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2014.11/11 文部科学省有識者会議の件の続き(1)

日曜日にG型大学とL型大学の話題を書いたところ質問を頂いた。具体的に大学改革をどのように行うのか、という内容である。大学改革そのものを当方は論じる立場ではないが、大学の役割と現在欠けているカリキュラムについて述べてみたい。

 

先日京都大学の騒動で改めて智の独立性について考えさせられたが、大学の役割はいつの時代でも不変と思っているのは学者ぐらいだろう。現代はアカデミアの外でも優れた英知が生まれる時代になってきた、と思っている。どこの国でも、というわけではないが、少なくとも日米では、そのような知識社会になってきた。

 

このような知識社会の到来を考察し、著書を多数発表したドラッカーはアカデミアから生まれた哲学者ではない。アカデミアの外で優れた英知が生まれる現象は、アカデミアの智の地盤沈下という捉え方もできる。ドラッカーが大学の教壇に立ったように、知識労働者が、アカデミアで教鞭を振るわなければならない時代になったのだ。

 

過去の時代のようにアカデミアを閉鎖された智の社会としていては、アカデミアそのものがそのうち崩壊の危機を迎えると思う。この点で京都大学の騒動は前時代的と言って良いのかもしれない。高度知識社会では、開かれたアカデミアに変わらなければ大学の役割も無くなってしまうのではないか。

 

開かれたアカデミアでは、L型もG型も無い。社会と知価を共創する存在になる。そして大学はそのリーダー的役割を担うのである。学生は知価共創のオペレーションを行う事により即戦力として育成され、そのなかで優れた学生は知識社会のリーダーとして大学に残ってゆくことになるのかもしれない。

 

このような考え方で大学間格差は問題では無く、大学の閉鎖性そのものが問題になる。なぜなら、いわゆる偏差値の低い大学でも高度な知識社会という教育環境の中でレベルが引き上げられるからである。例えばカリキュラムを変更し社会人留学の機会が増得るようになれば、大学入学の入り口は狭められ、自然と偏差値はあがる。

 

カテゴリー : 一般

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