技術が科学の成果だけで成り立っているならば、その伝承は容易である。しかし、実際の現場では技術がうまく伝承されていない状況が存在する。あるいは、現場で行われている科学的に非効率な作業についてそれをやめたとたんに品質問題が多発するというような事件が希に起きる。
当方があるラテックスの製造プロセスを立ち上げたときに、ラテックスの合成を完了した後の物上げ前に、ひしゃくで表面を3回なでるようにラテックスをすくい、それをすてること、という怪しいプロセスを入れたことがある。この作業では、人を誤差に見立てて作業を行うと、捨てられるラテックスについてひしゃく一回分の個人差が出る。
当方が行えば1回の作業で済むが、それを誤差として見込み、2回ではなく3回としたのである。2回でも良いかもしれないが、このような誤差は万が一を考えて多くしておいた方が良い結果が出るという経験知を用いた結果である。しかし、そもそも計量器ではないひしゃくを使用する時点で非科学的である。
また、この作業自体無くてもラテックスの品質に影響しないが、生産スケールで4-5回に一回不良品が製造され、写真用の高価なラテックスを200l廃棄しなくてはいけない事態になる。1lスケールでタグチメソッドを用い最適化した製造条件であり、ロバストは高いはずで、原因が不明だった。また、小スケールで実験を行ったときには20回合成してもエラーは発生しなかった。原料ロットのばらつきでもなく、量産開始後に見つかった原因不明のトラブルだった。
ただ、ほかのラテックスの製造規格書を調べたときに、20年近く前に開発されたラテックスのプロセスでこのひしゃく作業が入っているのをみつけ、それを取り入れたところ、ロットアウトが無くなったのだ。おそらく製造後にできそこないのラテックスが表面付近に浮いており、その量がたまたま多くなったときにエラーが起きているのかもしれない。しかし、これを科学的に証明するのは至難の業である。
若い技術者が、証明したいと名乗り出てきたので、ひしゃくでくみ上げられたラテックスを集め、分析したことがある。しかし、10ロット分析しても原因物質を見つけることができなかった。挙げ句の果ては、当方の微量成分説を疑いだす始末。ただ、これについては、ひしゃく作業を行わない場合にエラーが希に発生するので誰もが信じたくなる説であり、科学の時代にこれをよりどころとしなければ気持ちの悪い現象である。ひしゃく作業が単なるおまじないでは、現場で採用していただけない。
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機能性微粒子を高分子に分散して機能性高分子とする手法は、昔から高分子の機能性をあげるためによく使われてきた手法である。例えば絶縁体である高分子に導電性の高いカーボン微粒子を分散した半導体高分子や、熱伝導性が無機材料の1/100以下という高分子にAlNやSiCなどの熱伝導性の高い粒子を分散し熱伝導性高分子を開発したりする。
この時の数値シミュレーションの手法として混合則が1990年前後まで使用されてきた。社会人をスタートした1979年に購入した複合材料の教科書に書かれていた材料物性の予測式もすべてこの混合則から導かれた式だった。当時の複合材料系の科学論文で考察に使用されていた式も混合則だった。
一方数学者の間では、パーコレーションの理論が古くから議論され、1980年頃にはスタウファーによる学生向けの著書も出版されている。当方もこの教科書に触発され、1980年中頃にはパーコレーションと混合則の両方を使用し、LATTICE Cを用いてプログラム開発を試み、転職してしばらく暇なときにそれを完成した。
パーコレーションの理論も混合則も科学の世界で生まれた高分子の微粒子分散系を議論するための考え方である。しかし、科学では真理は一つなので、今高分子の微粒子分散系を議論するときに混合則を持ち出す人はいなくなった。
ただ実務で材料物性を見積もるためにちょいと計算したりするときには混合則は重宝する。パーコレーションをシミュレートするソフトウェアを持っていても、電卓をたたいて答えを出せる混合則は、今となっては非科学的ではあるが微粒子分散系高分子材料の技術開発における便利なツールである。
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教育システムにおいて科学が唯一の知識として標準化されているので、どこへ行っても技術者は、仕事に関連する情報を読み科学的な成果を出すことができる。ドラッカーは、「創造する経営者」(1964)の中で、「ほかの者と同じ能力を持つだけでは、十分ではない。そのような能力では、事業の成功に不可欠な市場におけるリーダーの地位を手に入れることができない。」と、差別化の重要性を指摘している。
これを技術者に限定すると、科学の時代において科学の知識だけを持った技術者は、今国際競争力の有無が問われている。語学力は常識となるが、意外にも技術者の「技術」について、技術者自身が国際競争力をつける方法を知らない。また、学べる場所について多くはない。本屋に行っても技術について書かれた本は少なく、町の本屋では揃えていないところもある。
弊社ではヒューマンプロセスによる問題解決法プログラムを提供しているが、これは非科学的な内容も含む「技術者」向けの教材である。依頼された企業の実情に合わせ教材を作成している。なぜそのような面倒な作業を行うのか、それは「技術」の教材だからである。
先のドラッカーの著書に、「成功している企業には、常に、少なくとも一つは際だった知識がある。そして全く同じ知識をもつ企業は存在しない。」とある。
これは面白い指摘である。真理は一つという科学の時代にあって、成功している企業には、科学と異なる知識が存在する、と言っているような指摘である。もし今日の日本のメーカーが科学知識だけで成功してきたとしたのなら、現在停滞している企業は差別化できなくなっているからで、ドラッカーが指摘しているように当たり前のことではないか。
一方、現在でも成功している企業は、科学知識以外の知識で差別化ができているからではないか。そしてその差別化するための知識は、世の中で知られていない高度な科学知識か、あるいは非科学的知識のいずれかである。教科書に書かれている科学の知識で説明できるノウハウはもはや差別化技術にはならない時代で、非科学的なノウハウを作り込んでゆかなければ差別化が難しい時代である。
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科学について小学校から大学まで、そして企業に入ってもその知識を学ぶことになる。しかし、技術について、メーカー以外に学べる場所があるのか?少なくとも現在の日本の教育システムでは、技術について学校教育で学ぶ機会が無いのではと懸念している。
また、技術について書かれた本が科学について書かれたそれよりも少ない。問題解決法に至っては、すべてが科学的である。非科学的な問題解決法では、科学の時代において恐らく誰も買わないからかもしれない。
科学の便利なところは、真理が一つなので、同じ現象についての説明はどの本を読んでも、仮に表現が異なっていても、同じことが書かれている。例えばフローリーハギンズ理論の説明では、二次元格子に二つの高分子を押し込み、そのモデルで自由エネルギーを論じ、χを定義し、そのχで高分子の相分離を説明している。
また、科学は論理学に基づき議論を展開しているので、義務教育で学んだ数学の論理を理解していると、少なくとも10回繰り返して読めば、どのような専門領域の内容でも一通りの理解ができる仕組みになっている。わかりにくければ、論理展開について自分なりの図を書いてみれば説明を理解できる。
ドラッカーは、「創造する経営者」(1964)の中で、p144「知識は、本の中にはない。本の中にあるものは情報である。知識とはそれらの情報を仕事や成果に結びつける能力である」と述べている。高等教育を受けた技術者が科学の書籍を読み、日々の仕事で容易に成果を出すことができるのは、科学の知識が身についているからである。(明日に続く)
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ドラッカーの「傍観者の時代」には、彼の技術に対する考え方が出てくる。基本的な彼の考え方は、「テクノロジーこそ、哲学、文化、美学、人間学と結合されるべき」、すなわち技術を技術者だけにまかせていてはいけない、ぐらいの考え方である。
技術が人間の営みである以上彼の考え方は正しいと思うし、技術はそのように発展してきた時代もあった。それが科学の時代に科学と技術が結びつき、悪いことに科学主導で技術が進歩したために、環境問題を引き起こした。
人類は技術進歩による環境破壊を問題視し、その解決策の一つとしてISO14001をまとめている。環境破壊は大きな問題だが、それをとりあげた「科学技術は人類を救うか」というTVドキュメントがかつてあったが、このタイトルのセンスは悪いと感じた。
科学は哲学の一つであって、科学=技術ではない。技術者が科学を重視しすぎたために自らが開発した技術の環境への影響評価を忘れたのだ。そもそも技術は人間の生活感と結びつかなければいけない。人間が自らを幸福にするために技術を真剣に考えるならば、技術の将来は、人間の幸せを約束するだろう。
このような技術の未来について語るときに、科学との関係認識が重要であるように、日常の問題解決においても科学の活用方法を正しくすることも大切である。すなわち取り扱おうとする問題が、科学ですべてが解明された分野に属しており、結果が明らかなときにだけ、科学の成果を活用すると技術開発の効率をあげることができる。
しかし、完全に科学的に解明されていない現象の機能を技術として採用するときに、科学に縛られると問題解決を難しくする場合がある。悩ましいのは教科書に書かれている科学の成果にも、その現象の真理がすべて解明されていない場合があるのだ。技術開発において科学的方法以外にヒューマンプロセスによる方法があることを覚えておくと鬼に金棒である。ご興味のある方はお問い合わせください。
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ペンタックスから新しいデジタル一眼レフカメラが発売された。K-3Ⅱと名付けられたそのカメラには、面白い技術が使われている。リアル・レゾリューションシステムと呼ばれている技術がそれで、ベイヤ配列のイメージセンサーで泣き所と言われたモアレの発生を0にして画像を高精細化する技術である。
原理的にモアレの発生が無いイメージセンサーとしてカメラメーカーシグマが採用しているFOVEONが知られている。これは、RGBの各色のセンサーを縦に層状に形成した構造で、イメージセンサーの一つのセルでRGB各色の情報を得ることができる。ベイヤ配列の欠点を克服するために科学的に考え出された技術であることは容易に想像できる。
しかし、ペンタクスのシステムは、その方式から根性で考え出されたような技術に見えてしまう。ペンタクスの一眼レフは、K-7と名付けられた機種からイメージセンサーを磁気浮上状態で振動させる手ぶれ補正機構を採用している。K-7、K-5、K-5Ⅱ、K-3と手ぶれ補正の効果を順次改良してきた。
このメカニズムを使用して画像の水平を補正する機能までつけたりして、磁気浮上センサーを活用する方法について、とことん考えている。少なくとも製品を通してみえる技術者の頭の中には、イメージセンサーを磁気浮上で制御することだけが常にあったように想像される。
そしてセンサーを制御してベイヤ配列の各RGBの素子へ光を導くシステムを発想したのだと思う。FOVEONについては科学的な雰囲気が漂っているが、リアル・レゾリューションシステムには技術者の根性のようなモノが見え隠れするのは当方だけだろうか?
当方のカオス混合技術も科学ではなく根性のたまものだが、PPSと6ナイロンを相容させるなど科学では説明できない現象を引き起こし、ナノオーダーの混練まで可能にするびっくりするような技術ができた。但しど根性ではなく、由緒正しい再現性のあるヒューマンプロセスの根性で考案された。ちなみに高純度SiCの前駆体合成技術も、ゾルをミセルにしたラテックス重合技術、PENの巻き癖解消技術などの成功体験も同様である。
もちろん酸化スズゾルを用いた帯電防止技術や、防振ゴム、ホスファゼン変性ポリウレタンフォーム、フェノールフォーム天井材、ポリマーアロイ下引き、再生PETを用いた射出成形体など科学的に出した成果も存在する。科学的プロセスとヒューマンプロセスをうまく使うことが大切である。
カテゴリー : 電気/電子材料
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「道具としてのテクノロジーと、文化としてのテクノロジーが一つのものになるのが、実に「仕事」においてである。」とドラッカーは、「傍観者の時代」(1979)で述べている。すなわちテクノロジーをものの行い方やつくり方としてとらえ、かつ人と社会に関わるものとしてとらえている。
科学では論理の厳密性が要求され、真理をねじ曲げ新たに捏造することは許されない。しかし、テクノロジーでは人類に貢献できるように臨機応変、柔軟に変更することは許されるのだ。21世紀はじめに「コト」の時代であることが叫ばれた。すなわち新しい「モノ」ではなく「コト」を考えろ、といわれた。
しかし、せっかく新しい「コト」が提案されても、従来通りの科学に隷属した技術開発を行っていては、新技術は生まれない。科学におけるものの行い方では、論理で制御された行い方しか許されない。その結果、科学的に証明される当たり前の技術だけが生み出される。
科学で未解明の機能は、たとえそれが有用な機能であっても使うことが禁じられる。これでは技術の進化は科学を追い越すことができないだけでなく、科学の進歩が止まったとたんに技術の進歩も停滞する。
「マッハ力学史」によれば、技術は人類とともに生まれ進歩してきたが、科学はニュートン以降に生まれ進歩している。確かに技術は科学のおかげで20世紀に急速な進歩を遂げたが、あくまで科学が便利な道具として使われ、それが急速に進歩したからである。その道具の進歩が遅くなったなら、科学以外の方法も活用し、人類は技術を進化させなければいけない。
人類がこれまで価値を生み出してきたのは技術の進化のおかげで、その進化を止めれば新たな価値を創造できなくなる。「コト」で価値が創造されたなら、その「コト」を実現するために新たな技術開発も必要だ。非科学的方法論が重要な時代になってきた。
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2005年の夏は、家族とのしばらくの別れという寂しい思い出の季節となるはずだった。押出成形で高級機用中間転写ベルトを開発する「仕事」を成功させるために豊川へ退職までの5年間単身赴任することになったからだ。ところが外部のコンパウンドメーカーが当方のアイデアを採用してくれなかったばっかりに、自分でコンパウンド製造ラインを半年以内に立ち上げねばならなくなった。その結果、毎週東京へ自費で帰るような生活となった。
単身赴任した亭主が毎週のように帰ってくる妻の気持ちはどのようだったか知らないが、子供たちの喜んでくれた顔がうれしかった。しかし何よりも難儀な仕事を格安で引き受けてくれた根津の中堅企業の心意気がうれしかった。設備を発注するまでは、目の前に失敗の二文字が頻繁に現れていた。
この仕事は、研究開発も満足にやっていないカオス混合プロセスの実用化という技術開発であり、これが成功する科学的根拠は無かった。むしろχが正となる二種の高分子をコンパチビライザーを使用せず相容させようとするフローリーハギンズの理論に挑戦した非科学的な技術のため科学的に考えると失敗確率がきわめて高かった。
しかし科学の論理よりも30年近くの技術経験に裏付けられた機能設計の可能性に賭けた。さらに成功すれば高分子技術、とりわけ混練技術に大きなイノベーションを引き起こすことも魅力的であった。この仕事で実現されるのは、現代の科学で否定される現象だが、ポリスチレンとポリオレフィンをコンパチビライザーを用いず相容させる技術について、ポリスチレンの分子設計という30年以上前の卒論で鍛えた合成技術で成功した自信が、リスクへの心配よりも十分に大きかった。
「テクノロジーとは、人が人に特有な活動としての「仕事」を行うための、目的意識に基づく人工の非有機的進化に関わるものである。」とドラッカーは、「傍観者の時代」(1979)で述べている。この言葉の後には、「しかも人の行い方、つくり方、働き方は、人の生き方、人と人との関わり方、自らの見方、そして詰まるところは、人が何であり誰であるかに対してさえ重大なインパクトを与えるものである。そして何よりも、「仕事」とは、人の生活と人生において特別の絆を意味するものである」と続いている。
当方は技術者として、仕事の成功に対して不安は無かった。しかし、「たった半年という短期間でコンパウンド工場を子会社で立ち上げる常識はずれな仕事」としてこれをとらえたときに、それを後押ししてくださった元カメラメーカーの上司(注)の意志決定には頭が下がった。この仕事だけはどんなことがあっても成功させる、という「強い気持ち」を久しぶりに持つことができた。部下のリスクを共有する意志決定こそ管理者として重要な仕事である。
(注)この2年前に写真会社とカメラメーカーが合体した。この仕事は元カメラメーカーで推進されていた仕事で、上司であるセンター長とは初めて仕事をすることになった人間関係希薄の中での意志決定である。ただ、上司は仕事の中身とその重要性、そして当方の提案がそれらに与える影響を判断できたので、果敢な意志決定をできたのだと思う。ゴム会社ではこのような意志決定ができる管理者が多かったが、日本企業では、リスクも無くだれでもその答えを選ぶ、という状態でなければ決定できない管理者が多いのではないか?リスクを見極めた上でそれを回避できないならば、上司が責任をとる覚悟で意志決定できる管理者は、部下から見れば頼りになる管理者である。カオス混合の技術は、このような管理者の意志決定により生まれた。まさにこの仕事は「人の生活と人生において特別の絆を意味するものである」
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ドラッカーは「傍観者の時代」(1979)で、「テクノロジーとは、教養人やテクノロジストが考えてきたほど簡単なものではなかった。すなわちテクノロジーとは、人間の生産物に影響を与えるだけでなく、人間そのものを規定し、あるいは少なくとも、人間が自らをいかに見るかを規定するものだった。」と述べている。
この見解に至る前後で、その時代のテクノロジーに対する考え方を紹介し、「彼らの描くビジョンには、テクノロジーと人間特有の活動としての「仕事」を関連づけるものがないからである。」と、フラーやマクルーハンの描くテクノロジーを批判している。
そして「テクノロジーは「人の行い方やもののつくり方」に関わるものである。」と結論している。当方は、この欄の「科学と技術」で書いているように、技術(テクノロジー)は人間の営みそのものと思っている。この考え方は、ドラッカーの影響によるものであると同時に、33年間の技術者生活からたどり着いた技術に対する感想でもある。
現在でも暇を見つけて科学情報を得るために学会活動に参加しているが、科学と技術では、その使命が大きく異なっていると思う。科学の使命を忘れ、科学者が機能追求に走ると真理を軽んじるようになる。その結果昨年のSTAP細胞騒動のような事件が、科学の世界で起きたりする。ところが技術の世界で起きる事件は、ノーベル賞を受賞した技術者が、以前所属した会社に和解を申し出たところ、会社からは体よく断られるような人間くささが表面に出る。
破格の特許報償を請求し受け取りながら図々しい、というその組織メンバーの心が見えてしまうような大人げない金銭にまつわる構図である。これが技術者ではなく、その人物が科学者で、和解の対象がアカデミアならば円満解決し、話題にもならなかったかもしれない。科学において真理は一つであり、その一つの真理を大切にするのが使命だ。それに対し技術では機能を実現することが使命で、その実現方法は多数あり、気に入らないものは捨て去れば良いのである。
ドラッカーが「マクルーハンの洞察のうち最も重要なものは、「メディアはメッセージである」ではないのである。「テクノロジーは道具ではない。人の一部である。」なのである。」と「傍観者の時代」で紹介しているように、テクノロジー(技術)と人間とは切り離せない関係であり、科学の論理だけで技術開発は成功しない。ちなみに科学とは、テクノロジーの道具の一つと思っている。
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二種類以上の高分子を混練するときにはコンパチビライザーが使用される。また微粒子を高分子に分散するときには、微粒子表面をカップリング剤などで処理して高分子に添加する。これは、現在のコンパウンド技術の常識の一つである。
これらの技術は、高分子の混練で組成物を製造するときに分散不良を解決したり、高次構造の緻密化を行う技術手段として知られているが、プロセシングだけでこれらを実現しようという試みはあまりされていない。
χパラメーターやSP値の考え方が普及しているからと思われるが、この考え方が新しいプロセシング技術の開発を阻害しているように思われるのは当方の偏見だろうか。コンパチビライザーやカップリング剤の技術に反対しているのではない。これらの手法をさらに効果的に発揮するためにも新しいプロセシング技術の開発は重要である。
例えば、AとB二種類の高分子を混練するときにABというコポリマーを数%添加して混練すると高次構造は細かくなり、コンパチビライザーの効果を確かめることができる。しかし、カオス混合をこの系に用いるとさらに高次構造は細かくなる。混練後急冷すれば相容状態で維持することも可能である。
高分子の組み合わせにより、コンパチビライザーを用いなくてもAとB二種類の高分子を相容させることがこのプロセスでは可能で、それを実現した透明なストランドを見ると、コンパチビライザーの働きよりもプロセシングの効果が大きいことを理解できる。添加剤や表面処理剤の開発と同じようにプロセシングの開発も高分子材料分野では重要である。
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