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2018.11/18 美の表現で思いだした

40年以上前、名古屋駅前の銅像にいたずらでふんどしをつける人がいた。警察が張り込んで犯人を逮捕しようとしたらしいが、結局犯人は捕まらず、1ケ月その裸像は毎日新しいふんどしをつけていた。

 

警察の監視の目を潜り抜けてふんどしをつけ続けた犯人にも感心したが、ふんどしをつけた裸像をまじかで見て下品に見えたのは、むしろつけていない方がデフォルトの美として完成していたからだろう。

 

ふんどしを着けていなければ、わざわざそこを見ず全体を鑑賞する。ふんどし一つで視点が拘束されたりする人間の性は、アイデアを出すコツにも通じる。

 

ある現象と対峙した時にどれだけその現象の周辺あるいは奥行きも含め観察できるのかは訓練してそれができるようにしなければいけない。それができないのはふんどしをつけた裸像を見ているような状態だ。

 

知識を身に着け、科学の視点で現象を眺め、そこから創造を行うという考え方は、自然現象の観察において、このふんどしをつけた裸像を鑑賞せよというようなものだ。

 

知識については、あらかじめ身についた知識だけに頼るのは裸像のふんどしだけに着眼するようなものだ。自然と接したときに自己の無知に気づく感動が湧き上がる状態でいたい。無知に気づき、新たに学び、自分がどこに感動したのか考える。その時に、創造は生まれるのではないか。

 

例えば、先人は、俳句や絵画にその感動をまとめようとしていた。科学と異なるこのような方法で技術を生み出すことができる。科学だけが技術の創造に必要なエンジンではない。先人が自然現象から受けた感動を表現した文学や芸術の成果に科学で学んだ知識を適用して、そこに科学の誤りや不思議さを見出し、新たな形式知を生み出したときに温故知新というが、このような創造では科学の豊富な形式知が必要というわけではない。

 

形式知以外にその人の経験知や暗黙知が先人の経験した感動とシンクロしている。経験知や暗黙知が多ければ感動の機会も多くなる。経験知や暗黙知が科学で整理されていると、その感動で形式知が整理されてゆくかもしれないが、技術の歴史的遺産を見ればわかるように形式知が整理されている必要もない。

 

すなわち、技術を創造するときに科学の形式知がいつも必要というわけではなく、形式知以外の経験知や暗黙知があればよい。それは科学に囚われて行う創造的な活動を行うときにも重要である。

 

アカデミアでこれまで人文科学として束縛してきた間違いに気がつかなければならない。芸術や文学は本来科学とは異なる知の形である。例えば、中間転写ベルトの開発を担当する前、現場で一日ベルトの押し出される風景を観察していた。豊川まで出張して時間が余ったからそのようにしていたわけではないが、周囲からはそのように見えたようだ。

 

しかし、知識がないからボーっと見ていたのではなく、具体的な知識や情報を得る前に、まさに頭の中に全く先入観の無い状態で10%も達成できていない歩留まりの原因を探したのである。そしてその問題が工程にあるのではなくコンパウンドにあると確信した。

 

その時頭の中には30年前のタイヤ工場における現場実習における文字にできない感動やシミュレーションを行い帯電防止層の開発に成功したときのパーコレーション転移を検証して蓄積された経験知はじめ様々な妄想が描かれていた。決して論理的なことがらだけではなく、文字にならないそれらの妄想も含め頭の中に現れる有象無象の事柄が目の前のプロセスと重ね合わされコンパウンドの問題を導き出した。

 

これは人間だけにできる発想法である。あたかも画家が絵を描くような作業に似ている。画家が目の前の実際の色と同じ色を使わない時に論理的な理由を考えているわけではない。その方が良いと思ったからその色を当てはめたに過ぎない。

 

これは単なる思いつきとは異なる。単なる思いつきでは外れることが多いが、当方はこの方法で導き出したアイデアで外れたことが無い。そもそも論理的という時にその論理の基本は科学に基づくが、科学以外の論理的結合も存在する。

 

すなわち、科学では説明できないが、「そのように考えたほうが自然だ」、という結合だ。このような結合で導き出された成果を後から科学で検証するとそれなりに科学的に説明がつくから面白い。また、人に説明するときには、唯一の共通語である科学で説明する必要がある。科学はその時に必要になるだけである。

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