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2015.06/22 私のドラッカー(13)

教育システムにおいて科学が唯一の知識として標準化されているので、どこへ行っても技術者は、仕事に関連する情報を読み科学的な成果を出すことができる。ドラッカーは、「創造する経営者」(1964)の中で、「ほかの者と同じ能力を持つだけでは、十分ではない。そのような能力では、事業の成功に不可欠な市場におけるリーダーの地位を手に入れることができない。」と、差別化の重要性を指摘している。

 

これを技術者に限定すると、科学の時代において科学の知識だけを持った技術者は、今国際競争力の有無が問われている。語学力は常識となるが、意外にも技術者の「技術」について、技術者自身が国際競争力をつける方法を知らない。また、学べる場所について多くはない。本屋に行っても技術について書かれた本は少なく、町の本屋では揃えていないところもある。

 

弊社ではヒューマンプロセスによる問題解決法プログラムを提供しているが、これは非科学的な内容も含む「技術者」向けの教材である。依頼された企業の実情に合わせ教材を作成している。なぜそのような面倒な作業を行うのか、それは「技術」の教材だからである。

 

先のドラッカーの著書に、「成功している企業には、常に、少なくとも一つは際だった知識がある。そして全く同じ知識をもつ企業は存在しない。」とある。

 

これは面白い指摘である。真理は一つという科学の時代にあって、成功している企業には、科学と異なる知識が存在する、と言っているような指摘である。もし今日の日本のメーカーが科学知識だけで成功してきたとしたのなら、現在停滞している企業は差別化できなくなっているからで、ドラッカーが指摘しているように当たり前のことではないか。

 

一方、現在でも成功している企業は、科学知識以外の知識で差別化ができているからではないか。そしてその差別化するための知識は、世の中で知られていない高度な科学知識か、あるいは非科学的知識のいずれかである。教科書に書かれている科学の知識で説明できるノウハウはもはや差別化技術にはならない時代で、非科学的なノウハウを作り込んでゆかなければ差別化が難しい時代である。

 

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2015.06/21 私のドラッカー(12)

科学について小学校から大学まで、そして企業に入ってもその知識を学ぶことになる。しかし、技術について、メーカー以外に学べる場所があるのか?少なくとも現在の日本の教育システムでは、技術について学校教育で学ぶ機会が無いのではと懸念している。

 

また、技術について書かれた本が科学について書かれたそれよりも少ない。問題解決法に至っては、すべてが科学的である。非科学的な問題解決法では、科学の時代において恐らく誰も買わないからかもしれない。

 

科学の便利なところは、真理が一つなので、同じ現象についての説明はどの本を読んでも、仮に表現が異なっていても、同じことが書かれている。例えばフローリーハギンズ理論の説明では、二次元格子に二つの高分子を押し込み、そのモデルで自由エネルギーを論じ、χを定義し、そのχで高分子の相分離を説明している。

 

また、科学は論理学に基づき議論を展開しているので、義務教育で学んだ数学の論理を理解していると、少なくとも10回繰り返して読めば、どのような専門領域の内容でも一通りの理解ができる仕組みになっている。わかりにくければ、論理展開について自分なりの図を書いてみれば説明を理解できる。

 

ドラッカーは、「創造する経営者」(1964)の中で、p144「知識は、本の中にはない。本の中にあるものは情報である。知識とはそれらの情報を仕事や成果に結びつける能力である」と述べている。高等教育を受けた技術者が科学の書籍を読み、日々の仕事で容易に成果を出すことができるのは、科学の知識が身についているからである。(明日に続く)

 

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2015.06/20 科学と技術(3)

ドラッカーの「傍観者の時代」には、彼の技術に対する考え方が出てくる。基本的な彼の考え方は、「テクノロジーこそ、哲学、文化、美学、人間学と結合されるべき」、すなわち技術を技術者だけにまかせていてはいけない、ぐらいの考え方である。

 

技術が人間の営みである以上彼の考え方は正しいと思うし、技術はそのように発展してきた時代もあった。それが科学の時代に科学と技術が結びつき、悪いことに科学主導で技術が進歩したために、環境問題を引き起こした。

 

人類は技術進歩による環境破壊を問題視し、その解決策の一つとしてISO14001をまとめている。環境破壊は大きな問題だが、それをとりあげた「科学技術は人類を救うか」というTVドキュメントがかつてあったが、このタイトルのセンスは悪いと感じた。

 

科学は哲学の一つであって、科学=技術ではない。技術者が科学を重視しすぎたために自らが開発した技術の環境への影響評価を忘れたのだ。そもそも技術は人間の生活感と結びつかなければいけない。人間が自らを幸福にするために技術を真剣に考えるならば、技術の将来は、人間の幸せを約束するだろう。

 

このような技術の未来について語るときに、科学との関係認識が重要であるように、日常の問題解決においても科学の活用方法を正しくすることも大切である。すなわち取り扱おうとする問題が、科学ですべてが解明された分野に属しており、結果が明らかなときにだけ、科学の成果を活用すると技術開発の効率をあげることができる。

 

しかし、完全に科学的に解明されていない現象の機能を技術として採用するときに、科学に縛られると問題解決を難しくする場合がある。悩ましいのは教科書に書かれている科学の成果にも、その現象の真理がすべて解明されていない場合があるのだ。技術開発において科学的方法以外にヒューマンプロセスによる方法があることを覚えておくと鬼に金棒である。ご興味のある方はお問い合わせください。

 

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2015.06/17 私のドラッカー(10)

2005年の夏は、家族とのしばらくの別れという寂しい思い出の季節となるはずだった。押出成形で高級機用中間転写ベルトを開発する「仕事」を成功させるために豊川へ退職までの5年間単身赴任することになったからだ。ところが外部のコンパウンドメーカーが当方のアイデアを採用してくれなかったばっかりに、自分でコンパウンド製造ラインを半年以内に立ち上げねばならなくなった。その結果、毎週東京へ自費で帰るような生活となった。

 

単身赴任した亭主が毎週のように帰ってくる妻の気持ちはどのようだったか知らないが、子供たちの喜んでくれた顔がうれしかった。しかし何よりも難儀な仕事を格安で引き受けてくれた根津の中堅企業の心意気がうれしかった。設備を発注するまでは、目の前に失敗の二文字が頻繁に現れていた。

 

この仕事は、研究開発も満足にやっていないカオス混合プロセスの実用化という技術開発であり、これが成功する科学的根拠は無かった。むしろχが正となる二種の高分子をコンパチビライザーを使用せず相容させようとするフローリーハギンズの理論に挑戦した非科学的な技術のため科学的に考えると失敗確率がきわめて高かった。

 

しかし科学の論理よりも30年近くの技術経験に裏付けられた機能設計の可能性に賭けた。さらに成功すれば高分子技術、とりわけ混練技術に大きなイノベーションを引き起こすことも魅力的であった。この仕事で実現されるのは、現代の科学で否定される現象だが、ポリスチレンとポリオレフィンをコンパチビライザーを用いず相容させる技術について、ポリスチレンの分子設計という30年以上前の卒論で鍛えた合成技術で成功した自信が、リスクへの心配よりも十分に大きかった。

 

「テクノロジーとは、人が人に特有な活動としての「仕事」を行うための、目的意識に基づく人工の非有機的進化に関わるものである。」とドラッカーは、「傍観者の時代」(1979)で述べている。この言葉の後には、「しかも人の行い方、つくり方、働き方は、人の生き方、人と人との関わり方、自らの見方、そして詰まるところは、人が何であり誰であるかに対してさえ重大なインパクトを与えるものである。そして何よりも、「仕事」とは、人の生活と人生において特別の絆を意味するものである」と続いている。

 

当方は技術者として、仕事の成功に対して不安は無かった。しかし、「たった半年という短期間でコンパウンド工場を子会社で立ち上げる常識はずれな仕事」としてこれをとらえたときに、それを後押ししてくださった元カメラメーカーの上司(注)の意志決定には頭が下がった。この仕事だけはどんなことがあっても成功させる、という「強い気持ち」を久しぶりに持つことができた。部下のリスクを共有する意志決定こそ管理者として重要な仕事である。

 

(注)この2年前に写真会社とカメラメーカーが合体した。この仕事は元カメラメーカーで推進されていた仕事で、上司であるセンター長とは初めて仕事をすることになった人間関係希薄の中での意志決定である。ただ、上司は仕事の中身とその重要性、そして当方の提案がそれらに与える影響を判断できたので、果敢な意志決定をできたのだと思う。ゴム会社ではこのような意志決定ができる管理者が多かったが、日本企業では、リスクも無くだれでもその答えを選ぶ、という状態でなければ決定できない管理者が多いのではないか?リスクを見極めた上でそれを回避できないならば、上司が責任をとる覚悟で意志決定できる管理者は、部下から見れば頼りになる管理者である。カオス混合の技術は、このような管理者の意志決定により生まれた。まさにこの仕事は「人の生活と人生において特別の絆を意味するものである」

 

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2015.06/16 私のドラッカー(9)

ドラッカーは「傍観者の時代」(1979)で、「テクノロジーとは、教養人やテクノロジストが考えてきたほど簡単なものではなかった。すなわちテクノロジーとは、人間の生産物に影響を与えるだけでなく、人間そのものを規定し、あるいは少なくとも、人間が自らをいかに見るかを規定するものだった。」と述べている。

 

この見解に至る前後で、その時代のテクノロジーに対する考え方を紹介し、「彼らの描くビジョンには、テクノロジーと人間特有の活動としての「仕事」を関連づけるものがないからである。」と、フラーやマクルーハンの描くテクノロジーを批判している。

 

そして「テクノロジーは「人の行い方やもののつくり方」に関わるものである。」と結論している。当方は、この欄の「科学と技術」で書いているように、技術(テクノロジー)は人間の営みそのものと思っている。この考え方は、ドラッカーの影響によるものであると同時に、33年間の技術者生活からたどり着いた技術に対する感想でもある。

 

現在でも暇を見つけて科学情報を得るために学会活動に参加しているが、科学と技術では、その使命が大きく異なっていると思う。科学の使命を忘れ、科学者が機能追求に走ると真理を軽んじるようになる。その結果昨年のSTAP細胞騒動のような事件が、科学の世界で起きたりする。ところが技術の世界で起きる事件は、ノーベル賞を受賞した技術者が、以前所属した会社に和解を申し出たところ、会社からは体よく断られるような人間くささが表面に出る。

 

破格の特許報償を請求し受け取りながら図々しい、というその組織メンバーの心が見えてしまうような大人げない金銭にまつわる構図である。これが技術者ではなく、その人物が科学者で、和解の対象がアカデミアならば円満解決し、話題にもならなかったかもしれない。科学において真理は一つであり、その一つの真理を大切にするのが使命だ。それに対し技術では機能を実現することが使命で、その実現方法は多数あり、気に入らないものは捨て去れば良いのである。

 

ドラッカーが「マクルーハンの洞察のうち最も重要なものは、「メディアはメッセージである」ではないのである。「テクノロジーは道具ではない。人の一部である。」なのである。」と「傍観者の時代」で紹介しているように、テクノロジー(技術)と人間とは切り離せない関係であり、科学の論理だけで技術開発は成功しない。ちなみに科学とは、テクノロジーの道具の一つと思っている。

 

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2015.06/13 科学と技術(2)

 科学は真理を追究することが、技術は機能を実現することがミッションとなる。科学は、それゆえ分析的解析的仕事のやり方が主体となり、真理を追究する。分析的解析的仕事が中心になるので、専門の知識や論理学に秀でていなくては仕事を進めることができない。また、真理を見いだすのではなく作り出すことは捏造と言われる。

 

 凡人でも成果を出せる唯一の科学的な方法は、発見である。科学の研究では真理を見つけさえすれば、それがゴールとなる。そして発見では、発見したオブジェクトの証明を科学的に行うことが求められる。発見されたオブジェクトにより、科学的証明が難しい場合がある。その時は繰り返し再現性を示し、その現象が事実であることを証明する。

 

 繰り返し再現性を求めるという手法や手順は技術とつながる。技術は、自然界の機能を活用して、人間に有用な価値を生み出せるように作りあげるのが仕事である。そして、同じ機能を使っていくつかの商品をうまく作りあげる人のことを職人と呼ぶ。

 

 技術者は、様々な機能を「見つけ出し」商品を作り出せる人およびそれを職業としている人である。科学の発見は偶然でもできるが、技術では機能を「見つけ出す」プロセスにコツが求められるので、多少の訓練が必要になる。

 

 先日の「科学と技術(1)」で書いた「まずモノを持って来い」という指示では、機能を実現している実体を示すことが求められた。これはモデルでも許された。とにかく機能を実現できることを示さなければ開発を始めることができなかった。むちゃくちゃだ、という人もいたけれど、言葉で技術を語るよりも、機能を実現したモデルを示すことの方が説得力がある。技術者の訓練として大切である。

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2015.06/12 私のドラッカー(8)

米大リーグのレンジャーズを自由契約になった藤川球児投手が、推定一億円の提示をした阪神を蹴ってローカル球団の高知ファイティングドッグスに入団したニュースには続きがあり、その球団社長が無給という条件であることを明かした。

 

藤川球児投手はブログで「僕と妻の生まれ故郷の高知で、未来のスーパースターになるチャンスを持った子供達に僕が投げる姿を見てもらって今後の夢に繋げて貰いたい!」と思いを綴っているが、本音は、以前語っていた「自分を必要とするところで投げたい」と判断しての意志決定だろう。

 

シーズン途中であるが現在の阪神の中継ぎに藤川投手が加われば、と思ったのは当方だけではないだろう。しかし、藤川投手が肘の手術をしたことについて、阪神内部で心配している人たちがいる、とかねてから新聞報道されていた。

 

藤川投手が二流あるいは自己責任感の無い投手だったなら、そのような意見があったとしても球団の意志決定である一億円のオファーを受け入れたかもしれない。しかし、彼は一億円よりもプロの投手としての自己責任感からあっぱれな意志決定をした。

 

彼は、まだ若く、数年はスタープレーヤーとして活躍できるはずで、それを本人も自覚していると思う。一億円という金額を安いと判断したのかどうか、という議論が無意味であることはローカルリーグで無給という球団社長の発言から理解できる。

 

彼は、腐っても鯛になる道を選んだのである。実は大学を卒業した知識労働者も藤川投手のような意志決定をしなければいけない、とドラッカーは述べている。そうしなければ高い成果を上げられない、と断言している。

 

すなわち「農民が何をいかに行うかは代々伝えられていた。職人は仕事の中身、手順、基準についてギルドの定めがあった。今日組織に働く人たちは何も教えてもらえない。」と「断絶の時代」(1968)に書かれているように、知識労働者は藤川投手のようなプロ意識を持って自ら考え組織に貢献しなければいけないのである(注)。

 

「断絶の時代」(1968)P.F.ドラッカー(上田惇生訳)より
「今日組織に働く人たちは何も教えてもらえない。自ら意志決定を行わなければならない。さもなければ成果をあげられない。何事も成し遂げられずいかなる成功も収められない。」

 
 

(注)本来大卒以上の知識労働者は、組織に入るやいなや即戦力として活動できなければいけない時代である。しかし、大学にそのような準備と体制ができていない。科学の水準が高くて即戦力は無理だ、と言っていた大学の先生を知っているが、この発言は大学の使命を忘れた発言である。今大学教育で欠けているのは、「技術者」教育である。日本の教育カリキュラムにおいて、「技術」を取り入れている学校は少ない。そもそも科学と技術はイノベーションを引き起こす車の両輪のはずなのに「技術とは何か」という哲学科目さえ大学に存在しない。当方はゴム会社の新入社員研修で「技術」哲学を初めて習った。それはきわめて新鮮だった。花冠大学には未来技術研究所があり、そこで少し技術について女子大生が議論している(www.miragiken.com)。技術を扱っている珍しい大学である。

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2015.06/11 科学と技術(1)

昨日の(注)を書きながら、科学と技術について誤解されている人が多いのではないだろうか、と考えた。当方も新入社員研修で技術について学校教育で学んでいなかったことを初めて自覚した。実務についてから技術者という職業を考える毎日だった。指導社員はその手本として最高の人だった。

 

技術者の開発方法論を実務から学ぶことになったが、ゴム会社で高純度SiCの事業化を検討しているときの体験は学習として厳しいものだった。社長決裁のテーマだったのでつぶすためには、それなりの理由が必要で、一方継続するにも地獄であった。

 

当時のU本部長には厳しく鍛えられ、M研究所長にはやさしく癒やしていただいた。特にM研究所長については、瞬間湯沸かし器の異名が陰口として語られており、部下で叱られなかった人がいない、と言われていたが、当方は一度もそのような湯沸かし状態も見たことがなければ、叱られたこともなかった。いつでもよくがんばった、と褒められていた。気になったのは、いつも過去形だった点ぐらいである。

 

いつも褒められるときには過去形だったので、その後は新しいテーマを提案するようにしていた。するとM研究所長の回答は、「まだそれ、考えなくていいよ」か、あるいは、「すごいね、すぐにやりなさい」のいずれかだった。すなわち前者の回答の時には、「よくがんばった」は、過去形ではなく現在完了形の継続の意味だったのである。

 

M研究所長は、いつも親身に研究テーマを心配してくださっていた。U本部長とM研究所長の組織体制のままであったなら、転職するような事態になる事件が起きなかったと思う。55歳役職定年は研究組織の管理者にとって早すぎる年齢制度である。

 

U本部長は、大学の先輩でもあり、当方の性格をよくご存じだった。だから周囲が心配するほど辛辣な叱責が多かった。そして最後には、「まず、モノを持ってこい」が口癖だった。ところがM研究所長とは反対にU本部長は周囲の管理職から優しいと評判の方だった。また、日常はそのような紳士然とされた方だった。それだけにテーマ進捗の報告は、当方にとって地獄だった。

 

U本部長は厳しかったが、「モノを持って来い」という口癖に象徴されているように、技術重視のマネジメントであり、科学と技術について理解を深めるのには役だった。ちなみに「まず、モノを持って来い」は、当方だけでなく他の研究管理者も言われていたらしい。「本部長は手品のようにすぐモノができる、と考えている」という陰口がきかれた。

 

ただ、この陰口は間違っており、度重なる議論から知った本部長が意図していた意味は、機能の確認モデルが必要だ、という内容であった。たとえばこのようなことがあった。ECDの企画を説明しようとして秋葉原で液晶表示板を購入し、手作りでECDパネルを完成した。しかし、文字をうまく消すことができない。そのままテーマ提案の場で使用したところ、「すぐに文字が消えるように研究しろ」とテーマが認められた。

 

本部長が意図していたのはその程度で、企画内容で重要となる技術の機能についてどこまで真剣に考えていたかを知りたかっただけである。企画の説明資料に科学的内容をいくら書いてもだめで、重要なのは技術開発テーマ企画として技術の要となる機能が十分に検討されているかどうかである、と指導を受けた。

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2015.06/10 私のドラッカー(7)

「断絶の時代」(1968)P.F.ドラッカー(上田惇生訳)より
「組織社会を自由な社会にするには、一人ひとりが自らの責任及び組織の責任として、社会への貢献の責任を認めなければいけない。」
「人生から何を得るかを問い、得られるものは自らが投じたものによることを知ったとき、人は人として成熟する。組織から何を得るかを問い、得られるものは自らが投じたものによることを知ったとき、人は人として自由となる。」

 

 これは、社会と組織への責任を述べた内容からの抜粋であるが、組織社会で働く意味でもある。現代の働く意味は、「貢献」と「自己実現」にあると「プロフェッショナルの条件」でドラッカーは述べている。そして組織で働くときに自己責任の原則を知ったときに自由になるという。

 

 今から10年前に豊川へ単身赴任したが、引っ越しを手伝ってくれた家族は、楽しそうにしているのが不思議だといった。自分以外に誰も解決できない仕事をする楽しさだ、と説明したが、できるかどうか不安ではないのか、という質問になった。

 

 外部の業者に技術が無ければ失敗するだろう、そして自分が責任をとることになるが、外部の業者は一流だから、恐らく当方のアイデアを採用してくれて、仕事は成功するだろうと、見通しを語った。しかし、赴任してすぐにその答えは出た。外部の業者は一流と言われていたのでその判断に期待したが、当方の提案したアイデアを採用してくれなかったのだ(注)。

 

 外部の業者が当方のアイデアを否定したので、一年後の結果はすぐに見えた。責任をとり早期退職するつもりで、上司に「申し訳ない」と頭を下げた。「ほかに方法は無いのか」と言われたので、「納期も迫っており、外部の業者に依存している限り、無い」と答えたら、半年以内に子会社でコンパウンドのラインを建設することになった。フローリーハギンズの理論など上司に説明しても不安を煽るだけなので、「中古の二軸混練機が一台あれば結果にコミットできる」と答えた。

 

上司は組織長として当方の提案内容を受け入れてくださった。赴任して間もないリーダーの提案を受け入れてくれるほど度量の大きな組織長であったことが幸いした。この信頼に応え成功することは組織への貢献である。

 

 カオス混合の実用化は初めての体験であったが、高分子技術者を目標とした自己実現の機会として最適なテーマだった。ゴム会社で高純度SiCの事業化を目指したときにはセラミックス技術者を目標としていた。そしてその生産ラインを半年で完成させた。ただしその事業化は6年かかった。今回は事業が目前でつぶれるかどうか、という状況で、最大の問題はフローリーハギンズの理論だった。

 

しかし、単身赴任する前にポリオレフィンとポリスチレンを相容させることに成功していたので、フローリーハギンズの理論など怖くはなく、PPSと6ナイロンをプロセシングで相容できる自信があった。このとき、新しい組織へは管理者として赴任したが頭の中は技術者モードになっていた。グループのマネジメントはすべて部下のマネージャーに任せた。

 

休みはほとんど自費で東京へ帰る日常となった。センター長の決裁範囲の価格で購入できた中古の二軸混練機を根津にある某業者にあずけ、カオス混合の生産機を組み立てていたからだ。ここで業者とともにその機能を勉強することになった。センター長の信頼に応えるため新たな分野を短期に学ぶ必要が生じたが、それは貢献の手段でもあった。

 

(注)一流だから採用しなかった、という解釈もできる。しかし、一流だから科学と技術の世界観が異なることを理解している、と期待していた。科学は単なる哲学である。一方、技術は人間の営みである。科学では論理の厳密性が重要であり、科学で完璧にできる証明方法は否定証明だけだ、と言ったのはイムレラカトシュである。換言すれば科学的な否定証明がなされていない現象では実現できる可能性が残っている。ポリオレフィンとポリスチレンが相容し透明になった(15年以上経過しても透明である)ことで、フローリーハギンズの理論が完璧な理論でないことを証明できた。すなわちフローリーハギンズの理論を基に「否定証明」を構築し、カオス混合の結果を否定することはできないので、そこに属する現象の機能については、フローリーハギンズ理論で、できるともできないとも考察できない。機能を実現できるようにするのは技術である。ただし、技術でも科学で完璧に否定された現象に即した機能をそのまま利用することはできないので、そのときはほかの代替できる現象から機能を持ってくることになる。これは技術開発の方法論。科学と技術は世界観が異なり、技術の世界では科学は一手段あるいは方法の一つである。また、科学の世界ではモデル化された現象を実現するために技術を使う。技術で科学を手段として使うときに問題は発生しないが、科学の世界で技術を使うときには、その技術が科学で証明されていないときに問題が発生する。科学と技術は論理学の必要条件と十分条件の関係に似ている。ここを正しく理解していないとうまく問題解決できないばかりか大騒動を引き起こすこともある。最近の有名な事例は、STAP細胞の騒動である。科学で完璧な否定証明ができていないこの現象について、未熟な科学者が偶然成功した。未熟な科学者は技術として完成させる道を選べば良かったが、人生経験が不足していた。科学の世界に巻き込まれたので、とんでもない混乱となったのだ。マウス作成にES細胞を使用していたことを窃盗罪という人間の営みとして訴える科学者も現れた。熟練した人生経験豊富な科学者は、研究の世界に時々人間の営みをそのまま持ち込んだりするが、それはあくまで成果を生み出すためだ。ここで窃盗罪を持ち出してどのような成果を期待しているのだろうか。ちなみに科学の世界に技術の世界観を持ち込みノーベル賞まで受賞したiPS細胞の成果は、今の時代にヒューマンプロセスの見直しが重要であることを示している。

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2015.06/09 私のドラッカー(6)

「断絶の時代」(1968)P.F.ドラッカー(上田惇生訳)より
「情報は、何かを行うことのために使われて初めて知識となる。--中略--従って知識経済の出現は知識の歴史の中に位置づけられるものではない。それはいかに道具を仕事に適用するかという技術の歴史の中に位置づけられる。
---中略--知識経済の知識は、新しさや古さに関係なく、ニュートン力学の宇宙開発への適用のように、実際に適用できるか否かに意味がある。重要なことは新しさや精緻さではなく、それを使う者の創造力と技能にある。」

 

この40年以上前のドラッカーの指摘は、体系だった知識の重要性とその使い方の重要性を指摘している。ビジネスシーンにおけるロジカルシンキングやタグチメソッドはじめ問題解決法の流行は、知識の使い方に重点が置かれている。

 

科学の時代において、科学的知識は体系だった知識の一例である。ゆえに科学的知識を扱う限りにおいて知識の使い方だけ学べば良いかもしれない。しかしビジネスシーンの問題では、科学的知識だけで解決できるとは限らない。

 

科学的知識の中には、実際に活用できない知識も存在する。あるいは活用方法が分からない知識と表現した方が良いかもしれない。例えばパーコレーション転移については、古くから数学者により議論されていた。そして40年くらい前には一つの体系ができていた。

 

しかし材料技術の世界においてパーコレーション転移の知識が積極的に活用されたのは、この20年である。30年前にパーコレーション転移の理論は単なる情報に過ぎなかった。材料科学の教科書に書かれた混合則を不満に思い、パーコレーションについて勉強しシミュレーションプログラムを作成した。

 
知識の使い方だけでなく、情報を知識に変換する技術や独自の知識を体系化する技術も重要である。弊社では、単なる問題解決法ではなく、知識にまつわる技術を身につけるためのプログラムを用意しています。

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