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2025.11/11 直葬

葬儀を行わないで火葬のみを行う葬儀の形態を直葬というのだそうだ。ある僧侶の嘆きが記事になっていた。たしかに直葬が一般的になったら、僧侶の仕事の大半が無くなる。


父親の葬儀の時、警察関係者と親戚だけでご近所は一人だけだった。近所付き合いが20年無かったのと父親の年代の生存者が誰もいなくなったことが原因で簡素な葬式となった。


しかし、通夜からフル装備の葬式を行って満足している。おそらく葬式は遺されたものの満足感で決まるのだろう。死んでしまってから、誰が葬儀に来たのかなどということは考えることができないし、生きているときに想像も難しい。


仮に派手な葬式を遺言として残しても、誰も参列しなければ、恥をかくような想像をできる。コロナ禍3年目あたりから葬儀の連絡が入るようになり、参列するようにしているが、当方の知人が誰もいない葬儀や、閑古鳥が鳴いているような葬儀が多くなった。


コロナ禍が世の中の慣習まで影響を与えた、と思っていたら、わざわざ直葬を事業としている会社も現れたという。高くても数十万円しかかからず、ビジネスとして伸びているという。


ただ、不思議に思うのは、直葬の場合に遺された人たちの気持ちの整理をどのようにするのだろうか、という問題である。「偲ぶ会」というものを葬儀の後いつのころからか、行われるようになった。


若い時に葬儀にも出て、偲ぶ会にも出て学んだのは、故人との関係が薄い時には葬儀が便利であるということだ。偲ぶ会で笑いながら酒を飲んでいる風景を見るのは、どこか心の整理ができない時もある。


また、年末に喪中の連絡を受けたときに葬儀の連絡が無かったことに複雑な気持ちになったりする。特にお世話になった方の喪中のはがきにはいつまでも尾を引くケースがある。


直葬に対する僧侶の嘆きは経済的な香りがするが、直葬が一般化すると困る人も出てくるかもしれない。しかし、僧侶の嘆きの記事にはそのあたりが書かれていないので、これも時代の流れなのだろう。


僧侶は葬儀の形式を心配するのではなく、生きている人の精神状態あるいは心の在り方を考えるのが本来の仕事なのではないか。それが、葬儀のような式にだけ目を向けているので世の中の流れにおいてかれるのだ。


ハラスメントやワークライフバランスへの疑問が出て来た今、僧侶の仕事は多くなっているはずである。これが理解できない僧侶は僧侶としての資格が無いのではないか。

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