ドラッカーの「傍観者の時代」には、彼の技術に対する考え方が出てくる。基本的な彼の考え方は、「テクノロジーこそ、哲学、文化、美学、人間学と結合されるべき」、すなわち技術を技術者だけにまかせていてはいけない、ぐらいの考え方である。
技術が人間の営みである以上彼の考え方は正しいと思うし、技術はそのように発展してきた時代もあった。それが科学の時代に科学と技術が結びつき、悪いことに科学主導で技術が進歩したために、環境問題を引き起こした。
人類は技術進歩による環境破壊を問題視し、その解決策の一つとしてISO14001をまとめている。環境破壊は大きな問題だが、それをとりあげた「科学技術は人類を救うか」というTVドキュメントがかつてあったが、このタイトルのセンスは悪いと感じた。
科学は哲学の一つであって、科学=技術ではない。技術者が科学を重視しすぎたために自らが開発した技術の環境への影響評価を忘れたのだ。そもそも技術は人間の生活感と結びつかなければいけない。人間が自らを幸福にするために技術を真剣に考えるならば、技術の将来は、人間の幸せを約束するだろう。
このような技術の未来について語るときに、科学との関係認識が重要であるように、日常の問題解決においても科学の活用方法を正しくすることも大切である。すなわち取り扱おうとする問題が、科学ですべてが解明された分野に属しており、結果が明らかなときにだけ、科学の成果を活用すると技術開発の効率をあげることができる。
しかし、完全に科学的に解明されていない現象の機能を技術として採用するときに、科学に縛られると問題解決を難しくする場合がある。悩ましいのは教科書に書かれている科学の成果にも、その現象の真理がすべて解明されていない場合があるのだ。技術開発において科学的方法以外にヒューマンプロセスによる方法があることを覚えておくと鬼に金棒である。ご興味のある方はお問い合わせください。
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ペンタックスから新しいデジタル一眼レフカメラが発売された。K-3Ⅱと名付けられたそのカメラには、面白い技術が使われている。リアル・レゾリューションシステムと呼ばれている技術がそれで、ベイヤ配列のイメージセンサーで泣き所と言われたモアレの発生を0にして画像を高精細化する技術である。
原理的にモアレの発生が無いイメージセンサーとしてカメラメーカーシグマが採用しているFOVEONが知られている。これは、RGBの各色のセンサーを縦に層状に形成した構造で、イメージセンサーの一つのセルでRGB各色の情報を得ることができる。ベイヤ配列の欠点を克服するために科学的に考え出された技術であることは容易に想像できる。
しかし、ペンタクスのシステムは、その方式から根性で考え出されたような技術に見えてしまう。ペンタクスの一眼レフは、K-7と名付けられた機種からイメージセンサーを磁気浮上状態で振動させる手ぶれ補正機構を採用している。K-7、K-5、K-5Ⅱ、K-3と手ぶれ補正の効果を順次改良してきた。
このメカニズムを使用して画像の水平を補正する機能までつけたりして、磁気浮上センサーを活用する方法について、とことん考えている。少なくとも製品を通してみえる技術者の頭の中には、イメージセンサーを磁気浮上で制御することだけが常にあったように想像される。
そしてセンサーを制御してベイヤ配列の各RGBの素子へ光を導くシステムを発想したのだと思う。FOVEONについては科学的な雰囲気が漂っているが、リアル・レゾリューションシステムには技術者の根性のようなモノが見え隠れするのは当方だけだろうか?
当方のカオス混合技術も科学ではなく根性のたまものだが、PPSと6ナイロンを相容させるなど科学では説明できない現象を引き起こし、ナノオーダーの混練まで可能にするびっくりするような技術ができた。但しど根性ではなく、由緒正しい再現性のあるヒューマンプロセスの根性で考案された。ちなみに高純度SiCの前駆体合成技術も、ゾルをミセルにしたラテックス重合技術、PENの巻き癖解消技術などの成功体験も同様である。
もちろん酸化スズゾルを用いた帯電防止技術や、防振ゴム、ホスファゼン変性ポリウレタンフォーム、フェノールフォーム天井材、ポリマーアロイ下引き、再生PETを用いた射出成形体など科学的に出した成果も存在する。科学的プロセスとヒューマンプロセスをうまく使うことが大切である。
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「道具としてのテクノロジーと、文化としてのテクノロジーが一つのものになるのが、実に「仕事」においてである。」とドラッカーは、「傍観者の時代」(1979)で述べている。すなわちテクノロジーをものの行い方やつくり方としてとらえ、かつ人と社会に関わるものとしてとらえている。
科学では論理の厳密性が要求され、真理をねじ曲げ新たに捏造することは許されない。しかし、テクノロジーでは人類に貢献できるように臨機応変、柔軟に変更することは許されるのだ。21世紀はじめに「コト」の時代であることが叫ばれた。すなわち新しい「モノ」ではなく「コト」を考えろ、といわれた。
しかし、せっかく新しい「コト」が提案されても、従来通りの科学に隷属した技術開発を行っていては、新技術は生まれない。科学におけるものの行い方では、論理で制御された行い方しか許されない。その結果、科学的に証明される当たり前の技術だけが生み出される。
科学で未解明の機能は、たとえそれが有用な機能であっても使うことが禁じられる。これでは技術の進化は科学を追い越すことができないだけでなく、科学の進歩が止まったとたんに技術の進歩も停滞する。
「マッハ力学史」によれば、技術は人類とともに生まれ進歩してきたが、科学はニュートン以降に生まれ進歩している。確かに技術は科学のおかげで20世紀に急速な進歩を遂げたが、あくまで科学が便利な道具として使われ、それが急速に進歩したからである。その道具の進歩が遅くなったなら、科学以外の方法も活用し、人類は技術を進化させなければいけない。
人類がこれまで価値を生み出してきたのは技術の進化のおかげで、その進化を止めれば新たな価値を創造できなくなる。「コト」で価値が創造されたなら、その「コト」を実現するために新たな技術開発も必要だ。非科学的方法論が重要な時代になってきた。
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2005年の夏は、家族とのしばらくの別れという寂しい思い出の季節となるはずだった。押出成形で高級機用中間転写ベルトを開発する「仕事」を成功させるために豊川へ退職までの5年間単身赴任することになったからだ。ところが外部のコンパウンドメーカーが当方のアイデアを採用してくれなかったばっかりに、自分でコンパウンド製造ラインを半年以内に立ち上げねばならなくなった。その結果、毎週東京へ自費で帰るような生活となった。
単身赴任した亭主が毎週のように帰ってくる妻の気持ちはどのようだったか知らないが、子供たちの喜んでくれた顔がうれしかった。しかし何よりも難儀な仕事を格安で引き受けてくれた根津の中堅企業の心意気がうれしかった。設備を発注するまでは、目の前に失敗の二文字が頻繁に現れていた。
この仕事は、研究開発も満足にやっていないカオス混合プロセスの実用化という技術開発であり、これが成功する科学的根拠は無かった。むしろχが正となる二種の高分子をコンパチビライザーを使用せず相容させようとするフローリーハギンズの理論に挑戦した非科学的な技術のため科学的に考えると失敗確率がきわめて高かった。
しかし科学の論理よりも30年近くの技術経験に裏付けられた機能設計の可能性に賭けた。さらに成功すれば高分子技術、とりわけ混練技術に大きなイノベーションを引き起こすことも魅力的であった。この仕事で実現されるのは、現代の科学で否定される現象だが、ポリスチレンとポリオレフィンをコンパチビライザーを用いず相容させる技術について、ポリスチレンの分子設計という30年以上前の卒論で鍛えた合成技術で成功した自信が、リスクへの心配よりも十分に大きかった。
「テクノロジーとは、人が人に特有な活動としての「仕事」を行うための、目的意識に基づく人工の非有機的進化に関わるものである。」とドラッカーは、「傍観者の時代」(1979)で述べている。この言葉の後には、「しかも人の行い方、つくり方、働き方は、人の生き方、人と人との関わり方、自らの見方、そして詰まるところは、人が何であり誰であるかに対してさえ重大なインパクトを与えるものである。そして何よりも、「仕事」とは、人の生活と人生において特別の絆を意味するものである」と続いている。
当方は技術者として、仕事の成功に対して不安は無かった。しかし、「たった半年という短期間でコンパウンド工場を子会社で立ち上げる常識はずれな仕事」としてこれをとらえたときに、それを後押ししてくださった元カメラメーカーの上司(注)の意志決定には頭が下がった。この仕事だけはどんなことがあっても成功させる、という「強い気持ち」を久しぶりに持つことができた。部下のリスクを共有する意志決定こそ管理者として重要な仕事である。
(注)この2年前に写真会社とカメラメーカーが合体した。この仕事は元カメラメーカーで推進されていた仕事で、上司であるセンター長とは初めて仕事をすることになった人間関係希薄の中での意志決定である。ただ、上司は仕事の中身とその重要性、そして当方の提案がそれらに与える影響を判断できたので、果敢な意志決定をできたのだと思う。ゴム会社ではこのような意志決定ができる管理者が多かったが、日本企業では、リスクも無くだれでもその答えを選ぶ、という状態でなければ決定できない管理者が多いのではないか?リスクを見極めた上でそれを回避できないならば、上司が責任をとる覚悟で意志決定できる管理者は、部下から見れば頼りになる管理者である。カオス混合の技術は、このような管理者の意志決定により生まれた。まさにこの仕事は「人の生活と人生において特別の絆を意味するものである」
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ドラッカーは「傍観者の時代」(1979)で、「テクノロジーとは、教養人やテクノロジストが考えてきたほど簡単なものではなかった。すなわちテクノロジーとは、人間の生産物に影響を与えるだけでなく、人間そのものを規定し、あるいは少なくとも、人間が自らをいかに見るかを規定するものだった。」と述べている。
この見解に至る前後で、その時代のテクノロジーに対する考え方を紹介し、「彼らの描くビジョンには、テクノロジーと人間特有の活動としての「仕事」を関連づけるものがないからである。」と、フラーやマクルーハンの描くテクノロジーを批判している。
そして「テクノロジーは「人の行い方やもののつくり方」に関わるものである。」と結論している。当方は、この欄の「科学と技術」で書いているように、技術(テクノロジー)は人間の営みそのものと思っている。この考え方は、ドラッカーの影響によるものであると同時に、33年間の技術者生活からたどり着いた技術に対する感想でもある。
現在でも暇を見つけて科学情報を得るために学会活動に参加しているが、科学と技術では、その使命が大きく異なっていると思う。科学の使命を忘れ、科学者が機能追求に走ると真理を軽んじるようになる。その結果昨年のSTAP細胞騒動のような事件が、科学の世界で起きたりする。ところが技術の世界で起きる事件は、ノーベル賞を受賞した技術者が、以前所属した会社に和解を申し出たところ、会社からは体よく断られるような人間くささが表面に出る。
破格の特許報償を請求し受け取りながら図々しい、というその組織メンバーの心が見えてしまうような大人げない金銭にまつわる構図である。これが技術者ではなく、その人物が科学者で、和解の対象がアカデミアならば円満解決し、話題にもならなかったかもしれない。科学において真理は一つであり、その一つの真理を大切にするのが使命だ。それに対し技術では機能を実現することが使命で、その実現方法は多数あり、気に入らないものは捨て去れば良いのである。
ドラッカーが「マクルーハンの洞察のうち最も重要なものは、「メディアはメッセージである」ではないのである。「テクノロジーは道具ではない。人の一部である。」なのである。」と「傍観者の時代」で紹介しているように、テクノロジー(技術)と人間とは切り離せない関係であり、科学の論理だけで技術開発は成功しない。ちなみに科学とは、テクノロジーの道具の一つと思っている。
カテゴリー : 一般
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二種類以上の高分子を混練するときにはコンパチビライザーが使用される。また微粒子を高分子に分散するときには、微粒子表面をカップリング剤などで処理して高分子に添加する。これは、現在のコンパウンド技術の常識の一つである。
これらの技術は、高分子の混練で組成物を製造するときに分散不良を解決したり、高次構造の緻密化を行う技術手段として知られているが、プロセシングだけでこれらを実現しようという試みはあまりされていない。
χパラメーターやSP値の考え方が普及しているからと思われるが、この考え方が新しいプロセシング技術の開発を阻害しているように思われるのは当方の偏見だろうか。コンパチビライザーやカップリング剤の技術に反対しているのではない。これらの手法をさらに効果的に発揮するためにも新しいプロセシング技術の開発は重要である。
例えば、AとB二種類の高分子を混練するときにABというコポリマーを数%添加して混練すると高次構造は細かくなり、コンパチビライザーの効果を確かめることができる。しかし、カオス混合をこの系に用いるとさらに高次構造は細かくなる。混練後急冷すれば相容状態で維持することも可能である。
高分子の組み合わせにより、コンパチビライザーを用いなくてもAとB二種類の高分子を相容させることがこのプロセスでは可能で、それを実現した透明なストランドを見ると、コンパチビライザーの働きよりもプロセシングの効果が大きいことを理解できる。添加剤や表面処理剤の開発と同じようにプロセシングの開発も高分子材料分野では重要である。
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パワー半導体の市場拡大とともにSiCウェハーの需要が伸びている。パワー半導体にはシリコンウェハーに代わりSiCウェハーが使用される。しかしシリコンウェハーのような大径化が難しく、現在は昇華法で製造されている6インチが最大である。
自動車分野では現在はハイブリッド車が主要なお客さんであるが、将来は燃料電池自動車や電気自動車の普及が見込まれ、SiC半導体分野は確実に市場が大きくなると言われている。
SiC結晶成長法には、昇華法とガス成長法、溶液法の3種類が存在し、古くから行われている昇華法が現在の主流で、ガス法では、成長速度が3mm/hと高いがなかなか大径化できていない。溶液法では炭素の溶解度をあげたり金属の混入を防いだりと、まだまだ課題が多い。
成長速度が遅い昇華法には限界があり、ガス法や溶液法が将来の主流、という見込みが立てられ、現在の開発の中心はガス法や溶液法であり、特許出願の主流である。ガス法はデンソーが、溶液法は新日鉄住金がトップランナーと思われる。
不思議なことに昇華法の成長速度を上げようという開発があまり行われていない。昇華法では公開された情報が多くその技術の限界が見えてきたからだが、それは科学的な視点による評価である。技術的視点では、昇華法にまだ可能性が残っている。弊社に問い合わせていただきたい。
すべての条件で、結晶成長速度の限界を昇華法では解決できない、という完璧な科学的な証明がされているならば昇華法の技術開発をあきらめても仕方がないかもしれない。しかし、この否定証明は現在のところ困難だろう。ガス法で成長速度の速い現象が見つかっているからだ。
カテゴリー : 電気/電子材料
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科学は真理を追究することが、技術は機能を実現することがミッションとなる。科学は、それゆえ分析的解析的仕事のやり方が主体となり、真理を追究する。分析的解析的仕事が中心になるので、専門の知識や論理学に秀でていなくては仕事を進めることができない。また、真理を見いだすのではなく作り出すことは捏造と言われる。
凡人でも成果を出せる唯一の科学的な方法は、発見である。科学の研究では真理を見つけさえすれば、それがゴールとなる。そして発見では、発見したオブジェクトの証明を科学的に行うことが求められる。発見されたオブジェクトにより、科学的証明が難しい場合がある。その時は繰り返し再現性を示し、その現象が事実であることを証明する。
繰り返し再現性を求めるという手法や手順は技術とつながる。技術は、自然界の機能を活用して、人間に有用な価値を生み出せるように作りあげるのが仕事である。そして、同じ機能を使っていくつかの商品をうまく作りあげる人のことを職人と呼ぶ。
技術者は、様々な機能を「見つけ出し」商品を作り出せる人およびそれを職業としている人である。科学の発見は偶然でもできるが、技術では機能を「見つけ出す」プロセスにコツが求められるので、多少の訓練が必要になる。
先日の「科学と技術(1)」で書いた「まずモノを持って来い」という指示では、機能を実現している実体を示すことが求められた。これはモデルでも許された。とにかく機能を実現できることを示さなければ開発を始めることができなかった。むちゃくちゃだ、という人もいたけれど、言葉で技術を語るよりも、機能を実現したモデルを示すことの方が説得力がある。技術者の訓練として大切である。
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米大リーグのレンジャーズを自由契約になった藤川球児投手が、推定一億円の提示をした阪神を蹴ってローカル球団の高知ファイティングドッグスに入団したニュースには続きがあり、その球団社長が無給という条件であることを明かした。
藤川球児投手はブログで「僕と妻の生まれ故郷の高知で、未来のスーパースターになるチャンスを持った子供達に僕が投げる姿を見てもらって今後の夢に繋げて貰いたい!」と思いを綴っているが、本音は、以前語っていた「自分を必要とするところで投げたい」と判断しての意志決定だろう。
シーズン途中であるが現在の阪神の中継ぎに藤川投手が加われば、と思ったのは当方だけではないだろう。しかし、藤川投手が肘の手術をしたことについて、阪神内部で心配している人たちがいる、とかねてから新聞報道されていた。
藤川投手が二流あるいは自己責任感の無い投手だったなら、そのような意見があったとしても球団の意志決定である一億円のオファーを受け入れたかもしれない。しかし、彼は一億円よりもプロの投手としての自己責任感からあっぱれな意志決定をした。
彼は、まだ若く、数年はスタープレーヤーとして活躍できるはずで、それを本人も自覚していると思う。一億円という金額を安いと判断したのかどうか、という議論が無意味であることはローカルリーグで無給という球団社長の発言から理解できる。
彼は、腐っても鯛になる道を選んだのである。実は大学を卒業した知識労働者も藤川投手のような意志決定をしなければいけない、とドラッカーは述べている。そうしなければ高い成果を上げられない、と断言している。
すなわち「農民が何をいかに行うかは代々伝えられていた。職人は仕事の中身、手順、基準についてギルドの定めがあった。今日組織に働く人たちは何も教えてもらえない。」と「断絶の時代」(1968)に書かれているように、知識労働者は藤川投手のようなプロ意識を持って自ら考え組織に貢献しなければいけないのである(注)。
「断絶の時代」(1968)P.F.ドラッカー(上田惇生訳)より
「今日組織に働く人たちは何も教えてもらえない。自ら意志決定を行わなければならない。さもなければ成果をあげられない。何事も成し遂げられずいかなる成功も収められない。」
(注)本来大卒以上の知識労働者は、組織に入るやいなや即戦力として活動できなければいけない時代である。しかし、大学にそのような準備と体制ができていない。科学の水準が高くて即戦力は無理だ、と言っていた大学の先生を知っているが、この発言は大学の使命を忘れた発言である。今大学教育で欠けているのは、「技術者」教育である。日本の教育カリキュラムにおいて、「技術」を取り入れている学校は少ない。そもそも科学と技術はイノベーションを引き起こす車の両輪のはずなのに「技術とは何か」という哲学科目さえ大学に存在しない。当方はゴム会社の新入社員研修で「技術」哲学を初めて習った。それはきわめて新鮮だった。花冠大学には未来技術研究所があり、そこで少し技術について女子大生が議論している(www.miragiken.com)。技術を扱っている珍しい大学である。
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昨日の(注)を書きながら、科学と技術について誤解されている人が多いのではないだろうか、と考えた。当方も新入社員研修で技術について学校教育で学んでいなかったことを初めて自覚した。実務についてから技術者という職業を考える毎日だった。指導社員はその手本として最高の人だった。
技術者の開発方法論を実務から学ぶことになったが、ゴム会社で高純度SiCの事業化を検討しているときの体験は学習として厳しいものだった。社長決裁のテーマだったのでつぶすためには、それなりの理由が必要で、一方継続するにも地獄であった。
当時のU本部長には厳しく鍛えられ、M研究所長にはやさしく癒やしていただいた。特にM研究所長については、瞬間湯沸かし器の異名が陰口として語られており、部下で叱られなかった人がいない、と言われていたが、当方は一度もそのような湯沸かし状態も見たことがなければ、叱られたこともなかった。いつでもよくがんばった、と褒められていた。気になったのは、いつも過去形だった点ぐらいである。
いつも褒められるときには過去形だったので、その後は新しいテーマを提案するようにしていた。するとM研究所長の回答は、「まだそれ、考えなくていいよ」か、あるいは、「すごいね、すぐにやりなさい」のいずれかだった。すなわち前者の回答の時には、「よくがんばった」は、過去形ではなく現在完了形の継続の意味だったのである。
M研究所長は、いつも親身に研究テーマを心配してくださっていた。U本部長とM研究所長の組織体制のままであったなら、転職するような事態になる事件が起きなかったと思う。55歳役職定年は研究組織の管理者にとって早すぎる年齢制度である。
U本部長は、大学の先輩でもあり、当方の性格をよくご存じだった。だから周囲が心配するほど辛辣な叱責が多かった。そして最後には、「まず、モノを持ってこい」が口癖だった。ところがM研究所長とは反対にU本部長は周囲の管理職から優しいと評判の方だった。また、日常はそのような紳士然とされた方だった。それだけにテーマ進捗の報告は、当方にとって地獄だった。
U本部長は厳しかったが、「モノを持って来い」という口癖に象徴されているように、技術重視のマネジメントであり、科学と技術について理解を深めるのには役だった。ちなみに「まず、モノを持って来い」は、当方だけでなく他の研究管理者も言われていたらしい。「本部長は手品のようにすぐモノができる、と考えている」という陰口がきかれた。
ただ、この陰口は間違っており、度重なる議論から知った本部長が意図していた意味は、機能の確認モデルが必要だ、という内容であった。たとえばこのようなことがあった。ECDの企画を説明しようとして秋葉原で液晶表示板を購入し、手作りでECDパネルを完成した。しかし、文字をうまく消すことができない。そのままテーマ提案の場で使用したところ、「すぐに文字が消えるように研究しろ」とテーマが認められた。
本部長が意図していたのはその程度で、企画内容で重要となる技術の機能についてどこまで真剣に考えていたかを知りたかっただけである。企画の説明資料に科学的内容をいくら書いてもだめで、重要なのは技術開発テーマ企画として技術の要となる機能が十分に検討されているかどうかである、と指導を受けた。
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