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2020.12/23 経験知と暗黙知

 

科学の時代において形式知をどれだけ身に着けているかは重要とされ、その結果大学入学試験による選別が行われてきた。

 

しかし、それにより大学間に序列ができ、偏差値教育などという言葉まで生まれ、各大学独自の選抜方式を、という流れである。

 

このような流れは、形式知以外の知を大切にしようという考え方ともいえる。哲学書によれば、科学の知は形式知であり、それ以外は経験知と暗黙知とされる。

 

物事に対して認識の差が生まれるのは、それぞれの立場と経験知や暗黙知の違いからである。立場の違いについては、認識を合わせてゆこうとする動き「忖度」があるが、経験知や暗黙知を尊重しようという動きはあまり見られない。

 

逆に経験知や暗黙知を軽蔑する態度をとるような人が多いので、注意が必要である。能ある鷹は爪を隠す、とは名言で、昔から経験知や暗黙知の存在を隠しておいた方が良い、という考え方があったようだ。

 

なぜなら形式知については、その人の肩書からおおよそ予測がつく、という社会的コンセンサスがあった。大学へ入学する人が少ない時代には、この考え方は機能したが、今は肩書から判断して期待をしていると裏切られる人が多くなった。

 

それが事件になったのはSTAP細胞の騒動だろう。高偏差値の大学で学位を取得した研究者ならば、それなりの形式知を持ち合わせていると思ったら、張子の虎だった、というわけだ。

 

そんな博士を世の中に送り出すような大学も大学だが、それを採用する組織も問題がある。本当はそのような問題をもう少し真剣に扱わなければいけないが、自殺者も出たりしてうやむやになった。

 

ところで、このような張子の虎のような知識人が社会に溢れてきてもAIが自由に使えるようになれば、その弊害の影響が少なくなるような気がする。

 

張子の虎に頼らなくてもAIに形式知を期待すればよいのだ。ところが経験知や暗黙知については、AIの時代になっても人頼みとなる。これを形式知同様に肩書から判断すると痛い目に合う。

 

やはり肩書ではなく、その人の実績から判断しなくては、本当の経験知や暗黙知のレベルを評価できない。この実績についても他人の成果を平気で横取りし、キャリアを積むような輩がいるので注意を要する。

カテゴリー : 一般

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