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2015.09/15 ワークライフバランス

この10年ワークライフバランスが流行し、多くの企業が取り組んでいる。故ドラッカーは早くからこの点に着目し、「現代の経営」の中で大企業の抱える問題の解決策として、「組織の中の人たちの生き方を変えさせることである」と述べている。イノベーションで書いたゴム会社におけるCI導入における論文募集はその一手段であったが、当時と異なり現代は、個人の人生に対する姿勢に重点が置かれている。
 
彼は「大企業や巨大企業は経営管理者に対し、会社を生活の中心に据えることを期待しすぎている。」と指摘し、それが結果として、「組織だけが人生であるために組織にしがみつく」状態を作り出している、と述べている。
 
企業活動において新陳代謝は重要で、社員に会社へしがみつかれたのでは、大企業は経営そのものが危うくなるので従業員のワークライフバランスが重要になってくる。一方従業員にとって会社は60歳まで、と考えなければいけない時代において、政府から70歳まで企業が雇用する云々という話がでてきて、このワークライフバランスの本来の意味が従業員に分かりにくくなっている。
 
当方は「第二の人生」という考え方が嫌いである。すなわち会社勤務を第一の人生ととらえる考え方は、人生に会社生活の比重を重く置いて考えているようなものだ。そもそも人生には、仕事と生活(衣食住)以外に家族や地域社会、自分そのもの価値(自己開発)、余暇など様々な事象が存在する。この事象をうまくバランスさせてその人の独自の「人生」が生み出される。第一も第二も無い。
 
生活の糧を考えると会社にしがみつくのが最も安直であり、政府がいうように企業に対して70歳まで雇用する義務を課するのは必要かもしれない。しかし、それでは社会の発展が期待できないのである。働くことの基本は「貢献」であり、社会に有用な人材が、60歳以降大企業に安く雇用されるよりも、中小企業で高給で優遇され、それに見合うアウトプットを社会に出していったほうが良い。
 
そのためには、会社員として40年弱過ごしているときに5年程度は遊ぶつもりで思い切ったイノベーションを企画し実行すると勉強になる。人生のバランスを考え自由にそのバランスを設計できるためには、生活の糧を自由に選択できる自分を40年弱の間に創り上げなくてはいけない。すなわちワークライフバランスを考えるときに企業が従業員にサポートしなければいけないのは、弊社のような仕事のやり方のソフトウェアーを提供するコンサルタントをうまく活用することである。
  

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2015.09/14 災害と住宅

今回二つの台風の影響による水害は、50年来とのことと報道されていたが、40年前の1974年に起きた台風16号による多摩川氾濫を忘れていないか。当方はまだ上京前の学生時代だったが、その後この水害を扱った「岸辺のアルバム」が中日新聞に掲載されていたので記憶していた。
 
さらに、この新聞小説が映画化されたときには当時の災害の実写フィルムが使用され、多摩川沿いに立っていた家が流されてゆくシーンが映し出された。記憶が正しければこの家は、木造の2x4住宅で耐震の高い造りだった。
 
今回の災害では、水害でびくともしなかったヘーベルハウスがネットで話題になっている。これは茨城県常総市鬼怒川の氾濫で多くの木造住宅が水流で破壊され流されてゆくのに白い建物が踏ん張っている様子が全国に放映されたからである。
 
ご近所で某社製鉄骨住宅の建設が行われていたので、その現場をのぞいてみると頑丈な構造体を見ることができた。へーベルハウスに限らずこのような鉄骨とそれを支える頑丈な基礎で建てられた構造体の家では、木造住宅のように基礎から離れて流されることはないのだろう。ただ1974年当時は、基礎から離れて流されても筺体が壊れなかったことから2x4住宅の堅牢なつくりが話題になっていた。
 
何か災害があると住宅を始めとした生活のインフラの脆弱性あるいは逆にその堅牢性が話題になる。かつてゴム会社のパネル水槽は、市場占有率が低かったが1983年の日本海中部地震でその頑丈さが話題になり、一気に市場占有率を伸ばした。
 
この時は、この業界で後発のゴム会社が最新の耐震設計で商品を出していたことと市場占有率が低く震度のひどかった地域に販売されていなかったことが寄与した。商品の中にはその品質を一生に一度遭遇するかどうかわからない事象で保証しなければならない項目がある。このような項目の品質設計はメーカーの技術力だけでなく品質に対する哲学の影響を受けると思われる。
 
例えばゴム会社では、新製品開発において必ず商品化前に実車テストが繰り返し行われるが、新入社員時代はそこまでやるのか、とあきれたぐらいである。しかし、長年自動車を運転してきて当時見学したテスト風景に今では納得している。
 
科学的品質管理と言われるが、科学という哲学の視点だけで満足してはいけない領域があることを銘記すべきである。ちなみにこのゴム会社では30年以上前から免除振装置を販売しており、今でも最初に設置された装置を抜き取り点検で定期的に取り外し調査している。新事業としてスタートする時に開発されたシミュレーターで、科学的には100年以上の耐久性のあることが確認されているが、予測と実際の結果との比較を行っている。
 
防災に対しては科学的に得られた結果から100%安全と、油断してはいけない。原発は科学的に安全な究極の発電システムといわれたが福島のような状況になっている。

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2015.09/13 イノベーション(6)

ゴム会社で本業とはかけ離れたセラミックス分野の高純度SiCの事業を立ち上げた。それが先行投資を受けてから30年近く続いている。写真会社ではカオス混合によるコンパウンド工場を立ち上げた。これは子会社のちょっとした新事業である。その後この事業は神戸と静岡の二カ所でコンパウンドを生産するまでになったと風の便りで聞いている。
 
いずれの成果についてもイノベーターに何が報われたのか。会社を訴えて多額の特許報償を獲得したブルーレイの例は極めて希で、企業内イノベーションでは、大きく報われないケースもある。しかし、イノベーションを起こさなければ経験しなかったであろう、高純度SiCの学会賞の推薦書が当方に回ってきたような出来事はじめここでは書きにくい面白い体験を多数している。
 
高純度SiCの事業化を推進しているときに、転職することなど考えてもいなかったが、転職しなければ事業化がうまくゆかない状況になった。一方、カオス混合技術のプラントについては、当初外部のコンパウンダーに立ち上げていただく予定でいたが、「素人はダマットレ」という暴言の前に、ミッション遂行が絶望的になり、責任をとる覚悟でプラントを立ち上げた。
 
いずれもサラリーマンとして無理をしなければ、それなりの結果になっていた仕事である。おそらく後者では高級機の中間転写ベルトを熱可塑性樹脂で製造することは不可能という結果を導き出し、プロジェクト失敗の責任をとってリーダーから改めて窓際へ移り、穏やかに退職(注)できただろうと思っている。成功して早期退職を選ぶよりも平穏なサラリーマン生活として、よかったかもしれない。
 
サラリーマンであるイノベーターが報われない風土では、次第に考え方が保守的になってゆく。さらにはシャープで希望退職者の目標を達成できなかったように、会社にぶら下がろうとする社員も増えてくる。
 
しかし、イノベーションに失敗しても命がなくなるわけではない。どうせ会社にぶら下がるならば、自分の意志を通してぶら下がっていた方が良い。日本の会社ではイノベーションの成功者よりも失敗者を大切にする傾向があることを知っておくとよい。東芝では元副社長は顧問として厚遇されている、と新聞に報じられた。
 
また、写真会社ではかつて磁気テープ事業に大失敗しているが、そのプロジェクトに関わった方たちから役員が複数誕生しているし、ゴム会社ではさすがに会社に赤字をもたらした人が役員になることはないが、ここでは書きにくい人が65歳まで大切にフェローとして雇用された。
 
異なる風土の会社に勤めて見えてきたのは、日本企業において企業内イノベーションというものは、その気になれば失敗を恐れず積極的に行ったほうがよい風土ということだ。成功しても報われる保証はないが、失敗してもうまく立ち回ればそれなりに会社は面倒を見てくれる。
 
ただ成功しても報われない、という負の見方もあるのでイノベーションが起きにくいのかもしれない。仮に報われないとしても、リスクの無い状態で、大きな仕事ができるという魅力が企業内イノベーションにある。
 
無理をしないサラリーマンの生き方が時代の流れかもしれないが、生きている実感を味わえる無理もたまには楽しい。ドラッカーの遺作にもあるように、歴史が見たことのない未来が始まり、ますますイノベーションが求められている。40年弱(当方は早期退職したので32年)のサラリーマン生活である。その中の5年間くらいは無茶をしても大丈夫なので日本のサラリーマンはイノベーションを起こす努力をして欲しい。弊社では個人の相談者も受け付けております。
 
(注)当方は、失敗しておれば定年まで会社で過ごし退職日も変わっていたはずだが、役員から勧められて早期退職を選び2011年3月11日が最終出社日となった。その結果、最終講演も送別会も無くなり1晩会社へ宿泊させていただくことになった。退職のためパソコンもすべて整理し、何もすることのない事務所で一人一晩過ごしてみると、ドラッカーの提言が今でも重要な示唆に富んだ遺言であると気づき、誠実に真摯に仕事をした満足なサラリーマン生活だった、と思えるようになった。

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2015.09/12 イノベーション(5)

ゴム会社における高純度SiCの事業化テーマを担当し、様々な人間模様を見ることができた。企業でイノベーションを行うにあたり、技術以外の学ぶべきことが多かった。また、ベンチャーからスタートした会社の独特の企業風土の効果も実感した。留学の時にお世話になった人事部長はじめ本社の管理職の方々は、皆新事業に未来の夢を描かれていた。
 
なぜか研究所には夢は無く現実路線であり、平社員の立場でイノベーションを起こしにくい環境となっていた。しかし、自分の意思を貫き、無機材質研究所へ留学したところ、I総合研究官との出会いなど多くの社外の人脈が得られ、高純度SiCの事業化を成功させることができた。
 
電池の仕事を手伝っていたときに、高純度SiCの仕事を辞めるように上司から勧められた。さらにFC棟のすべての設備を廃棄し、電池の生産ラインの場所として空けるように命じられたこともあった。しかし、すべて従わなかった。必ずしも直属の上司から見て給与を増やしたくなるような社員ではなかったはずだが、それでも給与は下がらず上がっていた。
 
高純度SiCの研究予算は、研究管理部の部長から毎年期初にいただいていた。ここでは書けない方法で決められた予算は、死の谷を歩いているとは、いいにくい金額だった。6年間の苦労の期間は、死の谷ではなく天国だったのかもしれない。
 
大会社でイノベーションを起こそうとするときに、それに反対する人は社員の中に必ずいるものだが、イノベーションを起こそうとする人は反対勢力に目を奪われてはいけない。経営者や支持者の気持ち、その期待や夢をいつも考えるべきである。
 
イノベーターが自己の立場のみ考えたなら、企業におけるイノベーションは失敗する。反対勢力に配慮が足らない態度と映るかもしれないが、反対勢力というのはイノベーションを継続している限りその反対姿勢は変わらないので、むしろ継続の強い意志を萎えないようにすべきである。
 
他の事例ではあるが、ブルーレイの発明では会社から追い出されたような形にイノベーターは置かれている。しかし、当方は事業に良い影響が出るように自ら判断し転職をしたので会社から追い出された気持ちをもっていない。それゆえ、半導体治工具の基本特許はじめいくつかの特許の報奨金もゴム会社に請求していない。
 

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2015.09/11 イノベーション(4)

大会社であったが社長の意思決定は早かった。すぐにパイロットプラントの建設が始まった。1984年はあわただしかった。このパイロットプラント(FC棟)の竣工式の日に上司が他界し、竣工式の翌日が葬式となったためである。新設されたパイロットプラントでは10kg/日の横型プッシャー炉(特許技術)が稼働し、高純度SiC粉体の量産検討が開始された。
 
しかし、すぐに大きな問題に遭遇した。マーケットが無かったのである。その後6年間ほどいわゆる死の谷を歩くことになるのだが、当時新規事業として、電池とメカトロニクス、ファインセラミックスの3本柱が動いており、ファインセラミックスは最初に失敗に近い烙印を押され、早い段階で担当は当方一人になった。
 
すでにパイロットプラントまでできていたので、6年間は細々と市場調査を行いながら、電池とメカトロニクスのテーマを手伝っていた。そのうち電池の事業撤退が決まり、電気粘性流体を中心にしたメカトロニクスと高純度SiCのファインセラミックスが残り、電気粘性流体のお手伝いを中心とした仕事になっていった。
 
この時電池の電解質用難燃剤技術の基になったホスファゼンオイルの発明や、高い電気粘性効果を発揮する傾斜組成の粉体、超微粒子分散型微粒子、コンデンサー分散型微粒子などの電気粘性流体の技術を開発することができた。これら技術開発を担当できるようになったのは、電気粘性流体の寿命問題を早期に解決したのでエンジン部分の技術も任せて頂けた。ゆえに主担当は高純度SiC技術だったが、周囲からは電気粘性流体の中心人物のように見られていた。
 
高純度SiCのテーマが会社の中でほとんど忘れられたテーマとなっていた時に、住友金属工業とのJVを推進したところ、FDディスクが壊れ始めた。最初の2枚は、事故だと思っていたが、住友金属工業と半導体用治工具開発を共同で進める契約が締結され、順風満帆となったところで、犯人しか触れることのできないFDの内容を当方のFDにべたコピーするという暴挙で、当方の大事なデータがいっぺんに紛失する事件が起きた。上司にFD破壊は事故ではなく、人為的な事件であることを相談した。
 
ちょうど湾岸戦争がはじまったころである。ところが事件の収拾を行い高純度SiCの事業を継続するためには被害者である当方が会社を辞めざるをえない状況になった。留学していた時の人事部長はすでに本社にいらっしゃらなかった。会社は買収したアメリカの会社の立て直しのため、新規事業に注力している余裕など無いときだった。
 
電気粘性流体は、買収した会社とのシナジーを生かせるテーマとして重視されていた。状況を判断し、当方が会社を去る決意をした。すぐに業務引き継ぎのためプロジェクトグループが創られ、事業を開始して30年近くの現在まで高純度SiCの事業は継続している。しかし、電気粘性流体の事業は当方が転職後、技術の進展が無く、つぶれた。
 
セラミックスの専門家として自己実現に努力してきたが、専門を趣味として続ける決心をして高分子技術を事業としている会社を探した。ゴム会社でイノベーションを起こした時に、その仕上げが転職になることなど想像すらしていなかった。
 

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2015.09/10 イノベーション(3)

I総合研究官からチャンスを頂いたので、人事部長との面談後、プリカーサー法による高純度SiCの合成実験に着手した。そして実験を開始して4日目にはI総合研究官が驚かれるような真っ黄色のSiC粉体が得られた。このあたりの詳細は以前の活動報告を読んでいただきたい。
 
当時高純度SiCは2-3回昇華法を繰り返さなければ得られない高価な材料だった。それが1kgあたり500円以下のフェノール樹脂と1000円以下のエチルシリケートから合成されたのである。STAP細胞に近い騒ぎになるところだったが、I総合研究官は冷静に特許をまず書くように指示された。
 
当方は、すぐにゴム会社の人事部長に実験の成功と特許を無機材質研究所で書くことをお話しした。人事部長は研究所にも連絡するように指示された。当方はその後研究所へ同様の連絡をして基本特許を無機材質研究で出願する許可を得た。許可は簡単に下りた。そして、がんばって2件でも3件でも書いてこい、と励まされた。
 
ブリヂストンの状況を総合研究官にお話ししたところ、特許出願後この研究を進めるためのプロジェクト計画を文部省で進めることになった。この計画はゴム会社にも伝わったが、研究所は動かなかった。しかし、本社で動きがあり、一時期頻繁に本社から当方へ電話がかかってきた。また、業界新聞やヘッドハンティングの会社からも自宅に電話がかかるようになり、周囲が騒がしくなった。
 
翌年初めに本社から呼び出しがかかり、社長へのプレゼンテーション資料作成のために一日本社に缶詰状態にされた。現在のような便利なプレゼンソフトが無かったので、手書きと切り貼りで、できあがった時には夜の八時を回っていた。翌日午前中に練習があり、午後社長の前で10分間のプレゼンを行った。プレゼンが終わったところで、社長からいきなり、いくらいる、と聞かれた。
 
当初質問の意味が分からなかった。事業計画における予算についてはプレゼン資料に書いていた。「今いくらいるのだ」と社長はさらに問いを具体的にされた。当方はプレゼンがうまく言ったと思い、Vサインを人事部長に送った。
 
すると社長は2億円か、と言われた。事業計画から2億円は少ないと感じられた人事部長は、もっと上だ、と合図を送ってきたので、Vサインをやめて、あやふやな手の形になったところで、2億4千万円で決めた、と社長がすぐに用意していた決裁書に数字を書き込み当方に渡された。この時高純度SiCの事業がスタートした。
 
 

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2015.09/09 イノベーション(2)

カオス混合技術実現の時に発揮された能力は、ゴム会社におけるイノベーションから得た実践知のおかげである。高純度SiCのJVを住友金属工業(当時)と立ち上げた時に、FDを壊され仕事の妨害をうけるぐらいの社内の抵抗があった(注1)。
 
企業におけるイノベーションの難しさを痛感した事件だが、この収拾に転職以外の解決方法を当時見出せなかったが、今ならもう少し良い方法で解決できた、という反省がある。
 
当方の人生は大きく狂ったが、30年近く続いている高純度SiCの事業もイノベーションの成功事例だと思っている。しかしこのイノベーションは、短期で実現できたわけではない。すでに活動報告で書いたように事業のきっかけは、ゴム会社がCIを導入したときの創立50周年記念全社論文募集だった。
 
1席賞金10万円のそのイベントでは有機無機ハイブリッドの前駆体合成技術でセラミックス市場に参入するイノベーションのシナリオを書いて応募したが、佳作にも入らなかった(注2)。しかし、その後人事部から海外留学の指名を受けた。折しもセラミックスフィーバーの最中でそのメッカが無機材質研究所である、という理由から、海外留学を国内留学に変更していただき、無機材質研究所に留学することができた。
 
無機材質研究所に留学してからが大変だった。留学したその年は昇進試験の年にあたり、その昇進試験を落とされたのだ。落とされたのだ、と書いたのは、あきらかにその証拠(注3)があっての表現だが、原因は海外留学を蹴って無機材質研究所へ留学を決めたことにあったようだ。海外留学の目的には、技術研修よりも語学留学の色彩が高く、毎年留学生が海外へ送られていた。
 
人事部長からは10月1日に残念な結果だったので本社へ一度来てください、と電話で告げられた。本社での人事部長の面接は、最初通り一遍の激励であり、回答を求められた当方は昇進試験に書いた0点の答案内容には自信があり、その結果はまもなく出る、と答えた。
 
昇進試験は筆記試験であり、事前に問題も友人から回覧されていた。その課題は、受験者が新規事業を始めたい内容を説明せよ、という当時の当方には易しいテーマだった。人事部長は高い人格の方で、当方の答えに対して、穏やかにアドバイスをしてくださった。
 
人事部長との面接時に、無機材質研究所のI総合研究官が、一週間自由に研究所の設備を使用して良いこと、その時高純度SiC事業のエンジンとなる高純度SiC粉末の合成実験を行う予定であることも当方はお話しした。
 
人事部長は、結果はすぐに会社へ知らせてください、と当方の話を真摯に受け止めてくださった。同じ話を留学前の所属先である研究所で、上司に話したときには笑い話に受けとられていたので、人事部長の一言は心へ響いた。仮に内容を理解できなくても誠実に語る部下の話に対しては上司は真摯に対応しなければならない。それができない管理職は人材を失うことになる。人事部長は当方に転職しないことを望んでいた。
 
(注1)この事件は当初偶然の事故と思っていたら、犯人がいたのでびっくりした。高純度SiCの事業だけでなく自分のキャリアをリセットして転職の道を選ぶのには躊躇したが、転職後週刊誌や新聞を賑わす大事件が起きている。企業風土の劣化過程の出来事であり、創業者の著書に書かれた風土と大きく異なる状態に変わっていたことを当時肌で感じていた。
(注2)この50周年記念論文について楽しい思い出がある。募集締め切りが明日という段階で同期の友人が、当方の応募した論文を読み、このような技術論文では絶対に佳作にも入らない、と言った。当方は友人にそれでは一席をとる論文とはどのようなものか見本を書いてみよ、と求めたら、友人はおもむろに事務局に電話をかけ、論文の締め切りを延ばしてほしい、と願い出た。事務局は8件しか集まっていないので、再度全社に募集をかけると回答してきだので、友人は応募して見事一席に選ばれた。さてその内容だが、バイオビジネスはじめ荒唐無稽の技術を事業化するという夢はあるが実現の可能性がほとんどないシナリオだった。大変勉強になった出来事である。友人には残念会と称して賞金10万円で落選の労をねぎらっていただいた。
(注3)入社してから4年間の成果として、T社向け樹脂補強防振ゴムの基礎配合設計、寝具用ポリウレタンフォームの難燃化技術開発、M社向けフェノール樹脂天井材用コア材開発など担当したテーマではすべて成果を出しており、直属の上司から研究所では十分すぎる成果と言われていた。また、独身だったのでサービス残業も行い他の人の業務のお手伝いも十分に行っていた。
 

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2015.09/08 イノベーション(1)

社会人になってコミュニケーション能力の重要性を研修で学んでもそれが身について本当に役立った、と実感したのはカオス混合技術を実用化した時である。カオス混合技術については、それが混錬技術のイノベーションになると指導社員から教えられても、ゴム会社で研究する機会は無かった。写真会社に転職後もフィルム技術を担当していたので研究テーマとして提案するチャンスは無かった。
 
定年前の単身赴任先でそのチャンスが突然めぐってきた。すでにこの活動報告で書いたが、複写機の中間転写ベルトの生産プロセス開発のテーマでコンパウンド工場を立ち上げた話である。コンパウンド技術など無縁の写真会社でコンパウンド工場を立ち上げたのだから大きなイノベーションのはずだが、写真会社では大した評価を得ていない。
 
大した評価を得ていない理由は、大した技術ではないから簡単にできる、と周囲を説得したからである。中古機を買ってプロセスを組むので投資も少ない、という話を作り、子会社でコンパウンド工場を立ち上げる承認をえて、8000万円ほどの投資でコンパウンド工場を立ち上げた。
 
コンパウンド事業を担当している人ならば、ちょっとしたコンパウンド工場でも大変な仕事であることは理解されていると思う。工場の試運転で実験室データが再現しないのは日常茶飯事である。それよりもゼネコンに0から工場建設を依頼すれば2-3億円かかる。見積書を取り寄せてソフトウェア―の部分が高いことにびっくりした。
 
また工場を発注してから立ち上がるまで通常は一年以上かかるが、それを0から始めて半年で実現したのである。これは、周囲が高分子技術というものを知らない人ばかりだったから、簡単にイノベーションができたと思っている。ただ押出技術の開発に数年かかっているのに、0からはじめて半年でコンパウンド工場が立ち上がる話を信じるのか、という疑問を持たれるかもしれないが、その部分は当方の技術に対する信頼が大きかったからではないかと思っている。
 
しかし信頼できる一人の技術者がいたとしても、昨日まで技術が無かった会社で突然カオス混合と言う先端技術が生まれるようなイノベーションは、従業員数人の中小企業でない限り難しい。大会社であれば必ずプロジェクトにかかわる他の組織から反対があるからだ。おまけにステージゲート法あるいは類似の研究管理を行っていたなら、ゲートで必ず引っ掛かるのである。
 
このコンパウンド工場の建設では、上司であったセンター長を担ぎ上げ他部門の調整を行うとともに、ゲートは外部のコンパウンダーの技術よりも優れた技術が存在することを押出機で作ったコンパウンド及びそのベルトを示しながら通過した。すなわち、企業内で何かイノベーションを行うためには、社内の組織の調整能力と成功することを共有するための仕掛けが必要である。
 
いくら優れた技術があったとしても、あるいは科学的に優れた研究成果を出せたとしても、大企業ではそれがすぐにイノベーションに結び付かない現実を若い人は理解しなければいけない。直属の上司でさえもイノベーションをつぶす方向に動く場合すらあるのだ。30年間の研究開発経験から企業におけるイノベーションでは上司も含めた社内の調整能力が研究成果よりも重要だという結論に至った。これにより、カオス混合技術の実現では、基盤技術も何もない会社において、いきなり量産工場が立ち上がるようなイノベーションを起こしている。

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2015.09/07 碧志摩メグ

東京オリンピックのロゴの模倣の騒動に隠れてしまったが、碧志摩メグの問題は志摩市にとって深刻な問題となるかもしれない。昨今の萌えキャラブームで注意しなければいけないのは、キャラクターを売り込むためにエロティシズムを持ち込んだ刺激的なデザインに陥る傾向になることだ。
 
周知のように、「萌え」にはエロティシズムと明確な差を持たせた性表現手法が存在する。それゆえ「萌え文化」なる言葉まで生まれているのだ。萌えキャラとエロ漫画のキャラとは一線を画する。
 
地方都市の売り込みのためにエロティシズムを持ち込んだキャラをインターネットでばらまく是非を議論するつもりは無いが、来年その都市でサミットが開催されるとなると少し話が変わってくる。
 
地方都市の問題が日本の問題になるからだ。AV大国日本などというゆゆしき評判が海外であるが、サミット開催都市で公然といかがわしく見えるキャラが販売されていたらどうなるか。
 
リスクマネジメントの観点から、日本政府も真剣に取り組むべき問題かもしれないと懸念している。たかが一キャラクターという問題かどうかは、駅にエロティシズムがあふれたキャラクターがばらまかれ、そこで外国のVIPが買い物をしている風景を想像して欲しい。日本人として少し恥ずかしい。
 
ネットではすでにこのキャラクターの話題で盛り上がっており、賛否両論の議論がなされているが、一番心を痛めているのは、このようなキャラで表現された海女さんではないだろうか。志摩市は海女さんを見捨てたのだろうか?
 
フナッシーやネバールくん、バリーさんなど特異なキャラクターで地方都市を売り込むのがブームであるが、一つ間違えるとそのキャラクターで職業を傷つけることになる。これは模倣よりも抽象的な感性の問題になるので議論がより難しくなるが、セクハラが「指摘されたらアウト」と言われているのに準じ,公的機関の場合には厳しく対応すべきだろう。
 
弊社では「未来技術研究所(www.miragiken.com)」を運営しながら、「萌え」についてのデザインを研究している。もし「萌え文化」でお悩みの地方都市の担当者は是非ご相談ください。
   

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2015.09/06 模倣の勧め

先日使用中止になった東京オリンピックのロゴについて本人が認めないので模倣かどうかは不明だが、問題となったロゴとよく似ている点については誰もがわかる。しかしデザインでも技術でもよく似ているものを作ることは簡単ではなく、それなりのスキルが要求される。スキルが無ければ模倣で優れた複製を作り出すことは難しい。セシリアでは痛んだフレスコ画の複製を独創のタッチで修復したおばあさんが有名になった。
 
東京オリンピックのロゴの作者とセシリアのフラスコ画の作者と描いている絵のカテゴリーが異なることや、作業として前者は似ていないことが、後者は似ていることがゴールとして要求されたことなどから同じまな板の上で議論してはおかしいかもしれない。しかし、皮肉なことに前者は模倣と疑われ、後者は似ていなかったことが話題になって、両者は異なる問題にもかかわらず、「模倣」という同じまな板の上に載っているように見える。
 
そこで、ロゴとフレスコ画の問題を料理すると、スキルとは何かと言う疑問が出てくる。おばあさんは自称画家だそうだが、模倣という視点で見ると東京オリンピックのロゴの作者とのスキル差は大きいとみてよいだろう。残念ながらおばあさんの絵ではトレースがうまくいっていないが、ロゴではそれが完璧にできているように見える。
 
おばあさんは絵を書きあげた時のインタビューで、似せて書こうとしたが、あのようになってしまった、本当はもっと上手にかけたのよ、と嘆いていた。しかしどこを見て書いたら猿のようなキリストの顔になるのか理解できないばかりか、顔の大きささえも一致していないので画家としての模倣スキルは低いと言わざるを得ない。
 
ただ、模倣スキルが低かったおかげで世界的に有名になり、その町に観光客が押し寄せるようになって、おばあさんは町の人に感謝されることになった。おかしな顔のキリストの絵をシンボルにしたワインなども作られ、模写として失格という当初の問題は吹き飛んでしまった。
 
模倣しようとしたが、そのスキルが低いために似せるための試行錯誤が繰り返され、その結果模倣が創造になる、というのは、模倣から創造を生み出す一手法のプロセスである。
 
例えば、フェノール樹脂とエチルシリケートのリアクティブブレンドについては、ゴム会社のホームページに書かれているような高純度セラミックスを有機物前駆体から製造する、試行錯誤から生まれた独創技術である。ポリウレタンRIMの模倣技術だが、似ても似つかぬプロセスと材料が生み出された。
 
なぜ、セラミックス会社の技術をうまく真似るように粉体プロセスの基礎研究を行わなかったのか。それは1983年に無機材質研究所へ留学し、偶然のめぐりあわせからプリカーサー法を1週間もかからない短期間で完成でき、その半年後にゴム会社で先行投資が決まり、いきなりパイロットプラントが立ち上がったためである。「まずモノを持ってこい」精神の賜物だが、パイロットプラントができあがった時にその名言を言われた役員は「いきなりでかい装置をいれたのか」と驚いていた。
 

科学の無い時代の技術の発展がどのようであったかは、「マッハ力学史」にあるようにそれをたどることは難しいが、お金儲けを目的に技術を盗んでやってみたら、スキルがなかったために独創的なよい技術が生まれた、ということもあったかもしれない。
 
偶然も大切で、高純度SiCのSiC化の条件探索作業では、無機材質研究所で新品の電気炉が暴走してマニュアル運転したためにベストな製造条件が一発(実験を開始して3日めのこと)で見つかっている。その時は、コントローラーの操作方法を知らなかったので、非常ボタンとスイッチ操作を繰り返すしかなく、フレスコ画のごとくプログラムパターンとは似ても似つかぬ温度パターンになってしまった。本当は文献に書かれていたように1600℃30分保持を行いたかったがそれとは似ても似つかぬ条件が最良条件として得られた。
 

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