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2015.10/09 梶田博士の受賞の意味

梶田博士が受賞直後のインタビューで,何かに役立つという研究ではないので、とか研究者の興味で進めているような研究だから、と発言されていたのを当方は気になっていた。この感想は、謙遜ではなく何か卑屈に聞こえた。今日本のアカデミアの研究者はここまで追い詰められているのだろうか。
 
日本の基礎研究を推進する環境は30年前よりも厳しくなった、と言われている。確かに国家プロジェクトの成果発表会に行くと、研究内容について厳しい批判を聞いたりすることがある。また、プロジェクトも夢のある目標が少なくなった。
 
2000年頃NEDOの講演会に参加した時に、国家プロジェクトなどの研究評価の説明があり、国の予算で進められている研究について評価しランク付けをするとの厳しい内容があった。
 
恐らくそのことを指しているのだろうと思うが、梶田先生の同僚の感想として、研究の評価点が最低だったので今回の受賞を喜ばれているのでは、という意見まであった。
 
もし卑屈な受賞の感想の原因がそこにあるとしたなら、まことにお気の毒なことだと思う。ノーベルは人類に貢献した研究者のために自己の財産を投げ打ってノーベル賞を設立した。すなわちノーベル賞の精神では、今回の梶田先生の受賞は人類に貢献した研究として認められたのである。
 
確かに基礎研究についてそのテーマの価値評価は難しい。アカデミアの研究者には、本当にもうやめたほうがよい、と言いたくなるテーマを一生懸命やっておられる先生もいらっしゃる。
 
しかし、素粒子物理学の分野は、まだ未完成の研究分野であり、さらに日本のお家芸とも呼べる。素人が見ても大切にすべき研究分野を最低点にする評価者の見識を疑う。
 
すぐに研究成果が役立つような分野ではないことも確かである。しかし、研究に用いる実験設備などは先端技術が無ければ組み立てることができないので、周辺技術を育成するという成果を評価すべきではないだろうか。梶田先生の個人的興味の研究という発言は少しさみしい。
  

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