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2015.10/15 微粒子の表面処理

高分子へ微粒子の分散を向上するためにカップリング剤による微粒子の表面処理は常套手段として行われている。また、カップリング剤の一部については、その反応機構や微粒子表面の反応速度について研究されている。しかし、注意しなければいけないのは、研究報告の内容が技術へそのまま展開できないときがあることだ。
 
すなわちカップリング剤が微粒子表面で反応している、と信じて混練機で微粒子の分散を試みても、うまく微粒子の凝集が改善されない、とか、耐久評価試験をしたときにカップリング剤がブリードアウトしたりする場合がある。
 
また、カップリング剤による微粒子の分散処理方法は、ノウハウになっており、特許に書かれた材料の組み合わせや手順を行ってもうまく再現しない場合もある。特許が間違っているのか、というとそうではなく、手順の一部がノウハウとして隠してあるのだ。
 
それでもカップリング剤による微粒子表面処理技術のリバースエンジニアリングは比較的易しく、試行錯誤で実験を進めてゆけば、そのうちにノウハウが見えてくる。ところが高分子の吸着による微粒子の表面処理技術は、カップリング剤のリバースエンジニアリングよりも難しい。
 
そもそも高分子を微粒子に吸着させて表面処理を行う方法など教科書に書かれていない場合が多い。当方は、その手の教科書の執筆を依頼されると、シリカを凝集しないようにゼラチンに分散した技術を例に、高分子吸着による微粒子の表面処理技術について書くようにしているが、どのように見いだしたか、あるいはどのように評価を進めたかについては詳しく書いていない。
 
それは、微粒子に高分子を吸着させる表面処理技術は、ノウハウの塊であり、実用的な技術は科学で説明がつかないからだ。科学では説明が難しいが、技術はできており、できあがった材料について高分子学会などに報告している。
 
高分子吸着による微粒子表面処理の一番の利点は、高分子を用いているので、吸着していない処理剤がブリードアウトしにくい点である。カップリング剤による場合には、カップリング剤が低分子オリゴマー程度までの大きさしかないので、微粒子に反応せず余っている過剰なカップリング剤がブリードアウトする問題がどうしても残る。
 
先日熱伝導高分子の開発を指導していたときに、微粒子の表面処理を高分子の吸着で行い材料開発に成功したが、湿熱劣化の耐久試験で吸着剤がまったくブリードアウトしなかった。
 

カテゴリー : 高分子

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2015.10/14 創始者の評価

「中国のぱくり技術」と日本で話題になったりするが、かつて批判された日本の「猿まね技術」という評価を忘れてはいけない。日本はどちらかといえばオリジナルをあまり重視しない風土だと思っている。だから東京オリンピックロゴ問題が起きたりする。また当方も研究開発でいくつかいやな体験がある。
 
オリジナルデザインとかオリジナル技術に対する尊敬の態度、あるいは他人のデザインと比較して新しさの無いデザインが見つかった時とか特許に抵触した技術などに毅然とした態度を示すことは独創を大切にする風土を育てるために大切である。10数年前に高分子同友会開発部会の世話人代表を担っていたときに、M社の研究者U氏に技術賞受賞の体験談を語っていただき、技術マネジメントについて討論したが、この時創始者について議論になった。
 
その場に参加していた人たちの感動を呼び起こしたのは、技術賞受賞メンバーに人事異動で組織を離れていた担当者の名前を入れた話だった。すなわち、その担当者はテーマの企画から研究開発の初期の立ち上げまで担当したが数年経過した死の谷のためテーマの見直しが行われ人事異動となった。その後U氏がリーダーになってそのテーマを継続することになって事業として立ち上がったのだが、最初の立ち上げ担当者がいなければ本来育たなかった技術なので、どうしても受賞者に加えたかったというのだ。
 
研究開発テーマの中には順調に事業として立ち上がらないケースがある。事業まで難しいと思われる場合には、ゲートのチェック段階で中断するのかあるいは研究として少人数のメンバーに戦力を絞り継続するかの判断が出される。いずれの場合でも人事異動あるいは担当テーマの変更などで、研究開発テーマを最初に立ち上げたキーマンが継続して担当できない、という状況は企業では起こりうることである。
 
技術のすべてのエンジンを開発するなどいくらその担当者が重要な役割を担ったとしてもそれを無視する会社もある。しかし、M社には独創を大切にする風土があったという。結局その場では、独創の技術を生み出すには、企業風土の果たす役割が大きい、という意見でまとまったのだが、とどのつまりはU氏のような担当者まで創始者を尊重する意識が無ければこのような話は生まれない。
 
会社を退職して一年ほど過ぎた頃、退職直前の半年間、当方が企画推進した仕事が社長賞を受賞した、との連絡を受けた。そして担当者から記念品として水の入ったPETボトルが4本送られてきた。社長賞受賞の記念パーティーにはご招待できなかったが記念品だけ贈らせていただくという担当者のメモが入っていたが、素直にうれしかった。

 

カテゴリー : 一般

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2015.10/13 小牧市でツタヤ図書館、住民投票「No」

反対3万2352票、賛成2万4981票。小牧市で計画されている新図書館建設を巡る今月4日の住民投票の結果、レンタル大手「ツタヤ」を展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)と連携する計画は、一時停止に追い込まれたそうだ。
 
フォルクスワーゲンの不正事件にノーベル賞週間と続いた時の地方都市の記事を見落としていた。お昼のワイドショーでも扱ったところがあったので大きな話題なのだろう。インターネットでも検索するといっぱいニュースが出てくる。
 
公営図書館を民間に委託する公共団体が増えていると言うことは知っていた。しかし、その弊害も週刊誌で情報が公開されている。冷静に考えると、公共団体のサービスのまま運営したならば利益が出るはずのない業務を民間に委託する是非の検討を十分に行わず、安直に仕事が流されているように思われる。
 
今都内の図書館は、一時期の閑古鳥はいなくなったけれど昔の賑わいは無い。しかし、地方の図書館は不明だが、今の時代図書館は本屋同様に淘汰される運命にあると思う。だから民間に丸投げ、というのは短絡的で、民間に丸投げされた結果、風俗店の案内本が並んだり、昔から大切にされてきた郷土の歴史本が捨てられたりしたら、もうそれは公共の図書館の姿ではないだろう。
 
民間に丸投げする前に、図書館の必要性を地域住民と十分に議論すべきではないか。(おそらくこのような議論では不要とはならず必要という結果になると思われるが。)今本屋が減少してきており、老人にとって書籍に接する場所は公営の図書館以外に無くなってきているのである。だから都内の図書館は老人が多い現実があり、図書館の必要性を示す現象でもある。
 
少なくともこれから老人は増加傾向であり、時間をもてあました老人が気軽に行ける場所の一つとして図書館を残して欲しいと思っている。だから、民間に委託する前に、公共団体の敬老サービスの一環として図書館をまず見直す作業を行ってみてはどうか。
 
民間の経営により、図書館の基本に関わるいろいろな問題が指摘されているので、民間への委託を急ぐ必要はない。また、図書館が図書館でなくなるのなら、いっそのこと廃止統合を検討した方が良いだろう。図書館を必要としない地区もあるかもしれない。そのようなところは廃止すればよい。
 
しかし廃止する時に図書館の資料館としての役割を忘れてはいけない。廃棄してはいけない蔵書もあるはずなので、それは他の図書館で保存しなければならない。公共サービスには時代とともに不要となるサービスもあるはずで、情報化時代の図書館サービスも時代に合った内容にしなければ不要となる。しかしそれは民間への丸投げでは解決できない。もし役所でアイデアが出ないなら弊社へ相談し、安易にツタやなどへ丸投げしないでほしい。さすが知を愛する愛知県のベッドタウン小牧市住民の選択である。
 

カテゴリー : 一般

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2015.10/12 技術者は環境技術を軽視してはいけない(2)

特に製品の機能が向上するわけでもなく、さらにコストダウンにつながらない技術を開発するのは一工夫も二工夫も必要である。また、重要視されていないような課題の場合には、担当者のモラールにも影響する。今の時代は、環境技術のテーマは立派な開発テーマになるが、20年以上前は、まだそのような時代ではなかった。
 
脱AをテーマにしてみたもののAは必須成分となる実験結果ばかり出た。A類似化合物で良い感触が得られても、変異原性の程度が下がるだけで陰性物質は見つからない。そもそも架橋剤は反応活性が無ければ機能しない。反応性がある物質は変異原性試験で陰性にならないので、テーマアップにより、その難しさを正しくとらえることができた。
 
このような問題では、同一技術のカテゴリーで考えていたならば堂々巡りになるだけであり、全く新しい技術コンセプトでチャレンジしなければ新しいアイデアなど生まれない。また、新しいアイデアを生み出したいならば、思い切って今持っている技術を捨て去る勇気が必要である。
 
そこで従来技術を捨て、新しいラテックスを2種組み合わせてポリマーアロイとする新概念の技術を検討したら、すぐに脱A技術が生まれた。このあたりの問題解決手順にご興味のある方は問い合わせていただきたいが、新しいアイデアのために既存技術を捨てる勇気は重要である。
 
フォルクスワーゲン社の不正プログラムの問題でも技術陣が従来技術を捨てる勇気があったなら、不正に手を染めることはなかっただろう。エンジン技術者でない当方の言葉では説得力がないかもしれないが、マツダのディーゼルエンジンに採用されているスカイアクティブ技術はそのようにして生まれている。
 
マツダのディーゼルエンジンは、従来のディーゼルエンジンの常識に反し、圧縮率を下げるように設計された。ご存じのようにディーゼルエンジンには点火装置が無いので、圧縮率を下げた設計というのは性能低下どころか動作しないエンジンになる可能性がある。しかしあえてマツダの技術陣は、環境に適合した新しい技術を生み出すために常識に反した領域にチャレンジし新技術を生み出したのだ。

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2015.10/11 技術者は環境技術を軽視してはいけない(1)

技術が完成していない状態で、製品を市場に出さなければいけない状況というのは製品開発を行っていると遭遇する可能性がある。その時技術者はどういう選択をしたらよいのか。フォルクスワーゲンの事件で学習できたように絶対に不正な商品を市場に出してはいけない、ということだ。そしてこの不正の中には、環境に悪影響を与える「可能性のある技術」も含まれる。
 
不正ではないが、環境に悪影響があるかもしれない灰色の技術について、技術者は悩むことになる。しかし、今の時代は悩まずにそのような商品を出してはいけない、という決断をして欲しい。環境問題は、フォルクスワーゲン社の不正プログラム同様に企業が突然死(フォルクスワーゲン社はまだ死んではいないが)となるような事態を招く恐れがあるからだ。
 
20年以上前の話なので公開するが、転職してびっくりしたのは発がん性物質Aがフィルムに使用されていたのである。ただし、Aは反応前に変異原性試験で陽性となるが、フィルムの表面加工に使用されて商品になった時には、変異原性試験で陰性にかわる。ゆえに消費者には危険が無いので使用されていたわけだが、それでも、その使用については経営判断が常に必要なルールがあった。
 
すなわち写真会社の経営陣は環境問題に厳しい姿勢をとっていたのである。しかし、問題は技術陣である。とりわけフィルムの表面加工を担当していた技術陣は何故か脱Aという技術を特にテーマアップしていなかったのである。理由を聞くと解決策が無いので製品開発の中でそのための実験を行い、あわよくば問題解決しようという姿勢だった。
 
製品になった段階で危険性は無くなるのでそのような判断でも許されたのかもしれない。しかし、製造段階で関わっている人はどうなるのか。工場の現場でも保護具を始め安全対策で対応しているから問題ない、という答えがすぐに担当者から返ってきた。しかし、技術者は環境問題を軽く見てはいけないのである。
 
今の時代、環境問題は技術者全員が解決しなければいけない重要な問題なのである。たとえ経営判断が環境問題の評価を下げたとしても技術者は環境問題について妥協してはいけない時代なのである。環境問題は人類の努力とりわけ技術者でなければ積極的な解決ができないからである。
 
転職後グループリーダーになった時に脱Aをテーマアップした。しかし案の定予算を掛けられず、結局テーマアップしたものの、その進め方は製品開発の時に一緒に進めるというマネジメントになった。
     

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2015.10/10 技術者は不正な製品を市場に出してはいけない

毎日のようにフォルクスワーゲンの不正プログラムの話題がニュースで報じられている。当事者はこのような事態を想定していただろうか。毎日のようにTVからフォルクスワーゲンの名前が流れてくると、技術者はなぜ不正プログラムに手を染めたのだろうか、という疑問が強くなる。
 
経営陣が不正プログラムの存在を最初から知っていたとは思えない。やはり最初の決断は、技術開発の現場でなされたのだろう。32年間の研究開発では、類似した決断をせざるをえない状況をこれまで見てきた。しかし、不正な商品が市場まで流れ、長期間放置されたという経験は無い。
 
今多くの大メーカでは研究開発管理にステージゲート法あるいは類似の段階的管理を行っている。その時ゲートをすりぬけるために一時的に不正あるいは不誠実なプレを行う輩を見てきた。当方も不正とまではいえないが、商品化できない技術を画期的な技術として示し、開発方針の変更を企てたことはある。
 
ただし、その時は開発方針が変更され、そこで決まった投資により設備導入されるやいなや、すぐに商品化可能な別途準備していた技術に置き換えている。製造設備が無かったので、手元にあった設備で強引にある機能だけずば抜けた性能の技術を作りあげたのであるが、もちろんその技術を生産では使用できない。
 
商品化できないインチキプロセス技術で作った部品でデザインレビューを行い、量産技術検討のステージまで駆け足で持ち込み、パイロットプラントを作らずいきなり量産設備を立ち上げたのである。成功を確信していたのでできた芸当であるが、自信があっても、失敗したときの不安は常に少しあった。
 
当方がなぜそのようなばくちに近い技術開発をしなければいけなかったのか。それは、前任者がプレゼンテーションが上手な技術者で、できもしない技術をさもできるようにうまくプレゼンを行い、開発の各段階をすり抜けて量産ステージの手前まで進んだところで、当方に開発リーダーのバトンを渡したからである。本人はそのまま出世していった。不条理を感じつつも、とにかく成功させるためにやや不誠実な進め方をしたのである。
 
同様のことがフォルクスワーゲンの新車開発でもあったのかもしれない。米国市場へ投入するための環境規制に通過できるディーゼル車を開発できない、と経営陣に説明できなかったので、技術者が不正プログラムに手を染めた可能性はある。当方の体験は「生産プロセスの問題」における不誠実だったので市場に不正がそのまま出ることはなく企業にとって幸運だったが、フォルクスワーゲンではそのまま不正な商品として生産できたので、今回の結果となったのではないか。
 
ここで問題となるのは、技術者が不法な商品を市場に出すという決断をしたことである。科学者は性善説を前提として語られることが多い。技術者については、日常科学者ほどに善悪が問われることはない。しかし消費者には内部に造りこまれた機能を理解することは難しいので、やはり科学者同様の倫理が技術者に求められている。
 
サラリーマンにとって出世は生活の糧を増やすための唯一の手段である。しかし、長いサラリーマン生活で技術者は時として出世を棒に振るような決断をしなければいけない状況と直面する不運がある。その時どのような決断ができるのかは技術者魂の有無だと思う。出世がすべてではない、という言葉は負け犬の遠吠えではない。ユーザーにインチキ商品を提供するような技術で出世しても技術者としての満足感は得られないはずだ。
 
技術者は技術者として自己を厳しく律する決断をして初めて満足な人生を送ることができる。時には会社の上司の意図に反するかもしれないが、社会に損失をもたらす技術に手を染めてはならない。もしそのようなことをすれば、やがて会社にも損失として跳ね返ってくることになる。人生でどのような決断をしたかは、退職後の満足感として報われる。技術者は社会への貢献を常に志すべきである。
 

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2015.10/09 梶田博士の受賞の意味

梶田博士が受賞直後のインタビューで,何かに役立つという研究ではないので、とか研究者の興味で進めているような研究だから、と発言されていたのを当方は気になっていた。この感想は、謙遜ではなく何か卑屈に聞こえた。今日本のアカデミアの研究者はここまで追い詰められているのだろうか。
 
日本の基礎研究を推進する環境は30年前よりも厳しくなった、と言われている。確かに国家プロジェクトの成果発表会に行くと、研究内容について厳しい批判を聞いたりすることがある。また、プロジェクトも夢のある目標が少なくなった。
 
2000年頃NEDOの講演会に参加した時に、国家プロジェクトなどの研究評価の説明があり、国の予算で進められている研究について評価しランク付けをするとの厳しい内容があった。
 
恐らくそのことを指しているのだろうと思うが、梶田先生の同僚の感想として、研究の評価点が最低だったので今回の受賞を喜ばれているのでは、という意見まであった。
 
もし卑屈な受賞の感想の原因がそこにあるとしたなら、まことにお気の毒なことだと思う。ノーベルは人類に貢献した研究者のために自己の財産を投げ打ってノーベル賞を設立した。すなわちノーベル賞の精神では、今回の梶田先生の受賞は人類に貢献した研究として認められたのである。
 
確かに基礎研究についてそのテーマの価値評価は難しい。アカデミアの研究者には、本当にもうやめたほうがよい、と言いたくなるテーマを一生懸命やっておられる先生もいらっしゃる。
 
しかし、素粒子物理学の分野は、まだ未完成の研究分野であり、さらに日本のお家芸とも呼べる。素人が見ても大切にすべき研究分野を最低点にする評価者の見識を疑う。
 
すぐに研究成果が役立つような分野ではないことも確かである。しかし、研究に用いる実験設備などは先端技術が無ければ組み立てることができないので、周辺技術を育成するという成果を評価すべきではないだろうか。梶田先生の個人的興味の研究という発言は少しさみしい。
  

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2015.10/08 理論と実験

梶田博士の業績は、理論では質量が無いと予測されたニュートリノについて、実験で質量があることを示し、科学の定説をひっくり返したことだとニュースで伝えられた。ここで違和感を覚えたのは、科学の「定説」という言葉である。
 
まず、科学で定説となるためには、繰り返し再現性のある実験結果(自然現象の実際モデル)でその説が正しいと証明されてから認定されることである。理論だけで示された事象は、仮説にすぎないのである。
 
次に、実験による否定証明は、できないことを示せば良いので易しいが、肯定証明は実際に存在するという現象を示さなければならないので難しいという点である。また、否定証明は帰納的に論を進めることになりやすいが、数学的帰納法ならばいざ知らず、否定証明で展開された定説は、肯定証明でひっくり返る可能性があるということも知っておく必要がある。
 
これはイムレラカトシュの「方法の擁護」に書かれた内容の受け売りだが、質量の存在することを実験データを用いて肯定証明を行った梶田博士の科学における業績が、如何に難しい仕事であったかを知るには、この本を読むと良い。肯定証明の難しさが論じられている。秋の夜長の眠れないときには適した本である。
 
ここで思い出されるのはSTAP細胞である。世界各地の研究所及び多くの研究者により再現できないことが確認され、存在しないとされた。すなわち否定証明である。もし誰かがSTAP細胞を作り出したなら、すなわち肯定証明を行ったら、これもノーベル賞級の研究成果となるに違いない。
 
STAP細胞の騒動で歯がゆく感じたのは、STAP現象について基礎的なアプローチがなされていないことである。すなわち細胞に刺激、ストレスを与えるとは、どのようなことなのか、ストレスが加えられた結果、細胞内のレオロジーがどのように変化するのか、そしてその変化が遺伝子にどのような効果を及ぼすかについて誰か研究しているのだろうか?
 
当方の開発したカオス混合装置の技術にも関係するので、少し興味がある。もしかして、マイクロカオス混合装置を作成し、そこで細胞にストレスを与えたならSTAP現象が起きるのではないかとも思っている。カオス混合装置については、実用化されて10年近く稼働し普及し始めたが、その基礎研究は行われていない。なぜなら弊社の研究開発必勝法の成果で、科学でよく分かっていない機能を抽出し(ここに弊社の必勝法の特徴がある)タグチメソッドで最適化(だからロバストは高い)した技術(注)だからである。
 
専門外なので情報を持っていないが、STAP細胞の騒動のその後を見ていて、30年近く前と科学者の姿勢の違いに驚かされた。アカデミアで科学の研究に携わっている人は、一歩一歩足下を固めながら地道な研究の進め方をやって欲しい。
 
(注)科学で未解明の現象でも技術を生み出すために活用できる。これは「マッハ力学史」を読むと理解できる。科学は技術により先導されて誕生している。20世紀は科学が技術を牽引したかもしれないが、ここに来て科学の進歩が、あたかもCPUの進歩と同じように遅くなってきた。21世紀は技術で科学を牽引しなければいけない時代なのかもしれない。
 

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2015.10/07 今年日本人二人目のノーベル賞

ノーベル物理学賞の発表が昨日あり、今回日本人二人目のノーベル賞を東大梶田博士が受賞された。スーパーカミオカンデを建設された小柴博士のお弟子さんであり、日本の伝統的研究分野でその成果の継承がうまくいっていることを伺わせる。
 
成果については、昨日博士自身がインタビューで語られていたように、すぐに人類に役立つ研究ではない。しかし、そのことを申し訳なさそうに語っていた博士の表情から最近の研究環境の厳しさが感じられた。
 
小柴博士が受賞された時のインタビューでは、堂々とその成果と莫大な研究投資で可能になったスーパーカミオカンデを誇らしげに紹介されていたのを記憶している。そしてその分野で日本人が2-3人ノーベル賞を今後受賞するだろうと語られていたが、昨日その予言どおりになった。
 
1970年代に日本では基礎研究ブームがあり、企業でも基礎研究所を持つことがブームになっていた。また、通産省が積極的に基礎科学部門へ国家予算を投資していた時代でもある。バブルがはじけたころに国家予算についても厳しい見直しがされるようになって、昨今は大学の先生方からも厳しい研究環境の愚痴を聞いたりするようになった。
 
当方はアカデミアでも研究管理は重要だと思っているが、研究内容については企業でできないような研究を行ってほしいと思っている。学会に参加していて残念に思うのは、最近企業と同じような研究テーマを設定するアカデミアの研究者が増えてきたことだ。
 
ここは文科省が中心になり、基礎科学分野の研究者がノーベル賞の受賞を誇らしげに研究成果を語れるような研究環境を作っていただきたい。昨日の梶田博士の顔色から今後の日本の未来が暗くなるような印象を持ったのは当方だけだろうか?
 
 
 
 
 

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2015.10/06 中国人初のノーベル医学生理学賞

ノーベル医学生理学賞を大村智・北里大特別栄誉教授が受賞した。日本人として誇らしくうれしいニュースである。昨晩からTPPの合意とセットでニュースが報じられている。セットとしてはやや違和感があるが、昨日は二つもビッグニュースが重なったので仕方がない。
 
大村博士については、新聞各紙に報じられているので、中国人初のノーベル賞と報じられた女性薬学者に注目した。さすがにインターネットの時代であり、彼女について早くも取り扱っている日本語サイトがあった。彼女、屠氏は1930年、浙江省寧波市に生まれ、北京大医学院で、生物薬学を学んだ。漢方薬などを研究し、中国中医科学院の主席科学者に就任したが、博士号や海外留学経験を持たず、学士院会員でもない「三無教授」として知られていたようだ。
 
中国人ノーベル賞受賞者として彼女が何番目になるのか知らないが、毛沢東以後の中国人科学者としては初めての受賞になるかもしれない。昨日ネットに上がった記事には、中国本土の科学者がノーベル賞を受賞できない状況に触れ、「中国に真の科学者はいない」といった自虐的な声が挙がっていたところ、今回の受賞で「本当の意味での、初めての中国人の受賞だ」などと称賛する書き込みが殺到したことが紹介されていた。
 
この紹介文で注目したいのは、「本当の意味での」という表現である。日本でもノーベル賞受賞者の人数を紹介する時に「アメリカ国籍をとった日本人を含めて」と表現されることが多い。どうもノーベル賞受賞者を眺める時に、国籍ではなく、民族という意識で眺めるのは日本人も中国人も変わらないようだ。
 
20世紀の日本では、民族ではなく、大学の偏差値比較でも論じられ、「なぜ、京大は東大よりもノーベル賞受賞者は多いのか」という議論がなされたりした。大村先生の受賞で、山梨大学や東京理科大学出身者の研究者は喜んだのではないか。
 
科学関係の栄誉にはいろいろあるが、その選考過程や基準に関しある意味ファンタジーもあるノーベル賞は特別な存在である。その栄誉を受賞者だけでなく関係者も大喜びできるのは、他の賞にはない公明正大と思われる点だろう。無条件に誇りにできる栄誉なので、関係者のカテゴリーを狭い大学や民族にかこつけて喜ぶのかもしれないが、この賞の創設者、ノーベルは広く世界の幸福を祈っていた。

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