昨日のWEBニュースに表題の問題が扱われていたが、驚いたのは「18歳未満の飲酒は法律違反である」という視点がどこも抜けていて、全国高校サッカー選手権出場の是非の議論に終始していた。
これほどおかしな問題はないのである。教育だろうが何だろうが、社会はまず法律判断について結論を出さねばならない。これが社会の認識として共通なはずだが、この議論が欠落していた。
当然法律違反を生徒が犯していたのだから、親か教育者にも法的な責任が議論されなければいけない。そのうえで出場の是非の議論だろう。
正しい問題を正しく解いていないから、法律違反を犯した選手について、出場できる人とできない人が出てきた。正しい問題を設定せず、また間違った問題を解き、出てきた答えについて議論しているのだからどうしようもない。
高校教師の教育者としてのレベルの問題も出てきた。すなわち山辺高校の校長も含めた先生方は社会人としての能力も標準以下である。すなわち法律について理解していないから標準以下でなく×をつけてもいいくらいだ。
ニュースを読むと山辺高校の怪しい先生も出てくるので、ますます問題が複雑になってくる。それに対して教育委員会も指導できないのだから、この問題は、単なる飲酒問題だけでなく、奈良県の教育委員会も含めた教育界全体の問題も議論されなくてはいけないのだろう。
校長が正しい問題を設定できず、間違った問題を正しく解かないと、問題は大きくなるばかりだ。問題が大きくなりすぎると誰も正しい問題が見えなくなり、「たかが飲酒の問題だろう」というとこに落ち着いたのが今回のニュースの扱いだろう。新聞記者も社会における法律のことを忘れている。
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20年以上前のライバル会社の特許はインチキ特許と断罪することは可能だが、特許が技術の権利書である、ということに気がつくと、このようなインチキと思えるような論法でも、貴重なアイデア情報と捉えることができる。
特許はすべてペテントと言っていた先生がいるが、これは了見が狭い。一見インチキに思われる特許でも、そこには特許を書いた人のアイデアの思想が込められている。
あるいは、特許を書いた技術者の力量が現れている。例えばライバル会社の特許からは、パーコレーションという現象を軽視しているか、知らない技術者の顔が見えてくる。
あるいは、当方の指導社員のようにずば抜けた能力の技術者だったかもしれない。パーコレーションというばらつきの現象を使い、科学的視点からは比較例とはならないようなサンプルを技術で安定なダメサンプルとして作り出し比較例とする手法は、当方も使用する。
繰り返すが、特許は技術の権利書であり、書かれた内容を実現できるならば成立する。特に実施例については、必ず実現する内容が書かれている。そうでなければ特許として成立できないのだ。
ペテントと呼ばれるインチキ特許のような怪しい特許には、隠されたアイデア或いは現象が眠っているケースが多い。科学的におかしくともその特許を書いた人の思想を想像すると新たなアイデアが出てくる。
例えば、特公昭35-6616実施例は、ライバル特許の比較例に書かれていたように、何も考えず実験を行うと導電性が出ない確率が高い。しかし、35年の特許に書かれてないパーコレーション転移の制御因子を用いると導電性が安定して実現される薄膜となる。
最も1990年前後の日本化学会の年会では、パーコレーション転移など議論されず、すべて混合則で議論されていた状況なので、ライバル特許を書いた技術者はパーコレーションを知らなかった可能性が高い。
ところで、導電性微粒子を絶縁体に分散した時に現れるパーコレーションという現象はいつ頃から知られていたのかというと、当方が生まれた1950年代に数学者の間で議論されていた古い現象だ。
当方がゴム会社に入社した時に、指導社員はこのことを教えてくれた。すなわち、クラスター生成理論があっても材料屋は混合則ですべてを説明しようとしている、と嘆いていた。
ローカルで知っている人は知っていてもそれが難解であると理解されず普及しないのが知の宿命である。感染症の問題でクラスターに注目が集まっているが、パーコレーションと聞いてコーヒーのパーコレーターを思いつく人は偉い。語源を知っている!
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高純度酸化スズ単結晶について、1980年代に精密な研究が無機材質研究所で行われている。ゆえに「高純度酸化スズ単結晶が絶縁体である」というのは、形式知である。
ところがInあるいはSbを酸化スズにドープして半導体から導電体領域の透明導電体材料を開発する研究は60年ほど前から行われており、ITOとかATO透明導電膜が開発された。
高純度酸化スズが導電体であるのか絶縁体であるのか、形式知として確定しなくても、酸化物半導体の物性と結晶構造の経験知から、透明導電膜材料としての研究がスタートしていることに注意する必要がある。
そして、この材料の研究がスタートした時代に、小西六工業の技術者は、非晶質酸化スズゾルに導電性があることを発見し、特許を書いている。
高純度酸化スズが絶縁体かどうか不明の時代に、というよりも電気物性が不明であったがゆえに、このような発見ができたのかもしれない。
それから30年以上経過して後輩の技術者が、こんどはそれを否定する研究報告書を書いていた。企業経営における技術の伝承の問題がここには潜むが、ここではアイデアを出す方法論の事例として紹介する。
この研究報告書では、科学的に完璧な否定証明がなされていた。形式知から非晶質酸化スズゾルは絶縁体と予想されるので、特公昭35-6616という特許を知らなければ、非晶質酸化スズゾルを用いて透明帯電防止薄膜を開発しようというアイデアどころか動機さえ生まれない。
ゆえに否定証明を展開した技術者は、当たり前のアイデアで実験を遂行し、電気粘性流体の研究者たちと同じように、科学的に完璧な報告書を書いた(注)。
ところが、このような報告書があっても当方はライバル会社の特許を整理していて、20年以上前のライバル会社の特許に特公昭35-6616が比較例として引用されていることを幸運(努力の賜物の幸運である)にも発見した。もちろんそこには小西六工業の特許などとは書いてない。
注意深くライバル特許の比較例を検証したところ、大きくデータはばらついたが、比較例よりも優れたデータを実験で出すことに成功した(当方は、混合則が形式知として用いられていた時代にパーコレーションという不易流行の現象を体得していた)。
実施例と比較しても遜色のないデータである。ただ、ライバル特許は、非晶質酸化スズには導電性が無いために結晶性酸化スズを用いるという発明なので、当方の出した実験結果を実施例としたら特許の内容そのものがおかしくなる。
ところで、データが大きくばらついたのはパーコレーション転移が原因である。この「ばらつき現象」ゆえにこの比較例や転職した会社の否定証明が生まれている。温故知新や不易流行を理解しておれば、このようなアイデア展開をしないはずである。
(注)電気粘性流体の耐久性問題では、増粘を防止できる界面活性剤は存在しない、という仮説について、あらゆるHLBの界面活性剤でも増粘を防止できないことを実験結果を用いて証明している。ところが同じHLB値でも界面活性効果の異なる界面活性剤を当方が発見したことにより、この完璧な否定証明は崩れた。
酸化スズゾルを用いた透明帯電防止薄膜では、パーコレーション転移が起きない条件で実験したために、抵抗の低い薄膜を製造できず、酸化スズゾルを絶縁体として結論つけている。その後当方はインピーダンスを用いたパーコレーション転移の評価技術を開発し、パーコレーション転移を18vol%という低添加率で安定に生じる技術を用いてフィルムの帯電防止薄膜として製品化している。
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「働く」とは「貢献」と「自己実現」である。このように定義したのは、小生の記憶が正しければ、ドラッカーである。ドラッカーの書で初めて「働く」意味を知った。
昨日の文春オンラインに霞が関の働き方改革について山口真由氏が自己の「クリスマス事件」を引き合いに書いている。これは、当方のFD事件の体験に較べれば、幸福な体験談である。
しかし、この文章を読み、ただ年寄りの繰り言を述べていても仕方がないことに気がついた。これは早期退職を決意した時、あるいはそれ以前から悶々としていたことだが。
亡父は、自己の職業に満足していたし、その後の死ぬまでの人生に不満を述べたこともない。それが本音であったことは、死後の荷物整理でわかったことだが、幸福とはこのことだろうと、感じた。
亡父の人生は、当方の人生に較べて裕福だったわけでもなく、学歴も無く社会を生きてきた。高校時代に東大国語入試過去問題で亡父に圧倒的な差をつけられて学歴を超えた知性の存在を知り、日記からその深さを学んだ。
死後読まれるかもしれない日記を意識したかもしれないが、それを割り引いても考え方や価値観にはドラッカーの影響があった。ドラッカーよりも亡父の方が年上ではあったが。
職業選択の自由が保障された日本では、自分で誇れる職業を選びたい。それが難しい時代であるゆえに次の世代が誇れる仕事なり職場を生み出してゆくのは、今の世代に課せられた「つまらない」仕事かもしれない。
「つまらない」仕事かもしれないから、形式的に片づけていい、というものではない。仕事や職業の価値が時間単価で決まる、という価値観をどのように越えるのか、という難しい命題が存在する。
今の時代、社会システムは一応賃金0でも命をつないで生きてゆけるまで達した。それだからこそ「22時完全閉庁」のような形式的な改革は無意味であるし、むしろ問題を複雑化する可能性すらある。
今本当に求められているのは精神的改革という、どのように取り組んだらよいのか皆で知性を高め知恵を出し合わなければできない改革である。
ただ、このように書くと、「具体的な方策はなんだ!」というステレオタイプ的反論が来る。ゆえに先の山口氏は「クリスマス事件」と書いたのであろう。
今求められている働き方改革は、ある職場の時間制限をして解決がつく問題ではないだろうと30年のサラリーマン生活から感覚的に思っている。
戦後レジームからの脱却などというつもりはないが、それこそ日本全体が憲法の見直しから始めて日本人の精神構造を見つめなおす作業が必要なのかもしれない。
どのような職業でも職場でも活き活きと夢を持って働ける社会を作りたいものである。労働は人生の一部であり、しかも長い人生の一番良い期間にそれが位置している。定年を過ぎても働く活力はここから生まれている。
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形式知と経験知を整理しておくことは、大切なことである。少なくとも形式知だけでも現象を前にしたときにいつでも取り出せるようにしておきたい。
形式知だけでも整理されていると当たり前のアイデアを出すことが可能である。この当たり前のアイデアを基準にして、誰も気がついたことのないアイデアを出す方法と、過去に誰かが思いついたかもしれないアイデアを出す方法に分かれる。
前者は後者より難しいかもしれないが、芭蕉の不易流行を理解しているとコツをつかみやすい。しかし、後者の方が誰でも実践できるので、アイデアの出し方について後者から説明する。
不易流行と同じく温故知新は、芭蕉の俳句の世界を理解するために重要な「型」である。そして、この不易流行や温故知新の型は俳句以外に応用可能で、特に温故知新は容易に体得しやすい。
具体的な実践方法として20年以上前の特許を参考にする方法がある。20年以上前の特許に現代の科学の進歩を組み込むと新たな発明が生まれる。
酸化第二スズゾルを用いた帯電防止層の発明は、まさに温故知新で生み出されたアイデアの典型例である。この発明の基になった特許は、特公昭35-6616である。
当方が7歳の時の発明を30年以上経過して味わった感慨は、文章で表現できないものである。しかもその発明は、転職したばかりの会社の先人が出願していたのだが、転職先の部署では、この発明の存在に気ずかず否定証明し、酸化第二スズゾルは帯電防止技術に使えない、としていた。
すなわち、写真会社へ転職した時に新しい帯電防止層の技術がこの業界で研究対象になっていた。
そして、アンチモンドープされた酸化スズ(ATO)を用いた帯電防止層の研究開発競争が行われていたのだが、ライバル会社の特許網を抜けるのは容易ではなかった。
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あるテーマに関して研究開発を完了したならば、形式知を整理する習慣を身につけたい。これは、科学を道具として活用するために重要な習慣である。道具箱が整理されていない場合には、大切な現象を前にしても科学という切れ味の鋭い道具を使えず、見過ごしてしまう場合がある。
高純度SiCの合成実験に初めて成功した時に、頭の中には、フェノール樹脂に関する形式知が、整理されていた。
フェノール樹脂には、レゾール型の樹脂とノボラック型の樹脂があり、それぞれ合成ルートと用いる触媒が異なること、そしてそれにより合成されたフェノール樹脂の高次構造に違いが出る事などが整理されていた。
この形式知には公開されている形式知と、当方が実験して初めて見出した形式知も存在していた。後者はゴム会社のノウハウとなっている。
一方、フェノール樹脂を炭化させると難黒鉛化カーボンが製造されることは、古くから知られていた形式知である。また、フェノール樹脂を炭化させたときにその抵抗が変化する現象は、金原現象が知られたときの形式知である。
これらの形式知とフェノール樹脂とポリエチルシリケートとの反応に関する経験知から、電気粘性流体用の傾斜構造の粒子は合成された。当方にとってこのアイデアを導き出すことは朝飯前のことだった。
フェノール樹脂に関する形式知は、どのような現象を前にしてもいつも取り出せる状態にあった。また切れ味もその筋の専門家より良かった。
有機物の炭化に関わる形式知もフェノール樹脂天井材の開発を通じ、経験知と組み合わせられて整理され豊富だった。無機材質研究所へ留学するや否やそこの図書室にある豊富な文献から、形式知と経験知を分離し整理することができた。
科学という道具の切れ味を上げるためには、形式知と経験知の分離は不可欠である。なぜなら、経験知に基づく仮説による実験で真とならない場合に悩むことになるからである。ここで悩まない人はそれなりに問題があるが。
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他の例である。中間転写ベルトの試作では、6ナイロンとカーボンが添加されたPPSを押出成形していた。
試作現場では金属音が鳴り響いていた。これはPPSの結晶化速度が早いためであり、押し出された成形体である無端ベルトがたわむときに音が出ていた。
すなわち、試作現場における金属音という現象は、結晶化したPPSの発する音だと形式知から想像がつく。これが真実かどうかは、熱分析するなり、X線散乱実験を行えば判定可能である。
試作が終わったとたんに金属音から低周波音に変化した現象は、当方以外誰もが聴いていた音である。ここでカオス混合のアイデアが生まれるかどうかは、形式知と経験知、暗黙知の量で決まる。
少なくとも高分子の形式知のある人ならば、この現象を不思議に感じるはずだ。しかし、当方が初めて聴いたこの音から誰もカオス混合のアイデアだけでなく不思議な現象という見解が出されていなかった。
Aさんに話したら、「当たり前やないか、早く押し出しているときは、いつもあんな音になる」と経験知だけで答えていた。この人は高分子に関する形式知が0の人だとすぐに判断できた。
高分子材料を扱っている技術者にはAさんのように経験知だけで考察をされる方がいる。確かに高分子材料に関する形式知には怪しい理論もあるが、とりあえずは形式知として整理して身に着けておくべきである。
当方は、身に着けていた形式知とゴム会社に入社した年に出会った混練の神様と呼んでも良いような指導社員から指導された経験知と「カオス混合」という幻の暗黙知について伝授されていたので、この音の変化からカオス混合技術を生み出すことができた。
ゴム会社に入社し、指導社員に出会ってカオス混合を設計する宿題を頂いてから30年近く経っていた。
高純度SiCの開発を推進していた時には忘れていた宿題であったが、フィルム開発を担当してコロイドの攪拌の難しさに気がついて思い出した。
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昨日の「チコちゃんに叱られる」(本日朝8:15より再放送あり)において、「お好み焼きの鰹節はなぜ踊るのか」という命題に果敢に挑戦した小学生を紹介していた。そしてその小学生が成人し、挑戦した成果について完璧な締めくくりをする様子まで放映された。
ご覧になられた方は、この映像を通じて科学という道具をよく理解できたのではないか。また、この映像は貴重なアイデアを提供していたことに気づかれた方はどれだけいるのだろうか。
昨日の映像から得られたアイデアをすぐに実験で検証したところ、特許を書けるような発明が生まれた。
実は1か月以上前に別件の現象から特許出願を済ませているのだが、ここで申し上げたいのは、アイデアの中身ではなく、アイデアが出る人と出ない人との差異が生じる問題である。
これは頭の良し悪しでは解決できない問題であり、それゆえ弊社のコンサルティングでは重視している。頭の良し悪しではなく、ほんのちょっとしたコツによる気づきである。
12年間ゴム会社で見てきた頭の良い人の成果を出せない科学重視の仕事のやり方は参考になったし、ドラッカーも「頭の良い人が必ずしも成果を出せるわけではない」とか「困ったことに頭の良い人は間違った問題を正しく解いて成果を出せない」とか述べている。
ドラッカーは、正しい問題を選べない頭の良い人を嘆いていたのだが、そもそも異なった問題を選んでしまうのは、認識の差異から出てくる、と解説している。
以前説明したように、認識の違いは、組織の立場とか、経験知や暗黙知に影響を受ける。立場から生じる正しい問題を選べない問題については、「議論では異なる見解に耳を傾けよ」とドラッカーは警鐘を鳴らしている。
さて、昨日の鰹節が躍る現象に戻るが、これが完璧に科学的に解明できたからと言ってお好み焼きがおいしく焼ける様な成果が出たわけではない。
しかし、科学で現象を解明してゆく過程で必ず多くの観察を真理に向けて、すなわち科学という認識を持って現象を眺める。この瞬間がアイデアの出る瞬間であり、科学における実験の重要性なのだ。
この時、科学だけの認識しか持たなければ真理以外出てこないが、科学以外の考え「型」(技術の方法も科学同様の一つの型である)でも眺めていると新たなアイデアが浮かんでくるはずである。
例えば、昨日の鰹節の踊る様子を艶めかしいポールダンサーに見えた人もいたかもしれない。これも科学とは異なる一つのアイデアである。
ポールダンサーでは特許を書けないが、何をイメージするのかはその人の持っている経験知と暗黙知に影響を受ける。(これは「あるコツ」が必要で、それを弊社は指導している。人間は、生きてきた年数だけの経験知を持っているはずだ。亀の甲より年の功とはそのような意味だ。しかし、年の功にもコツがある。これは年を取るにつれそのような思いが強くなってくる、年を取らないと見えてこないものかもしれない。当方は、頭は良いが成果を出せない人を反面教師にしてこのコツに気がついた)
実は科学による思考の型では、真理を導くために、現象の中から雑念をそぎ落とすようなプロセスを踏む。その結果、現象の中に隠れていた機能を偶然見つけるチャンスが増えることになる。
ところが科学者は研究過程でこのような機能を見落とす人が多く、研究発表後、「ところでその真理が何に役立つのか」と質問を受けて右往左往する。
真理が役に立つかどうか考えるよりも、その真理を導く過程で遭遇した現象の数々から人間の営みに役立つ機能を探りだした方が容易である。
また、科学の研究の重要性はここにあり、昔の人はそれゆえ「千三つの研究」などと言っていた。これは1000個研究を行い、三つ当たれば大当たりという意味である。弊社のコンサルティングでは、大当たりが含まれる三つの研究を一つの研究で見出せることを目標に指導している。これは若いコンサルタントには無理である。
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当方の名前の「地」を「知」と書いてくださる方が多い。お気持ちはありがたいが、地べたをはい回っている「地」です、とそのたびに訂正している。
著者の名前を忘れたが、教養部の哲学の授業で「知の歴史」を読んだ。授業ではこの本の解説ではなく、講師の知に関する講義だったが、知を形式知と経験知、暗黙知に分類することは一般常識らしい。
形式知は、今の時代であれば科学の成果の知となる。今や人文科学という言葉が示すように技術以外の分野についても科学という哲学の道具を用いることが国際標準である。
学校教育でも科学について徹底して教えられているはずだが、STAP細胞の騒動では、日本の学校教育のほころびが垣間見えた。
早稲田大学で学位を授与された研究者が所長から未熟者と言われ、大学は学位の再提出を求めてその結果学位を剥奪している。残酷な出来事だと思った。学位を授与した知の砦であるはずの大学の責任についておとがめなしである。
誰でもお金を持ってくれば学位を授与するような大学、と思いたくないが、STAP細胞の騒動や当方が国立大学で経験(注)した出来事を重ね合わせるとそのように見えてしまうのが悲しい。
大学でさえこのようなありさまだから、今一度学校教育における科学教育の在り方を見直した方が良い、と思っていたら、プログラミング教育を小学校から導入するという。
これは極めて危険な行為である。すなわちプログラミング教育とは経験知や暗黙知の働かせ方を教える教育だからである。少なくともプログラミングという技術では、経験知や暗黙知が働かなければ当たり前のプログラムしか書けない。
当たり前のプログラムでは、新規分野で特許に抵触する可能性が高い。なぜならそのような形式知で予測可能なアルゴリズムに関する特許が多数出願されている。
弊社も画像処理について面白い当たり前のアルゴリズムの特許を出願し、特許権を授与された。形式知に基づく当たり前のアルゴリズムでも新規性があれば、進歩性も自然に出てくるのがコンピュータ分野の特徴である。
ゆえに、当たり前の特許が成立することになる。余談だが、プログラミング以外でもデバイスが新しければそのデバイスの応用分野について当たり前の特許出願が可能である。最近自動車分野で当たり前の特許を見つけた。
さて、学生時代に当たり前のプログラムを書いたところ動作しなかった。その時FORTRUNコンパイラーにバグがある可能性が高い、という判断が出された。
この時の授業中には動作するプログラムに直すことができなかったが、同じプログラムをMZ80KのHu-BASICで組みなおしたら動作した。
FORTRUNとBASICとはよく似た言語体系なので移植は簡単であり、移植に際してロジックの変更も必要なかった。
このことからも学生時代に使用したコンパイラーにバグがあった可能性が高いが、経験のあるプログラマーならばここでトリッキーなプログラムに直して言語処理系に潜むバグを回避する対策を取る。
Cでは、ライブラリーにバグが潜んでいるときなど、このような方法でとりあえずバグを回避してプログラムを仕上げてゆく。ここでは、形式知ではなく経験知や暗黙知を働かせることになる。
もし、プログラミング教育を科学に基づき当たり前のプログラムだけを書けるように指導していたならプログラミング教育導入の意味がないばかりかGAFAに対抗しうる次世代の人材など教育できない。
(注)当方は某国立大学で学位取得予定だった。だからその大学の先生にゴム会社で5年前実施されてその大学とは全く無関係の当方の研究について勝手に論文を出されても我慢していた。しかし、写真会社へ転職した時に写真会社からも奨学寄付金を支払ってくださいと言われたので、丁重に学位を辞退している。その後紆余曲折あり、論文数(当時すでに国内含め15報程度書いていた)や実績から中部大学で学位審査料を支払い所定の試験を受け学位を取得している。学位に纏わる金銭のうわさをたまに聞くが、このような出来事などが日本の博士の学位の評判を悪くしている可能性がある。昔は「末は博士か大臣か」と言われた時代がある。当方の親もそのような期待を当方にしていたので学位は一つの目標になった。学問の努力だけで大臣は難しいが、博士は学問の努力を続ければその結果として取得可能だと思っている。中部大学の学位は、授与式まで神聖な手続きで行われ学位を授与された。学位論文の指導から授与式まで中部大学にアカデミアの良心を感じるプロセスだった。
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昨日観察眼の重要性と、それを養うのに長い年月がかかるようなことを書いたが、短期間で観察眼を養う方法がある。また,それは科学を道具として使う方法でもある(科学の時代とか科学的に考えろとか科学の重要性が叫ばれるが、科学が本当にありがたいと感じるのは、当たり前でもよいから何かアイデアが欲しい時である。形式知を積み重ねても当たり前のアイデアも出ないような状態は、科学が悪いのではない。自然とはそのくらい厳しいものだ、と悟ることである。それを悟れば、科学に精通した誰もできない状況とあきらめることができる。諦めることができれば、気が楽になる。科学で無理ならば、技術開発しよう、というファイトが湧き出てくる。)。
何か実験を行えば、それが仮説に基づく実験だろうが、思いつきの実験だろうが、何らかの現象が起きる。その現象を観察した時に、形式知の量の差で認識の違いが生まれる。
目の前の現象に対して形式知が0の人ならば、それは実験者の単なる遊びにしか見えない。しかし、形式知があれば、目の前の現象を観察した結果の考察が可能である。
現象を前にしたときに何も考察のできない人は、その現象に関する形式知が無いと判断すべきである。もし、それが要職にあるスタッフならば減給処分にした方が良い。
何らかの考察はできるがアイデアを出せない人にはコーチングにより目の前の現象から何らかの機能を取り出すことが可能である。ここで行うコーチングには形式知を中心に用いる。
これを経験知で行うと、認識の違いを生み出す。すなわち、経験の違いで目の前の現象に対する感度が異なってくるのは、現象に関して経験知の差異があるためである。
もし形式知を用いて認識の違いが生じた場合には、目の前の現象に関する周辺の形式知を今一度整理しておく必要がある。
数学で習ったように、科学の形式知とは必要十分条件となっている。すなわち一つの真理の体系が形式知であるので、形式知で論理的に議論している限り、すなわち科学している限り認識の違いは生じない(ここが科学という哲学の優れたと特徴)。
とにかく目の前の現象を理解するために必要な形式知を正しく身につけておれば、認識の違いを生まない何らかの考察が可能であり、その考察の過程でアイデアが生まれる可能性がある。
ここで可能性がある、と書いたのは、アイデアが生まれない場合もあるからだ。目の前の現象に関する豊富な経験知と暗黙知が存在する人は、ちょっとした現象の変化からアイデアを生み出せる可能性が高い。
ところが経験知も暗黙知も無く、形式知こそ命と思っている人は、この時当たり前のアイデアを考え出すことになる。あるいは当たり前の解説を行い、それに納得して新しい発見を見落とす。
同じ実験結果を見て、形式知に基づく当たり前のアイデアしか出せない人と新たな機能を自然界から発見できる人との差異は、経験知や暗黙知の差異と思われる。哲学書の知に関する解説に従うと、当たり前のアイデアしか出せない人についてこのような説明となる。
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