切な指摘であり、弊社の問題解決法でも時間の魔術を取り上げている。一例を挙げれば、最初から計画倒れになる計画を立てる人などいないが、なぜか計画はいつでも守られない、あるいは守れない。
 
計画倒れが日常化すると、計画とはそういうモノだと感じて守れないことが常態化する。こうなったときにいくら計画遵守を叫んでみても回復は不可能である。これは悪い習慣が身についてしまったからで、良い習慣に置き換えない限り修復不可能と悟るべきである。
 
それでは良い習慣とはどのような習慣なのか。それは計画前倒しの習慣である。この習慣を身につけると、仕事をスピードアップできるだけでなく、他人に取られる時間を気にしなくても良くなる。もちろん計画倒れも無くなり、必ずゴール達成が可能となる。
 
それではどのように時間前倒しを行うのか、それはルール化であるが詳細は弊社へ問い合わせていただきたい。しかし、今週新たな時間の魔術を発見した。それは、ある会社に依頼されたプレゼンテーションの場で見つけたのだが、ウサギとカメの魔法である。
 
依頼された仕事は新たに資料を作る必要があり、当方の習慣で依頼されてすぐに着手した。他の業務もあったが優先して仕上げた理由は、時間前倒しのルールの一つを実行したからだ。しかし、これが失敗の始まりだった。
 
「事前の練習では40分程度で終わった。自分の体験を語るだけなので当日ゆっくり話せば時間調整可能でたった1時間の講演である。」というウサギとカメの魔法にかかった。簡単にできる時間調整ほど油断してはいけないのである。そこに油断が生まれ、結局予定通り出来ないことに気づき焦ることになる。
 
この時の焦りは、まさにウサギと同じでゴールを敗者として意識することから生まれる。ゴール際のカメを見つけたウサギは、自分の慢心で負けた悔しさを味わうことになる。この場合にウサギと同じ気持ちになるとだめなのだが、今週まさにウサギと同じ状態になったのだ。しかし、ウサギとカメの魔法の発見で新たな時間のルールを見いだした。
 
この場合、カメに負けた悔しさを意識してはダメなのである。魔法を抜け出す唯一の方法は、あっさり負けを認め、カメに頭を下げる、すなわち時間の延長を自らお願いすることなのだ(弊社の問題解決法では自分のゴールを設定する、というルールがあり、このルールでも対応可能だが、ウサギとカメの魔法は特殊なケースとして取り上げた方が良いとこの時学んだ)。このような行動は分かっていても、魔法にかかるとだめである。魔法にかからないようにするためには、この魔法の存在を知ることと、それに備える習慣を身につける以外に無い。
 

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2016.03/16 企画を実現するために(続編)

「企画を実現するために」と題して、当方の体験をもとに企画という業務について連続してこの欄で書きましたところ質問がきました。個人を特定できるような情報を書きますとまずいので、質問の要点だけ書きます。質問内容は「事業部門における企画では、人間関係論は不要ではないか」、すなわち「事業目的が明確なので企画内容に人間関係の影響は出ないのではないか」という質問でした。
 
方針管理が徹底し、方針に基づく企画を行う限り、当方が書きましたような問題が起きないかもしれません。特に製品の組み立てを中心に行っているメーカーでは、ロードマップが社内で公開され、そのロードマップからブレイクダウンされて作られる技術企画では、企画内容はすんなり周囲に共有化されるでしょう。
 
しかし、当方が中間転写ベルト用コンパウンドの内製化企画を立案しましたときに、最初に立案していた企画を誰にも見せませんでした。それはコンパウンド内製化企画という内容ではコンパウンドの基盤技術の無い会社で認められないばかりか、反発をされる場合も想定されたからです(注1)。
 
一度周囲にダメだしをされた企画は、ほとぼりが冷めてから再提案しない限り、受け入れてもらえません。そこで最初は、外部のコンパウンドメーカーに企画内容を説明し、新たな混練技術でコンパウンドを製造してもらえるように働きかけを行っております。
 
外部のコンパウンドメーカーが当方の提案を受け入れてくださっていたら、子会社でコンパウンドのプラントを慌てて建設するような仕事のやり方を進めていなかったと思います。しかし、外部のコンパウンドメーカーは、「コンパウンドに技術的な問題は無く、あくまでも押出成形技術に問題がある。」という立場を変えませんでした。
 
かつてゴム会社の現場で学んだ、当方の実践知(経験知)では、「押出成形は行ってこいの世界」すなわちコンパウンドの性質がそのまま成形体に現れてしまうプロセシングです。押出成形技術のあるべき姿として、成形体物性の問題をコンパウンド技術までさかのぼり解決するのは当然のことだったのです。
 
そのコンパウンドメーカーは6年の開発期間で選択されてきたメーカーであり、そのメーカーとの調整が難しかったので、単身赴任してすぐに担当テーマが失敗する、と結論を出しました。そしてその結論を各部門の管理職と共有化し、対策を考えなければいけませんが、最初に上司であるセンター長に準備していたコンパウンド内製化企画を見せて、相談しています。
 
この時、相談相手としてコンパウンドメーカーの役員クラスと調整する道も残っていました(知財の所属を検討しなければ行けない開発契約は締結まで最低1.5ケ月かかる)。しかし過去の経験から、その道は早々とあきらめました。理由は時間がかかるからです。時間は経営資源としてお金と異なり取り返すことができません。当時中間転写ベルトの量産化めどを周囲の納得する形で完成させるために残された時間は6ケ月を切っておりました。
 
当方の役割として早々と白旗をあげセンター長に相談するのは、管理職として社外調整できない無能な管理職というレッテルを貼られる可能性が高かったですが、現状を正しく理解し残された時間が無いという問題を共有化できる人間関係の対象として直属の上司を選んでおります。
 
相談の結果、センター長の意思決定で「他のカンパニーの子会社からコンパウンドを購入し開発を進める」という企画に変更されました。ゆえにコンパウンド内製化企画は日の目を見ることなく、基盤技術も何も無い中で粛々と子会社でコンパウンド製造ラインの建設を当方が進める事態になりました(注2)。
 
事業目的が明確な環境下の企画であっても、人間関係が仕事の成否を左右することはまれにあります。特に時間という要素がかかわるときに最初の相談者の選択は重要で、その相談者への説明に特化した企画資料は大切です。
 
(注1)どこまでの領域を自社で行うのか、という議論はよくおこる。例えば、コンパウンドはコンパウンドメーカーで行うべきで押出成形技術だけやればよい、という杓子定規の意見である。中間転写ベルトの開発では、開発期間の制約とそれまでの経緯から外部に依頼している、あるいは他のメーカーを探すという選択肢は無くなっていたのである。自前で開発する、というのは難しいとかリスクがあるとか考えがちであるが、情報が容易に入手出来る時代では簡単である。だから技術のコモディティー化の進行速度が速くなっているのである。ヒトモノカネの経営資源さえ調達できれば自前開発が有利な時代になった。中間転写ベルトでは子会社に工場建設を行ったが、このあと担当した環境対応樹脂については、外部に生産を委託している。これは生産量が桁違いに多く設備投資が嵩むためである。現在の情報化時代には、自社で行う領域を杓子定規で即断しない方が良い。
(注2)基盤技術も無い状態で工場建設ができるのか、という質問はナンセンスである。ここはゴム会社で実績のある会社に協力をお願いしている。know whoが重要という原則を実行しただけである。成功するための仕事のやり方については弊社へお問い合わせください。

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2016.03/13 偏差値29で北大合格騒動

某予備校が、PR目的で偏差値29の生徒が北大を合格したことを公開し、それがネットで話題になっている。詳細は、ネット情報で確認していただきたいが、そもそも偏差値29であることと大学合格を結び付けたCMが話題となることに関し、疑問に思っている。
 
サルが大学受験し合格したならば話題になってもよいかもしれないが、人間がその学力にふさわしくない大学に合格したことは、それが不正でない限り、どうでもよいことである。このケースでは、本人の努力によるものか、第三者のサポートによるものか、明確に分離できないし、そもそも学力が生まれつきの特性として本質的に低い人が偏差値の高い大学に入ったらどうなるか考えていただきたい。
 
そもそも偏差値の高い大学に入ること自体が意味のあることかどうかが不明となった時代(注1)である。さらにいえば、現代は、その人の能力で幸不幸が左右される時代ではないのである。人生の幸不幸は能力とは異なるファクターで決まるので、偏差値が29だろうがなんだろうが、どうでもよいことである。
 
働き成果を上げる場合にも、ドラッカーは頭の良い人ほど成果を上げられない、とはっきり指摘している。働いて成果をあげる作業は全人格的な行為である(注2)。
 
大学受験でも偏差値の高い大学に入ることが良いことかどうかは、そろそろ考え直したほうが良い。偏差値の低い大学でトップになっり、授業料を免除されたほうがはるかに良い。偏差値の低い学校でトップになり、学費を最小限に抑え、社会に出て働き多くの成果をあげるような人生こそ効率の高い生き方だと思っている。
 
人生で挫折は重要といわれるが、勉強につながる挫折のレベルならばよいが、それ以上の挫折は人生の幸福感を減ずるので好ましくないと思っている。バブル崩壊後日本全国不幸な人が増えた。かつてのバブルの様な時代はもう来ないのなら、そろそろ人生観を変えて幸福になる道を探したほうが良い。偏差値で振り回される受験生に考えていただきたい。自分の学びたい大学でトップを目指す生き方もある。明確な目標に対して努力して、その努力が確実に報われるのは学生時代しかないのである。
 
(注1)いまやタレントの特性としての位置づけになったような気がする。企業では東大卒の肩書きが本人にとって重荷となる時代でもある。情報がこれだけ世の中に溢れ、誰でもその情報を活用できる時代になった。今何ができるか、今どのように貢献できるのかが問われる時代である。かつて亀*氏が東大卒でもないのに首相を務める時代になった、と言われたが、田中角栄氏がすでに学歴とは無関係に首相を務めている。
(注2)会社の業績が悪いため社長が辞任する。その時の挨拶で時折使われる言葉に、「不徳のいたすところ」というのがある。業績が悪い理由が、本当にその人物の責任で無くても、問題があれば辞任しなければいけない役割がその組織のトップの仕事である。それを理解しているかどうか、そして誠実に実行できるかどうかは大切なことである。

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2016.03/11 企画を実現する(13)

企画書に盛り込む内容については、すでにのべたが、その詳細について説明していない。実は企画書を作成するタイミングや内容は、担当する業務や社内の事情に影響を受け、変化する。仮にSTAGE-GATE法やその類似手法で管理されている状況においても企画書の作成時期は戦略的に判断すべきである。上司に指示されたから作りました、ではまずいのである。
 
そもそも企画書を誰がどのようなタイミングで作るのかは、貢献と自己責任を意識し働いておればわかるはずで、それがわからないのは、サラリーマンとしてまずい。知識労働者は、入社したその日から企画書を作成できるような心構えでなければいけない。弊社の研究開発必勝法プログラムは単なる問題解決法ではなく、意識改革の内容も含んでいる。
 
「企画を実現する(12)」で書いた中間転写ベルトのコンパウンド内製化の企画については、センター長の判断が出て、品質保証部のサポートが得られることを確認してから作成し始めている。単身赴任して所属したカンパニーでは、STAGE-GATE法に似た開発管理手法が実施されており、開発の初期の企画から部長あるいはそれに準ずるクラスがデザインレビューを開催することになっていた。
 
最初はセンター内からスタートし、最終的には経営会議にかけられ審議される仕組みだった。しかし、コンパウンド内製化企画は、子会社でコンパウンド工場を立ち上げ、そこから購入する方針となったので、社外のコンパウンド業者と同等扱いで、新たなコンパウンドメーカーの検討を開始するデザインレビューを行えばよく、経営会議まで不要であった。
 
ただ新たなコンパウンド購入先が新製品開発途中から特別に増えることになるので、調達部門と品質管理部門の調整は最重要の課題となる。特に品質管理部門が責任を持てないと言われたならば、もうおしまいである。ゆえに企画前に相談することが最も重要で、企画前に企画そのものに同意してもらう必要があった。また、この部門の見解に応じて企画内容も大きく影響を受けた。
 
当方は、すでに写真会社で15年近く勤務していたので、その風土なり企画の扱いなど熟知していたが、カメラ会社との統合後のこともあり、初心者のつもりで丁寧に進めた。単身赴任前に、どの段階で企画書を作成し始めるのかなど、作成した戦略図と戦術図を使い決めていた。戦略図と戦術図とは、弊社の研究開発必勝法の独自ツールである。
 
外部のコンパウンドメーカーが当方のアイデアを受け入れ、カオス混合装置を導入してくれていたなら、最も楽な業務の進め方ができたのだが、偉大なる国の研究所から生まれたメーカーの流れの会社で科学命の技術畑出身の営業から「素人は黙っとれ」と一喝され、楽ができなくなってしまった。
 
企画の実現において、形式知に反する場合における調整作業の難しさである。しかし、ゴム会社で交流のあった混錬機器の中小企業の社長から最後の花道に協力すると励まされ、自ら苦労する道を選んだ(注)。
 
企画書をどのようなタイミングでどのような内容で書くのかは、このように状況に大きく影響を受ける場合もある。だから単純な企画の指南書は参考になっても実用にはならないような気がしている。もし企画にお困りの方は弊社にご相談ください。実践的な企画書作成術を指南いたします。
 
(注)この仕事に失敗しても成功しても55歳で早期退職する道を選ぶ予定でいた。しかし、中間転写ベルト開発に成功した後、2011年発売の事務機に搭載する環境対応樹脂の相談をうけて早期退職を2011年3月11日まで延期した。たまたま金曜日のその日を選んだわけだが、おかげで退職記念講演もパーティーもすべて吹っ飛び、帰宅難民となって会社に一泊することになった。忘れられない思い出となった。

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2016.03/10 1週間ほど前の記事で恐縮しますが

3月4日のニュース記事に「ホリエモン、28カ国58都市を巡って考えた「衰退する日本」での生きぬき方」というのがあった。「君はどこにでも行ける」(堀江貴文著)という書籍の紹介記事である。
 
弊社は、今月決算と新年度の開始で忙しく、まだ読んでいないが、紹介文でその内容に感銘を受けたので取り上げてみた。ホリエモンは単なる前科者ではないのだ。日本の将来を真剣に考えている事業家の一人かもしれない。時間が出来たら是非読んでみたいと思うと同時に、若い人に筆者の志を伝えたくて書いている。
 
「街角で〝爆買い〟する中国人観光客を横目で見た時に感じる「寂しさ」の正体はなんでしょう。出口の見えない不況の中で、気づけば日本はいつの間にか「安い」国になってしまいました。」と書かれているように、バブル崩壊後の日本は、アベノミクスでようやく衰退が一時停まったが、まだこの先どうなるか分からない状況である。
 
そのような日本の現状を踏まえ、筆者は、若い人たちに広い世界へ飛び出すことを勧めている。書籍のタイトルから想像できるように、この本の要旨となる提案は、グローバル経済というパラダイムでは、もっと叫ばれて良いことだと思う。
 
弊社は創業して3年ほど国内で頑張ってみたが、累積赤字のため中国へ出稼ぎに行くことにした。約2年中国で真剣に仕事をやってみて理解できたことは、いまや国の垣根は大変低くなった、と言うことだ。中国語など話せなくても、中国で仕事が出来るのである。
 
「中国の仕事はリスクが高いでしょう」と時折聞かれるが、今や国内も海外もリスクの高さは同じである。例えば国内企業でも合法的に詐欺まがいのような活動をしているところがあり、3度ほど国内企業の社長や担当者に痛い目に遭った。
 
また、国に有益な提案で補助金申請をしても審査員は真剣に技術を考えていない(注)ので、良い技術提案でもはずれる。同じ内容で3回はずれた技術ならば日本で不要とお墨付きを頂いたようなものだから、中国へ提案しても問題ないだろうと、ローカル企業へ持ち込んだところ、すぐに大きな成果が出た。日本の補助金審査はこの程度なのだ。
 
さすがに当方も日本で事業をやっているので、中国企業だけにサービスをしていては、将来問題とされても仕事がやりにくいので、3月末から5月にかけて4つほど講演を行い、中国ローカルメーカーで育てた技術(日本では誰もお金を払って育てようとしてくれなかった技術)を日本で公開することにしている。
 
当方のこの体験も、ホリエモンの提案「世界へ飛び出して仕事」をした方がよい、という事例のような気がする。今大手の日本企業も余裕が無くなってきており、またお役人は未だにバブル期の感覚で仕事をやっているような状況なので、国内のリスクも海外のリスクもあまり大きな差は無くなっている。ホリエモンが言っているように若い人は思いきって海外へ飛び出してはいかがか。
 
日本では受け入れてもらえないような新しいコンセプトでも、儲かる話であれば、海外の方が意思決定が早い。国内の技術を海外へ持ち出すのは問題があるが、海外で新たな技術を創るのは、国内でそれを実現できないような国なので、生きてゆくために致し方の無いことである。
 
国の補助金審査は、新参者の中小企業には冷たい。海外で技術を育てるのは日本のためにならない、という人がいるが、日本に本社があれば税金や社会保険料を日本で支払うことになるので十分日本に貢献しているのである。だから弊社はもう国への提案をやめて、海外企業へ新たな技術提案を行う活動を始めた。
 
頭脳流出は問題ではないのである。形骸化している補助金審査を初めとした、古い仕組みの社会が問題だ。若い人はどんどん海外へ出て行き活動して欲しい。君の人生は一度しか無い。そして力をつけて成功したなら、日本を良くするように戻ってきて欲しい。
 
(注)審査に落ちたときなど審査に通過したテーマを恨めしげにみたりするが、なぜそれらが選ばれているのか不明な場合が多い。一方経産省のお役人が出席されるパーティーなどに出れば、審査に合格したテーマの成功率が悪い話を聞いたりする。大概は失敗したときに返還の義務が無い。税金をどぶに捨てていても学習効果が見えない。

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2016.03/09 女子サッカーの敗退

女子サッカーのリオ五輪出場の可能性が、アジア予選の最中に消えた。東京五輪に向けてすでに体制作りが動き出した。これまでの反省と批判がWEBの話題になっている。澤選手の話題は当然その中心になってくる。
 
一人のスーパーヒーローの寄与がこれだけ明確に出るのは、その選手の能力が総合的に極めて高いときである。単にサッカーのスキルの高さだけでは今回のような落差は生まれない。サッカーの様なチームワークが重要となる競技では、スーパーヒーローに集団をまとめるカリスマ性が求められる。
 
今回の女子サッカーを見ていると、特にひとりひとりのスキルが低下したようには見えなかった。正確なパスワークも要所で決まっていたが、チームとして攻撃する気迫がTVの画面から伝わってこなかった。
 
試合後、まとまりのない集団でありがちな、選手の中から個人攻撃の声が聞こえてくるのは当然である。そもそも今回のチームは集団としてまとまっていたのか、という疑問を当方は感じている。集団としてまとまるとは、チームプレーだけでなく、日々の練習における信頼関係も含めてである。
 
このような集団をうまくまとめる作業は、監督の重要な仕事の一つで、チームの中にスーパーヒーローがいるときには、比較的易しいこの仕事が、どんぐりの背比べの集団では途端に難しくなる。個々のスキルが高くてもチームプレーが求められるサッカーでは、集団としてまとまっていないチームの場合、接戦で力を出すことができない。
 
スーパーヒーローのいないチームをどのようにまとめ、集団としての能力を高めてゆくのか。ビジネスの世界では、ドラッカーの意思決定の考えかたが参考になる。彼は成果を出すためには並みの能力で十分と言っている。むしろ頭の良い人物がなかなか成果を出せない現実を指摘している。
 
まず、問題の多くは基本にかかわるものであり、原則や手順についての決定を通してのみ解決できる。二つ目は決定が満たすべき必要条件を明確にする。第三に決定が受け入れられるために妥協ではなく正しい答えについて徹底的に検討することである。第四に決定に基づく行動を決定のプロセスの中に組み込むことである。第五に決定の適切さを結果によって検証するためにフィードバックを行うことである。
 
おもしろいことに今回のなでしこJapanの相手ゴール前におけるプレーを見ていたら、ゴールすべきところでしかゴールをしていなかったことである。これで点が入れば勝てるのだが、はたしてサッカーというゲームを考えたときに、それは正しい意思決定なのか?世界一になった時のゴール前における澤選手のつま先の残像が今でも頭に残っている。
 

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